日 録 冬の贈り物 

 2001年12月1日(土)

 朝まだ暗き5時半、北海道に出立する配偶者を駅まで送る。ケヤキ通りは、行き交う車、一台もなし。帰りには空がところどころ、黒ずんだ墨色から灰白色に変わっていった。ああこれが薄明だった、と感動。夏の頃には期せずして何度も体験していたのに、随分久しぶりな感じがした。
 思いがけなく、心のこもった長文の手紙をもらい、こちらにも感動した。便箋3枚にびっしりと書かれていて、こういう“世界”を忘れてはいけないとも思った。ここ2,3年は電子メールに頼り切っている。用件だけで済ませられるときにも比較的長く書く方ではあるが、電子のことばは、所詮電子の効用しかもたらさない。肉筆には叶わない、と知るべきである。

 12月2日(日)

 昨日「電子の効用」と書いて随分逆説的な言い方をしてしまったと思った。記憶はされるが目の前からは消えると言いたかったのである。いまは昔、手紙や葉書の類(いわゆる私信)を郵便屋さんが運んでいたとき、それらは何回も読み返され、引き出しや段ボール箱に保管され、毎年のように引っ張り出され、その都度あらたな感興をもたらしてくれた。なによりも、固有の時間を愉しむことができたのであった。どちらにも「効用」はあるのだが、たまには便箋に向かってみたくなったのはたしかである。
 社員に各一台貸与された、当時はけっこう高価だったワープロ機で恋文もどきを作って手渡すと相手は突き返さんばかりだったのが思い出される。軽率を恥じたものだった。これも昔々の話である。

 12月3日(月)

 なぜか朝から憂鬱だった。理由はだいたい想像はつくが、結果としていまひとつ元気が出なかった。こういうめぐり合わせの日そのものが不可避のものならば、俯いているより敢然と前を見つめている方が精神衛生上はいいのだろう。夕方、病院からの帰りと思しき配偶者が職場に電話を寄越した。電波が弱いのかこっちの声がなかなか届かなかった。何度かもしもしを繰り返しているうちに話が通った。「名前が書けた」「トイレに自分で行けた」と脳梗塞で倒れた義母の様子を弾んだ声で伝えていた。嬉しいニュースに憂鬱も吹き飛んでいった。

 12月4日(火)

 朝方、外は雨が降っていた。久しぶりの雨だった。昼過ぎには止んで、肌寒い曇り空に変わった。三衞の言い草を真似れば、若い者に囲まれている職場では元気になれる。夜、そんな若者のひとりが授業の前に、眩暈がすると言って机に俯してしまった。顔は蒼白く、ずっとそのままの姿勢でいる。そのうち吐き戻しにトイレに立ったりした。前にもこういう「発作」があって、寝れば治った、と言うから、すべての仕事が終わった3時間半後自宅まで送っていく。「明日病院に行った方がいいよ」と言うと「はい。大学の医務室から紹介状を書いてもらってはいるんですが、なかなか」と苦しそうに答えた。忙しい男だから、疲れから来るのか、それとも心因性のものか。こちらは皮膚病以外の病気を知らずにここまで来たが、歳に関係なくするりと侵入するものだろう、魔物のように。頑強な肉体を持つ彼(かつて高校球児であった)ならまず大過ないであろうが、心配ではある。
『midnight press』14号が到着した。川上春雄氏の追悼文が3本載っている。『吉本隆明著作集』の解題を担当した人として記憶に残っている。この著作集はいま、『初期詩篇T』一冊しか手元にはないのだが。

 12月5日(水)

「東京音頭」との不幸な出逢い、と思ったものだ。「日曜喫茶室」でゲストのリクエストによって流れたとき、こちらは寮生活で覚えた「もう一つの歌詞」が頭に浮かんできたのだった。ひとりきりの車内とはいえ口にするのもはばかられるほど下品な代物だ。春歌であるのだ。そのゲストの吉川潮氏は自身のペンネームの名付け親である西条八十の作詞であるから、とリクエストした訳を披瀝していた。ついでにヤクルトファンです、とも言った。彼我の差は大きい。寮内での酒の席では先輩がつぎつぎと替え歌を披露してくれた。田舎出身の新入生には新鮮な驚きをもたらし、やがて「背徳的」というか「退廃的」というか独特の世界になじんでいった。ところで改めて静聴すると「東京音頭」の正しい歌詞は、なかなかいい言葉が連ねられている。だからこそ、替え歌にもなったのだろう。諧謔精神というやつである。芸能人でいま替え歌をやっているのは管見によれば嘉門達夫という人だ。ほぼ同世代と見たが、どうだろうか。

