黒井 千次 『家兎』 (講談社)

『五月巡歴』以後、つまり昨年後半に発表された「空地」「家兎」「帰宅」の三篇に、それ以前の「短い旅」「石の遊び」「声の山」を併収した小説集である。それぞれに、日常の虚性を衝いて倦まずといった強靱な揚力が感じられる。それは、ありきたりの日常に対置するものを持たぬ現代への反措定であり、さらに生存そのものに矛先を向けた鋭い問いかけでもあるということだ。

 たとえば「短い旅」の主人公は、雨の朝にいつも利用する電車の線路に沿って勤め先までの約二〇キロを歩きはじめる。歩くことによって男が見るものは「まだ濡れて動いているいわば現在形の記憶」である。歩くという行為には、手垢にまみれた“労働”にはない純粋な肉の行使がはりついているかのようである。数時間後に会社に辿りついた男はすでに出勤の意志をなくしている。喫茶店に入って、朝自分が出てきた家に電話をかける。再度の電話で、当然居るべき時間に誰も出ないことを知り、男は不安に駆られて家路を急ごうとする。しかし、
「今日の旅は始点と終点が逆だったかも知れぬ。こちらから出発し、自分はどこに帰りつくことができるのか、それを確かめるのが本当の旅ではなかったか。」
 という感懐を持つに至るのである。

「石の遊び」は栃木県烏山市に実際に伝わる民話を「宙ぶらりんな」現代人に架橋した作品である。〈ぼく〉と〈男〉は「何回コールしても出ない電話を機縁に親しくなる。〈男〉は地方都市の観光協会が流す民話テレフォンサービスへ電話をするが話し中のために通じない。一方〈ぼく〉は出る人がいないためにかからない電話を呼び出している。二人はやがて“共犯者”のように寄り添って、民話にのめり込んでいく。とりわけ「座頭石」の話が二人を虜にする。

 この話は、村一番の意地悪者のために崖に転落して死んだ座頭が「人が蹲った形の苔むした」石と化して「世の中を泥海」にするために崖をはい上がる、それを「下にゆけぇ」と口々に叫びながら村人が小石を投げつけて阻止する、そんな民話らしからぬ伝承である。二人は現地に出かけて、座頭石の前に立つ。動かない石に苛立ち、投げつけられた形跡のない小石に「虚ろな感じ」を覚える。そして、崩れかけた心の均衡にとどめを刺すのは〈男〉の方である。

「俺か、あんたか、どっちか落ちてみるか?」
「落ちた奴は下から恨みをこめて登ってくる」
「やはりぼくが落ちよう。押してくれ。」
 と〈男〉は言う。〈ぼく〉は嫌な遊びだと思いながらも、目の前の“他人”を突き落とし、石を投げつける幻景から自由になれない。ここでも、生存にむけた作者の目配りの多層性が際立っている。
 
 近作三篇は現実により傾斜した形で表出される。日記形式の表題作「家兎」において、兎の死を見つめるさりげない眼はことさら清澄である。