日 録 ルネサンスから芸予地震まで

2001年3月1日(木) 

 終日雨。昼過ぎ、壊れたビデオ内蔵テレビを車に積んで、リサイクルショップに行く。かねて「関心」を寄せていたお店である。太ったおばさんが後部座席に躯を突っ込み、「これで製造年だけ確認させてください」と箱のふたを開けてコードを調べる。「93年式ですね」専門家としてわが意を得たりの風情。指示されるままに箱から出して、店の入り口近くの台に載せる。電源を入れるが、持ち主だった娘が言うようにテレビは映らない。次はビデオの試験。「あ、映りますね」とおばさんは少し喜んで奥の電話に飛んでいった。その間にも新しい客が来て、いかにも気ぜわしそうである。本店か本部に問い合わせている。チェーン店であったとはがっかりである。「申し訳ありません。引き取れません。ビデオ用にとって置かれたら」つまりこの場合、ただでも引き受けられないということである。粗大ゴミが4月1日から有料になるというので、こっちも重い腰を上げたわけである。車に再び積み込んで、一路市役所へ。別の用事を済ませたあと環境課で処理方法を聞く。4時までなら直接持ち込めると聞いて、養護学校前の処理施設「川角リサイクルプラザ」に向かった。
 右に折れ、左に折れして、ぬかるんだ道を行くこと20分。越辺川沿いの、一昔前なら、不良グループが果たし合いをするような、いやこんな形容は古い、ドラマのロケで霧のなか麻薬の取り引きが行われ、あげくに撃ち合いが始まるような、そんな荒涼とした風景の中に略称「リプラ川角」はあった。ゴミの山の上に箱ごと捨ててきた。帰り道で、受付にいた年配の婦人の姿を思い起こし、あんな荒涼とした景色のまっただ中で人が普通に働いていることが妙に懐かしく、また羨ましく思えたのだった。

 3月2日(金)

 未明に、みぞれから雪。日替わりで寒暖が繰り返す。温度差10度というのは、記憶の惑乱をもたらす。車を運転しながら、雪景色になじむのにしばしの時間がいる、と思う。この雪もいつしか止んで朝にはからりと晴れていた。風は強く、なお冷たい。

 3月4日(日)

 昼まで、はげしい雨。その後晴れはしたが、今日は一日何も思わざりき。これを書きながら言葉がどんどん変容していく。「熊の敷石」読売新聞の読書欄にてべたぼめ。(署名記事)こんなに褒めていいのかとちょっと心配になる。それは、この小説がつまらないなどと言う人はバカである、と言っているように思えたからだ。文学ファッショでなければ、ヒステリーの口調である。もっときちんと、つまり距離をとって批評すべきである。真の批評家ならば、の話だが。

 3月5日(月)

 この十年生活にかまけすぎた、という反省が湧く。詩の雑誌「ミッドナイトプレス」到着。もう11号である。季刊だから次の号で丸三年。スタッフにも恵まれているのだろうが、岡田幸文(編集長)、山本かずこさんは、よく頑張っている。彼らは生活を度外視している。と言って悪ければ、生活の成り立たない地点を生活の足場にするという矛盾を引き受けている。頭が下がる。学生時代、お互いに遠くから長い間見つめていた友が、親しくなってから述懐した。近寄りがたい「秀才」と思っていたがけっこう「生活臭い」ね、と。前者は明らかに揶揄だったが後者はほめ言葉に聞こえた。それがいま疎ましい。想像力とは対極の世界、しかし生きていくためには欠かすことのできない場面、それを回避して、なんの文学か、と信じていたのだった。学生あるいはその延長線上で、観念だった故に生活臭く振る舞い、いまは現実そのものだから観念に逃げていくのだろうか。「熊の敷石」の賢さにちょっと引いてしまう所以である。
 はじめに言葉ありきであった。元来秒刻みのデジタル文化とは波長が合わない人間である。夜に書いた文章を一字一句のこだわりから次の日には別の文章に変える。そうやって言葉と向き合うことを唯一の矜持としてきた。

 3月8日(木)