 12月6日(木)

 ベランダに置き晒しだったゴムの木を玄関に戻した。誰かに聞いた記憶を頼りに、濡れた布で葉を拭いた。半分枯れかかっている葉もあった。茶色く変わったその部分も、汚れを取るように、水気を与えるように、拭いた。玄関に置いている時に葉がぽろりと落ちることが何度かあって、陽に当てるためにベランダに出したのだった。そのなごりで大きな葉は極端に少ない。小さな葉があちらこちらから生まれ始めているから、養生して冬を越せば、と思っている。20年近く前、高島平在住の大事な人からゴムの木を預かり、ついに枯らしてしまった「前科」がある。いまのはわりと小さい木から1メートルを超えるまでに育ったのだが、二の舞は避けたいと思った。
 ビラ作りのために休日を返上して出勤。4日に続いて、久しく足を運ぶことがなかった高島平を往還した。続くときは続くものだ。 夜遅くコンビニに用があって外に出ると、あたり一帯が視界10メートルほどの濃霧に包まれていた。

 12月8日(土)

 二年間いた寮のことを替え歌のついでに思い出していたら、友人から、偶然同じ職場になっている一年下のルームメイト(こんなスマートな言葉は当時は使えなかった)が「とても懐かしがっている」というメールが届いた。その男のことはよく覚えている。二年目になると、5人部屋にひとりだけ上級生が残り、新入生4人と起居を共にする“きまり”になっていた。その4人のうちのひとりである。一応「面倒を見る」立場だったから、何から何まで知るようになるし、記憶にも鮮明に残っている。それが寮生活の真髄なのだろう。ところでこの寮は、カギ形に連なった元陸軍被服廠の一部を使っていた。赤煉瓦の重厚な建物で、爆心地から数キロ離れていたこともあり、原爆が落とされても壊れなかった。住所が「○○町官有無番地」というのであった。これにはびっくりした覚えがある。「番外地」みたいなものかと想像しながら行ったが、いま振り返ってみれば、多少そういう気配もあったわけである。

 12月9日(日)

 昨夜遅く練馬の義妹を訪ねてタラの粕漬けなるものを大量にもらってきた。男ふたりの生活を憂慮しての差し入れだった。今朝、いざ焼く段になって、切り身をおおう酒粕をどうしたものか、思案にくれた。しばし考えた末、そのまま魚焼き用のオーブンに突っ込んだ。表面は真っ黒に焼けこげたが、味はなかなかよかった。あとで聞いたところによると、酒粕を取るか、アルミホイルに包んで電子オーブンに乗せるのが“正しい”調理法らしい。今度はそれで試してみよう。
  ここ数日で、冬の記憶が戻ってきた。それまでは、15度になっては寒い、10度を切っては寒い、と時候の挨拶のように言っていたにすぎない、と思い知る。本当の寒さではなかったのだ。
  そして今夜も絶対冷気に包まれていく。

 12月10日(月)

 勝手にメールを送信するウィルスに感染したようだという電話が、朝入った。こちらにも来ている可能性があるので、メールを開く前にウィルス検出ソフトを更新しておこう思い、最新版をダウンロードした。ところが、夜、それをインストールして再起動すると、「例外OEが発生しました云々」と表示が出てパソコンの中に入っていけなくなった。息子を呼んであれこれ試してもらったがダメで、半ば諦めかけていた。30分後やっと中に入れたので、原因はその検出ソフトにありと見極め、削除してもらった。すると動き始めたのである。なんとも皮肉な荒療治となった。メールを見る前に、どんな手立てをするか、思案中である。

 12月12日(水)

 専用庭の生垣の葉を切るチェーンソーの音で目覚めた。うつらうつらしているとそのうち航空機の爆音が聞こえた。上空が航路に当たっているらしいが、地鳴りのような、耳障りな音は珍しかった。たまりかねて起きた。こんな朝もあるものだ。チェーンソーの音は2時間経ったいまも続いている。
「バッドトランスB」という コンピューターウィルスに関する資料と修復ツールをダウンロードした。20数枚にもわたる説明を何度か繰り返し読んでいるうちに、なんとなく分かるから不思議だ。もちろん、プログラムの奥深いところはさっぱりであるがどんな「悪さ」を「何によって」仕掛けてくるか、は分かった。一昨日、未明から明け方にかけて、インターネットエクスプローラ6をインストールした。そのあとメールを開くと、はたしてウィルス添付のメールが届いていた。時間はかかったが事前に教えてもらったおかげで感染は回避できた。明日は、修復ツールを持って、知人のパソコンのウィルスを撃退に行く。俄かバスターである。うまくいけばの話だが。

