三木 卓 『かれらが走りぬけた日』 (筑摩書房)

 死の世界を思わせる谷間や野畑、草原などに踏み込んだ少年たちの幻想冒険譚、というと通俗的だが、ここで作者は、大人へ向かう時期の不定形な心性を「死と再生」をモチーフとしてかなり巧妙な仕掛けで形象化している。

 晩夏の夕暮れ、植物園の横を歩いていた中学生の浩二は見知らぬ青年から「素晴らしいキー・ホルダーをあげよう」と呼び留められる。「雫になっている液体」のようなキー・ホルダーに自分の家の鍵がつけられ、それは植物園の中に投げ込まれる。学校の体操用具置き場で一夜を過ごした浩二は次の朝、親友の和也、下級生で双生児の陽子、月子とともに植物園に出かける。そこで一匹の蝶の羽化を目撃する。この蝶は「犬が象になったくらい」大きいベニヒカゲだった。

 四人は蝶を追って、「真空の孔に吸い込まれるようにして」アーチをくぐり抜ける。アーチの向こうには、いまは廃屋となっている、かつての温室がある。ここは四人にとって「非行少年のかくれが」とも「若い研究者たちの実験場」とも想像される。いずれも未知の世界である。

 四人の少年少女は蝶を追いかけながら、高い崖っぷちに立ち、谷川のほとりの丸太小屋に辿り着く。そこには馬の頭部を彫り続ける少年がひとりで住んでいる。さらに、海のように広い雛罌粟の畑の向こう側の草原で、白い少年を首領とする一群に取り囲まれる。彼らは安産のお守りのみみずくをすすきの穂で作ることをその仕事としている。四人は、荷車を曳いた馬を駆って競争したり、陽子、月子とそっくりの風子、土子(四つ子のうち生まれることなく死んだ二人とされる)の出現を受ける。

 谷間や一面の花畑は「紅葉野」と呼び慣らわされる。傷ついた少年少女が思い思いの姿形でうずくまり、横たわっている。競馬で落ちた、川のほとりの少年が「安物のシロップ」の匂いを発しながら消えていく。そんな紅葉野とは死の世界であるらしい。

 この世界は「はじめもおわりもない日々しか予定されていない人」のものである。一方この世界を抜け出ることができるのは「生命の限り生きる根拠を持っている人」である。浩二はこの世界の風子と「太陽に向かってたがいに絡み合うことを頼りに伸びていく蔓草」のように抱き合うが、やがてもうひとつの世界へと還ってゆかねばならない。

 死と再生、いわば成人へのイニシエーションを象徴するものは蝶である。蛹からの完全変態と似せた形で少年のめまぐるしく清澄な感受性が保証される。再生へのイメージは、たとえば「いちばん良かった時から遠ざかる感じ」「(雪の原で)ぼくの足あとさえなければうしろの世界も美しかった」という風に描出される。
 こういう哀傷は、ときに会話を平板にするとしても、現代的生存への射程に繰り込むならば、独特の地平を展くはずである。つまり、少年と大人という対立項を両義的に立たしめた作品とも言い得るのである。