 昨日の夜はとても寒く薄着を悔やんだものだが、案の定今日は昼過ぎからみぞれまじりの、冷たい雨。5,6ヵ月前に突然「黄変」した旧式のパソコン(NEC98シリーズの一つ)のディスプレイを手にいったん外に出たが、雨のために家の中に逆戻り。このパソコン、現在はワープロ専用機として使っている。「筆」が進まないのは黄色い画面のせいだと当てつけてきた。サービスセンターには先日電話を入れて確認していた。その場で見積額も出せますから持ってきて下さい、と言われている。その前に、NECに問い合わせたところこの機種に合うものはない、いや液晶タイプであることはあるが18万円ほどするという返事。中古品で出まわっていないかと2軒に電話をした。ここでは笑われてしまった。いまどきそんなもの出ませんよ、と言うのである。九年ほどしか経っていないのに、もう骨董品扱いである。というわけで最後の手段が修理なのであった。しかし時ならぬ天候のため先送りである。
 夜の天気予報では、真冬なみの大型の寒気が上空を覆い、あちこちで雪が降っているという。鹿児島や広島の映像がテレビで流れていた。横なぐりの雪であった。 

 3月9日(金)

 今夜も寒い。冴えわたった空には満月に近い月が見える。月と言えば明恵上人。「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかや月」 ごつごつしいリズムは、この寒さ以前である。 

 3月11日(日)

 俳句に凝っている友人から「宅俳便」が届く。電子メールに一句だけ乗(!)せてあったり、数句まとめて乗せてあったりする。純粋に俳句のみで余計な文言はない。言葉の屋上屋を重ねることを嫌うのだろう、あるいは、俳句の鮮度が落ちることを警戒しているのかも知れない。このことは、友人の性格をよく表している。それはともかく、ついこの前の俳句で「花明かり」という言葉を教えてもらった。その句を引用しておくと「童(わらべ)駆ける 夢野に淡く 花明かり」 友人は一哉という俳号を使っている。昔一緒に同人雑誌をやっていたときのペンネームである。そのときは詩を書いていた。「花明かり」の桜満開までは、あと半月ほどか。ところで、淡くは彼がわざと薄くしたのかと思いきや、こうやって書くと薄く見えるんだな。発見。そもそもテキストファイルで文字の加工などできないんだった。メールで芸が細かい云々と書いて返信したが、きっときょとんとしたことだろう。ああ、顔つきが浮かぶ。当方としても、とんだ早とちりだった。

 3月12日(月)

 今日も寒かった。午前中に雪がちらつき、夜はみぞれっぽい雨であった。

 3月13日(火)

 一日一日が短く、あっという間に過ぎていき、一週間前のこともはるか遠い昔のことのように思える。1月1日未明、21世紀の夜明けをその目で見ることもなく逝った義弟は療養中に病院から電話をかけてきて「いいとこですよ。気持ちが集中できて。できれば代わってあげたいですよ」と言ったのである。二年ほど前の当時、すでに治療は過酷を極めていたはずなのに、この「実姉の夫」には冗談めいたことを言いたかったのであろう。こちらとしても、代われるものなら代わってやりたい、と義弟の言いたかったこととは逆の意味で考えていた。車を運転しながらときおり義弟のことが思い出される。死の一週間前に見舞った配偶者には「俺も土に帰るのか」と呟いたかと思えば「あ、蝶々を捕まえた。ほら、お姉ちゃん手を出しなよ」と夢うつつのような仕草をした。それでも、その数日間だけは、意識の混濁も少なく、いずれ回復していくのではないかと希望が持てるほどの容態だったという。地上のことはいずれ夢幻と化していく。そんなことのために、気を病んでも仕方ない。つい向きになって言わずともよいことを人に向かって吐くのは、天に唾をするようなものであると思い知る。電話で年長者と口論。

 3月17日(土)

 杉浦明平氏の追悼文で川村湊が文芸復興の予兆を語っている(朝日夕刊)。そのルネサンスの言葉に触発されて七年前の切り抜きを引っ張り出してきた。宮内勝典さんの「文芸は必ず復興する」というエッセーである。例えばこんな一節。「時代を飛びかう言葉のいきつくところ、最終的な言葉はやはりここ(文芸誌)に印刷されている。(中略)文芸書が商業的にふるわないからといって、文学は死んだなどというのは子供じみている。人が苦しみ、悲しみ、思考し、意識し、共感共苦しながら互いにわかりあいたい、もっと深くコミュニケートしたいと願うかぎり終わることはありえない。もっと極端にいえば、私たちの脳や心があるかぎり文学は発生しつづけるだろうし、必要とされるだろう。」改めて勇気づけられる。思えば20代の頃は、いろんな小説を読んで人間を学んできたような気がする。実体験と等価な、いやそれ以上の世界がそこには開かれていたのである。生活も哲学も言葉による表現を通して臓腑に沁みていった。いわゆる腑におちるというやつである。

 3月19日(月)