 12月13日(木)

 田舎の母から荷物が届いた。大根5本と味噌、お茶の他に、毎年恒例の漬け物が大量に入っていた。この漬け物は、赤い小さな大根(名前はサクラダイコン? かも知れない)とその葉を漬けたもので賞味期間は短いがすこぶる味がいいのである。何年か前には、家族4人であっという間に平らげ、催促がましい電話をした記憶がある。すぐにまた送ってくれた。着いた旨の電話を掛けると「もう今年が最後になるかもしらん。腕が痛くて痛くて」とめずらしく弱気なことを言う。医者に通って注射をしてもらい、薬も飲んでいる。筋肉が縮んでいくせいだと言われたらしい。「もう80になるから。動かすと痛くなるんだ、かといって動かさないとダメになるし」。のんびりと、何もせずに暮らせばいいよ、と言って電話を切った。
  今日はまた、長芋、林檎などももらうことになった。夕食には、長芋を下ろして、卵の黄味を添えた「月見」と洒落てみた。粘りがあってこちらも美味であった。父は自然薯掘りの名人と言われていた。小さい頃やってみたことがあるが、とてつもない根気が要る。折らずに全部取るなど至難の技に近い。それを父はやってのけ、家の前の畑に穴を掘って保存しておくのである。こどもが帰ってきたり、客人があったりすると、すり鉢に下ろしたものを入れ、みそ汁などと一緒に懸命に摺っていくのである。ご飯にかけると、とろけるような味わいがあった。もちろん、そのまま醤油をかけて食べても抜群の味がした。今日もらった長芋は、その粘りがどこか自然薯と似ていた。
  実は、書くのを中断してさっき三浦哲郎氏の短編「じねんじょ」を読み返してみた。笑いを誘われながら読み終えたと思った瞬間、哀しくて、涙が出そうになった。凄い小説だ。

 12月14日(金)

 交叉点の角の、そば屋の二階。10人も入れば窮屈になるほどの小さな部屋である。これから何かの会合が始まるはずだがいまのところ自分を入れて、誰と特定はできない2,3人がいる。前にも何回か出てきた場所である。そこに至るいきさつはそれぞれ違うが、目の覚める直前にきまって障子戸を開けて下の交叉点を見下ろすのだった。こんどのは、嫂に電話しながら、手に取るように見える人や車の流れを眺めている自分がいた。黄昏の時分である。この夢には、どんな秘密が隠されているのだろうか。ちょっと気になった。

 12月15日(土)

 タラの粕漬けから始まって、大根、漬け物、林檎、長芋、また林檎と、この一週間はいろんなものをもらった。今日はまたSAZABYの「Afternoon Tea」であった。くれた人もさまざまならば、海の幸・山の幸からブランドものまで「物」も多彩であった。共通点は、もちろんある。その物に込められている心根がまっすぐ伝わってきて、どれもが嬉しかったことだ。
 社会経済的には、年齢がどんどん逆行しているのではないかと、直観した。ついでに精神年齢などを言い出せば、確実に実際よりも10は若い(幼い?)はずだ。生物的な加齢と、どっちが“みかけ”か自分では分からなくなる。このまま“亢進”すればやはり恐ろしい、と思った。

 12月16日(日)

 高校生がやってきて、「美容室で髪切って、ついでに染めてくる」と言った。見ると元の黒髪が伸びて、上の方だけ金色に輝いている(こういうのを「プリン頭」と呼ぶらしい)。「いっそ、真っ白にでもしたらどうだ」とからかうと「雪をのっけたみたいにですか」と返された。数時間後に戻ってきた。「染めなかったの?」と訊くと「やめました」とプリン頭を撫でた。理由は言わなかった。聞かなかった。

 12月18日(火)

