田久保 英夫 『触媒』 (文藝春秋)

 紙風船は押せばへこむ。それっきり戻ってこない。ゴムまりのように弾みもしない。とらえどころのないこの日常とは、そんな紙風船のようなものであろうか。押してへこんだ部分に存在の証しがある。生のリアリティがある。そこを〈非日常〉と言おうと、〈異〉と形容しようと、そのくぼみに拠ってならば生き得る。「文学的」に現実と関わるのもそういう一点をテコにしてであろうと思える。

 この小説は、九年前に「深い河」で芥川賞を受賞した作家が四年がかりで書き継いだ、一千枚を越す長編である。作者は「戦争中、輸送船の乗組員として亡くなった兄」への鎮魂を託したという。そして「自分の育った時代の地層にひそむ、さまざまな根」(あとがき)に関わりながら、日常のくぼみを形象化しようとする。そのとき、事象に向けられた正確な言葉の選択はかえって詩的である。現代人の、希薄であやふやな生は陰陽の境に漂い、身じろぎを繰り返す。

 六十年安保の余熱がほとんど冷めた頃に一組の男女が婚約を交わすところから物語ははじまる。女は「いろんな音がいっぺんに耳について、夢中になると鼓膜が痛む」という神経性の病を持っている。婚約後、病はさらに進み、発熱をともなうほどである。女は母が早くに病死し姉とも歳が離れすぎていたため、父の元で「甘やかされて」育った。

 主人公の「耕介」は、婚約者を父からはがし自立させるという希求めいた衝動にとらわれていく。この衝動には、女の父への憎しみや対抗意識もはりついている。二人の結婚にこの父は当初から否定的であり、女の姉がかつて恋人との仲を父によって引き裂かれた経緯も「耕介」の意識に重層的におおいかぶさる。
 
「気密の空間」を求めて信州の片田舎に赴いた二人は、、ちょっとしたいさかいのあと、後になり先になりして雪山を越える。死線を踏みまどいながら「耕介」は、

「咄嗟にそこに、自分をあまりに深く断念し、突き殺す気配を感じて、思わず手を離した。」

 というほどの「他人の内部の暗闇」を感受する。それは、男と女の普遍相である。「自分と他人とが、微妙に分岐するあわい」の原型と言ってもよい。だからこそ、二人は最後に結婚することになるが、「耕介」にとってのそれは「敦子というひとりの相手だけではなくて、他人への向かい方」として認識されるのである。そしてこのことが、現代人の日常の生に深く通じている空虚かも知れないのだ。
 個々の生存がになう、靄のような、煙のようなくぼみは、現実との強い接触に裏打ちされていることが、この小説によって改めてわかってくるのである。