  5月下旬の陽気という。駐車場で顔見知りの料理店店主とばったり。時候のあいさつのあと、その人が半袖であることに、言われてはじめて気付く。この日録をかぎりなく fiction に近づけていくよう試みよう。

 3月20日(火)

 仕事仲間の若者たちと酒を飲む。親子ほどにも歳は離れているがバカさわぎが苦でないひととき。明日オーストラリアに旅行に行くという奴に電話、さすがに来ないだろうと思ったら「一時間で着くから待っていて欲しい」と言うのだった。その行動力は見習わなければならない。ピールから酎ハイ、日本酒まで久々にかなりの量を飲んだ。冷えた富久娘はうまかった。駅から2キロの道のりを歩いて12時30分頃帰宅。ふらふらであった。すぐに布団に潜り込んで、翌朝七時まで熟睡。 

 3月23日(金)

 デジカメで撮った写真をパソコンに入れるよう若い者に依頼する。一人のノートパソコンにCD−RWドライブが装着されていないことでまず挫折。もう一人にノートパソコンを持って来てもらってデジカメ付属のドライブソフトを入れようとするもWindows98でないためにうまくいかず。2つ目の落胆である。彼らのうちの一人が、立教大の情報講座を持っている先生を呼び出す。名前を聞き忘れたがこの先生が手際よくソフトを自分のパソコンにインストールして、写真をファイルに落としてくれる。作業に入って6時間後に決着。先達はあらまほしきものなり。それにしても、気さくな、その方面では優秀そうな、またエネルギッシュな若者であった。名刺を渡してお礼。後日自分の名刺も持参するとのこと。

 3月24日(土)

 午後3時28分頃、安芸灘を震源とする地震が発生した。震源の深さ51キロ、地震の規模を示すマグニチュードは6.4。広島、呉、松山となじみのある街が大きく揺れ(震度5〜6)、被害も報告されている。広島では大学生活を5年間送ったし、松山には古くからの友人が新聞社の支局長として赴任している。呉は、学生時代世論調査のバイトで何回も訪れている。坂の多い、崖に人家が張り付いたような街である。大災害になってもおかしくはない構造だったと記憶している。松山にお見舞いメールを入れる。報道する立場だから二重に大変だろう。午前0時過ぎに「無事」との返信メールが入っていた。中国新聞のホームページを覗き、25日付の地震関連の記事を拾い読む。呉でひとり亡くなっている。安芸灘が「地震の巣」であるとも書かれている。50年前、100年前にそれぞれ大地震に見舞われている。活動期に入ったと専門家の不気味な報告もある。島嶼部の被害が大きく深刻とも書かれていた。テレビで映像が流された下蒲刈島は、友人の持ち山へミカン狩りに行ったことがあって、記憶している。水道などのライフラインがいかれているという。一日も早い復旧を祈るのみ。

 3月25日(日)

 旅がしたい。西に向けて旅がしたい。ここ何年かは、京都以西へは足を踏み入れていない。 

 3月26日(月)

 留守番のつもりで出勤する。いや一つ仕事はあったが、着く早々に発熱のためキャンセルの電話が入る。そのあとは、誰も来ないだろうと思ったら、置き薬のセールスマンも含めて計5人が訪れる。人が来てくれるのは、いいことである。風、強し。春の嵐とまではいかない。夜はけっこう冷えた。

 3月28日(水)

 大江健三郎の『取り替え子』を数日前から読んでいる。感想は読了してからとしても、ずいぶん読みやすくなっている。このところ、田舎の景色や、ずっと昔のことを思い出したり、夢に見たりする。「とっかえっこして!」というのは幼い頃の常套句だったが、この小説の意図は、モノではなく人間であるのだろう。

 3月31日(土)

 昨日の夜から、寒さが戻ってきた。花冷えと称されるようななまやさしいものでなく、昼過ぎから本格的な雪が舞う。4月の雪は何年か前に経験した記憶があるが、気温はそんなに低くなかった。ゆうべ、春だからね、と誰かが言っていたが、このきまぐれに心がざわめく。
「就活」(大学生の就職活動をこう略すらしい)の一環として来月北海道に行く息子のために航空券を買い求める。できるだけ安いやつを、とカウンターで依頼すると熱心に探してくれる。朝6時30分発が○○○○円、7時が云々、8時以降はみんな同じです、と言う。結局10時発のにする。航空券を届けに行く途中右折する場所を間違えて、対向車線に入ってしまった。事なきを得たが、ゾッとした。 3月も今日で終わる。ちりゆく桜を愛でながら、明るい4月を迎えたいものである。


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