 早朝の「ゴミ出し」のために目覚まし時計をセットしておいた。昨夜用意したビン・カン類を入れた袋を持ってゴミ置き場に行くと様子がおかしい。第三火曜は別の種類の収集日とわかる。どうやら日程表を読み違えたらしい。いったん戻り、新聞とペットボトルを2回に分けて出す。計3往復することとなった。内も外も空気がやけに埃っぽく感じられた。出し終わるとすぐに電話が入る。再び布団にもぐり込む気が失せ、こまごまとしたことを片づけながらぼんやりと過ごす。するとまた電話が鳴った。義母の回復が順調であることを知る。日日の経過は時に矢のように早く、また慌ただしく、愕然ともするが、「時」が解決することもあるはずである。冬の陽射しは、時々刻々と空気の色を変えてきた。二度寝をしなかった功徳かも知れない。

 12月19日(水)

 きのうの深夜、地図の“記憶”を頼りに新しい道を走った。二車線のバイパスを越えしばらくは気分も上々だった。十数分後、交叉点の案内板を見てヘンだと気付いた。北に向かうところを、西方の町が表示されている。脇道にそれて、運よくあかりがついていた女子大構内の守衛室に駆け込み仮眠中の門衛を起こした。眠そうな眼をこすりながら、幾通りかの道順を教えてくれた。「この辺は込み入っているからな。いちばん安心なのはバイパスに戻ることだ」「バイパスから来たんですけど」「それじゃ、左折してすぐの信号を左に折れて、しばらく行くんだね。お店があるから、またそこで聞きな。左に曲がりすぎると、またここに戻ってくるよ」何とも不吉な忠言だった。屋敷林に囲まれた淋しい道を半ば勘をたよりに走り抜けた。中継地点の目印と思い決めていた禅の名刹「多福寺」が左手に現れたときは、正直ほっとした。前日のゴミ出しにつぐ失敗。パソコン内の地図を今度はプリントアウトして、どこで間違えたか、検証しなければならない。

 12月20日(木)

 長ネギ一本手に持って、ためつすがめつしながら、ふと我に返った。これは何のための仕草だ? 長ネギを買うなど、一年に一度あるかないかだ。cook do版「麻婆豆腐」に刻んで入れるために必要なのだった。スーパーなどで、食材主に肉や魚を吟味して買い求める人を無意識のうちに真似ていたのである。見たって味の善し悪し、鮮度の具合がわかるわけがない。おかしなものよ、と呆れる。
 予報では、明日待望の初雪が降るという。どんなドラマが待っているか、不謹慎ながら、わくわくする。

 12月21日(金)

 予報通り初雪が舞った。が、午後の一時だけで、雨に変わり、いつしかそれも止んでしまった。積雪には至らず、やや拍子抜けであった。「雪合戦!」「雪だるま!」と期待を込めて叫びまわるこどもらと落胆を共有した。広島市内の初雪は東京よりは早かった。住んでいた5年間、ああ今年も同じ日だ、と感嘆し続けた記憶がある。地勢上そういうめぐり合わせになっているのかも知れないが、非科学的なところから毎年の偶然を愉しんでいた。先日のニュースによれば、ことしもまた15日に降ったようだ。まだ続いている、と思った。もはや偶然ではない。市民の祝日「初雪の日」に匹敵する。

 12月22日(土)

 夜遅く、忘年会の行われている居酒屋のビルの入り口でエレベーターを待っていると妙齢の女性が並んだ。きれいな人だなぁ、と遠慮もなく顔を眺めていた。向こうもイヤな顔ひとつせずみつめ返してくる。そのうち、にこっと笑って「お久しぶりです」と言った。すぐに浮かんだ名前を、一か八かでぶつけてみた。はたして10年近く前の教え子で名前も合っていた。居酒屋に誘って、みなに引き合わせる。今年の春から旅行会社で働いていて、「毎日、楽しいです」とケレン味もなく付け加えた。言葉は悪いが、何回も化けて逞しく、美しくなっていく、と励まされた。

 12月23日(日)

 帰りがけに「BOOKS GORO」に立ち寄って、文庫本『ノーラ』(ブレンダ・マドクス)を買う。副題が「ジェイムス・ジョイスの妻となった女」で、今秋映画が公開されたのを機に3分の2に縮めて翻訳され、目に付くところに置かれているのである。同じ棚には『光の雨』(立松和平)の文庫版もあった。両方手にとって、迷った末の選択だった。本当の目的は『非戦』を探すことだったが、売り切れなのか、どこにもなかった。

 12月25日(火)

