古井 由吉 『哀原』 (文藝春秋)

 文学が人のもっとも切実な関心につくとき、それは有無をいわせぬ破壊力で想念の深奥をうがつ。現実と夢の間(あわい)に漂う数知れぬ涙が、ふと涸れたりする瞬間である。
 たとえば「今からが眠りという刻が/なんとしてもわかりません/まして生き死にの間なぞ」(石原吉郎)という境地なら、誰でも覚醒の経験を持っているはずだ。そこには、人間の生活を、時間をさかのぼる一本の思い出の道としてやりすごそうとする虚無の原野がぽっかりと大きな口を開けて待ち受けている。

 この本には、表題作のほかに八つの短篇が収められている。いずれも、死の世界に相対した観念の極みに拠って、日常の生を照射する。筆致は即物的である。日常生活の中にひそむ狂気のありようを形象化するのに、この文体がきわめて有効に使われる。

「哀原」は、死病に取り憑かれた男の、死ぬ前一週間の生きざまを描いたものである。男は肺癌である。夢の中で原っぱにうずくまっていたり、一年ほど前に関係があった女のアパートに転がり込んだりする。そうして、死への出立ちを準備しているように見える。後半は女のアパートでの男の様子を、女の口を通して語られたものとして、友人である私が書きつづる。語りは二重に事物の形象をまとう。そこでは、性的な関係で結びついた男と女が抱く、それぞれの不安、期待、夢といったものの距離が、遠くもなく近くもなく測られている。男は、こんな風に措定される。

「女と遊ぶ男ではない。そのつどのめりこみ、のめりこませ、もう長年愛憎を閲したような感じで寄り添わせ、一月二月でふっつり逢わなくなる。」
 こういう男に対する女は、男が死んだことはまだ知らずに、
「−−わたし、苦しみを一緒させてもらって感謝してるくらいなんです。(略)あの人も長年こらえて生きてきたのだから、人生のなかばにせいぜい一週間ぐらいわたしみたいな女のところで狂って休息してもいいはずです」
 と言い得るのである。

 哀原というのは地名とされている。数年前に心中した男の妹が夢に見た故郷のどこかを感じさせる原っぱである。そこで、母親がよくひとりでうずくまっていたと妹は言うのだ。男も、そんな非実在の原っぱに膝を折りたたんでしゃがみこむ。
「野狐が人間の姿を棄て、人間の思いを棄て、草の中へ躍り込むのも、こんなものだろうか。」と考えながら。

 死にまつわる想念のおもむきは陰惨で暗い。そんな人の思いそのものを、ただ見つめられる存在と化し、ひるがえって肉体のよぶ恐怖を語る。まことに恐ろしい小説集である。ただ、生存する者をいったんは「遠い記憶の情景」と見据えることによって、より明確に見えてくるものがあるはずだ。あえていうなら、現代の風貌、であろうか。