丸山 健二 『水に映す』 (文藝春秋)

 時代という言葉に「事大性」を嗅ぎとる性癖から自由でないところに現代の特徴を認めるとすれば、文学の世界はそういう現代の尖鋭部分を形作る。谷間を通り抜ける霧のような冷ややかな“気分”に対して、錐をねじ込むようにして言葉を突き立ててゆく。それは日常の生を生きるよりもおそらくは辛い仕事であろう。拒絶以外の反応を導き出せない自己を想定してみるとき、この世界での辛さ、惨めさ、口惜しさは明瞭な輪郭で立ち現れる。

 ここには十二の短篇が収められている。七七年一月から一二月の一年間にわたって、毎月一篇ずつ発表されてきたもので、この十二篇はおのずとひとつらなりの空間を形成している。いずれも一人称による語りの体裁をとっている。「私」「あたし」あるいは「ぼく」の内的秩序は一応保たれているとみてよい。つまりそれぞれの一人称がになう生存は、うちに噴火口を擁し、外に対してきわめて暴力的である。生の恥辱、憤怒、痛恨、苛立ち、不安に満ちた「私」であるのだ。それらが関節を折り曲げるようにはずみのついた文体で、非現実を縫って展開される。

「海の鐘」では、大航海時代にスペインの難破船が漂着したと伝えられる島へ取材に赴くテレビ局勤務の「私」を扱う。それまで、カメラを向けることによって「大勢の他人を理解したつもりでいた」私は、白痴の島の少女が二人の男と草むらで抱き合うのを見て「狂ったみたいにわめき散ら」す。取材の目的は他局に出し抜かれることによって不首尾に終わるが、滞在中「私」には突然男と逃げた妻のことが脳裏を離れない。この妻は一番身近な他人である。この、関係性からの拒絶は「鷽(うそ)の昼下がり」「トライアルのテーマ」においても濃密にしみこまされている。

 前者は、やや偏執狂じみた教え子から鷽をもらった教師の語りである。この教師は、妻子が街に買い物に出かけている数時間を「同じ場所でおなじ恰好で横たわって」いる。

 彼(教え子)は野生のけものと同じで、一場の夢を追ったりせず、死についてもさほど深刻に考えず、身を折りかがめてひたすら生き延びてしまうだろう。
 やがて私はあべこべに質問されたのだ
「先生はなんで動かない?」

 動かない数時間は「私」の思考停止のためのものであり、上のような教え子とピッタリと貼り合わされる時でもあるのだ。

 秀作である「バス停」や「焚火にしては」では、出自ともいうべき「ひな」に対する愛憎両面の感覚が、荒野のような都会生活を背景に浮き彫りにされる。いずれも、何年ぶりかにふるさとに帰る「あたし」や「私」を取り扱うが、血によってつながる共同体を捨てることによって内面に得るものと、そこからずり落ちるものが、正確な射程で書き込まれる。