 この一ヵ月の時の流れは異常に早い。あっという間にここまで来た。深夜、髪の毛がいよいよ煩わしくなって息子に切ってもらった。虎刈りなど気にする筋合いはなく、さっぱりとして、首筋はやや寒々しいが、気分は上々である。ところが、切られた髪の毛の束を見て仰天したのだった。数えてみれば、4ヵ月間放置していた勘定になる。3ヵ月が限度だと自分では思い決めているだけに、これは大きな誤算だった。その差の1ヵ月が、早く流れ去った“時”に見合っているのだろうか。
 帰宅の途次、立教大学(新座)正門のクリスマスツリーを車の中から仰ぎ見ることができた。これまでの2回は灯りが消えていたから、三度目の正直である。澄んだ空の中で原色が冴え、なかなかきれいだった。明日以降は取り外されるはずで、果報なことだと思った。これで、予報通り雪でも降っておれば、今日この日のことは申し分なかったのだが、そこまで欲張ってはいけない。

 12月26日(水)

 今日から冬の早朝出勤となった。30、31日を除いて来年の5日までこの勤務が続く。何年同じことを繰り返してきたかと思うと、慄然とする。一ヵ月が早く感じられるのと同様、10年もたしかに“矢のごとし”ではある。つい先日スーパーで買い物をしたら代金が1111円だった。そのあとHPに入るとカウンターが同じ数字を示していた。スロットマシンじゃあるまいに、こんなことに心を動かされるとは、なんとも今年を象徴している。あと五日である。

 12月28日(金)

 星空がきれいである。満月に近い月も、雲間隠れに、皓々と輝いている。冬至に「ゆず湯」もせずにことしは過ぎたが、この季節はずっと好きだったことに気付かされた。躯の芯底が冷えて、いっそ凍てつけば、心はかえって純やかになるはずだ。換気扇を回したまま風呂に入っていると、低音の人の声が響いた。内容は見当をつけるしかなかったが、家の中には誰もいないはずなのに、すぐ近くから聞こえてくるようだった。2度、3度と続くので、急かされるようにして、あがった。裸の躯が、ただ寒いだけだった。こんなミステリーじみたことも真冬の夜の愉しみのひとつである。それにしても眠い。すぐにまぶたが下りてきて、思考の回路も一緒に遮蔽される。

 12月30日(日)

 午前3時、寒風に吹かれながら、月明かりをたよりに自転車の積み込み作業を行った。10分ほどかかった。配偶者が出てくるまで、30分ほど車の中で眠った。こういう迎え方は、久しぶりのことだった。しばらく走ると「自転車、積んだ?」と異なことを訊く。積んでいること感じさせないほど、完璧な積み方だったのである。戻って、5時頃から布団に入ったが、寒さで何度も眼が覚めた。午後も、頭が重く、鼻水が止まらない。ひき風邪かも知れない。昨日あたりから前兆はあった。部屋の暖房を最高にしても、躯はぶるぶる震えっぱなしだった。もっとも、それだけ外気が冷えていたということだろう。今日も、やむなく外に出ると、北風(秩父おろし)がすごかった。早々に家の中へ退散だ。
 門松や鏡餅はしないが、車にだけは注連飾りをした。前段を読み返してみて、新年を迎えるにしてはいかにもトーンが低いと思った。こんな時期に風邪を引くなど、緊張も足りないのだろう。前にもらった大判の日記帳を取り出して、どういう風に使うか、思案した。この日記帳には主要都市の地下鉄路線図、世界地図、おまけに観光地の月別温度と衣服まで載っている。文字通り、世界を飛び歩くビジネスマンのためのものだろう。せいぜい宝の持ち腐れにならないよう、いっぱい字で埋めるか。

 12月31日(月)

 この欄を埋めることを、大晦日の今日、ただひとつの責務と考えていた。一年の総括を、長くかつ格調高く認めるべきだと思ったのである。しかしこういう大上段の気構えは往々にして空振りに終わる。夕方、TSUTAYAで平積みになっていた『非戦』を買う。ぱらぱらと拾い読みしながら、この本は、無償性の熱い思いがないとできなかったのだ、と改めて知った。言葉が何かしらの意味を持ちうるとすれば、こういう場ではないのか。新しい年が、この本で希求される通りのものに少しでも近付くことを祈りたい。
 ともあれ 「日記」も負けてはいられまい。自分との戦いが、世界との戦いであるところまで、止揚していかなければ。


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