日  録 十年ぶりの虹    

2011年4月12日(火)

いなびかりを仰ぎ見、雷の音を聞くのは、ずいぶん久しぶりのような気 がした。昼過ぎに一度、夕方から夜にかけてもう一度、二回も経験した。夜のは、激しい雨風をともなった。桜並木の下を車で走っていると、花弁がひっきりなしに舞いおちてきた。それがきのうのことである。

「わらしべ長者プロジェクト」と命名して、約一年かけてパソコンを製作、提供してくれたのは若い友人の Eight である。引き取りに行った10日夜のうちにインターネットに接続、HP再開もなんとか果たせることとなった。この世界の進展は測りがたく、二年近くの空白は致命的だろうと腹をくくっていたが思いの外、すんなりといく。

それもこれも、痒いところに手が届くような優れものの本体、とりわけ、「わらしべ」からはじめてよりよい「材料」を獲得しつつ、不実かも知れなかったこちらの頼み事を根気よく実行してくれた Eight のおかげである。

配偶者は、3.11のあと数日帰ってきたものの、3月初めから富良野に滞在している。一人暮らし歴も通算70日に及ばん、今日何を食べるかに思い悩む、まさに「その日暮らし」の日々、などと本音とも冗談ともとられかねない文言のメールを畏友に送った。

一方、かねてよからぬ印象しかなかった、いわゆる嫌味な男の本性を見せつけられて、つい最近その男のために仕事を追われた女性に、「愚痴と発見」のメールを送ったりした。この時期に顰蹙ものかも知れなかったが、避けようもない「人事」の問題に触れた。もとより、深入りする気はないが。

かくて、意気あがらぬままに、日録の再開となった。「社交界」へデビューするような感じもある。そこがどんなところか、わからなくなっているのが、魅力なのである。

2011年 4月13日(水)

一昨日のことを、おとつい、と言ってしまうのは生まれた土地と関係があるのだろうか。
子供らや同僚の前では、「おととい」と言うつもりでいても、このことばが必要な場面になると、つい、「おとつい」と発している。頭のなかには、「一昨日」と「おとつい」ががっちりと結ばれていて、意識して切り離すことなどできないかのようである。

大阪(松原)から、アルバイト先の食品会社に短期で応援に来ている剽軽な若者が今日、「ここら辺では、いてる、とは言わないんですか。よせて、はどうですか」と何人かに訊いてきた。
「いてる?」
「よせて?」
先輩らに口々にからかわれながらも、「いてる」と「よせて」の正当性を主張している。そこはなかなか清々しい。

「あとで、よせてもらいます。何時頃、いてますかと使うんだよね。いてはる? などは京都弁に近いね」
と知った風に口を差し挟むと、
「いえ、河内ですよ」
頑固でもある。

「居」や「寄」と漢字を当てれば、難なく、解決する。一昨日も、どちらの言い方もする、と辞書には書かれているが、何歳くらいまでかに刷り込まれた言葉は、容易に身体から離れないだけに、いまとなればなつかしく、いとおしい。

【つい、「おとつい」】が、ほかにもあるような気がする。

2011年 4月17日(日)

津村節子「紅梅」(『文學界』五月号) を読んだ。気ままに、何ページかずつ(寝ころがりながら)読み進めてきたが、最後の2ページで、思わず起き直り、涙さえ流れてきた。

2006年に死んだ夫・吉村昭の、一年余にわたる闘病と介護の日々を描くが、淡々とした筆致の裏側に深い「情」と「業」が張り付いている。それが、最後の2ページで、当たり前のように、前面にせり出してきて、涙を誘ったのか、と思う。

『呼吸が、あえぐようになった。
三人は、口々に夫を引き戻すように呼んだ。
呼吸が間遠くなり、最後に顎を上げるようにして、呼吸が止まった。
(中略)
「あなたは、世界で最高の作家よ!」
と叫んでいたと言う。
何ということだろう。そんな言葉を、夫は喜んで聞いただろうか。 』

1928年生まれのこの作者の『茜色の戦記』を、やはり文芸誌(『新潮』1992年11月号)で読んだことがあった。これは、夫・吉村昭と出逢う前、戦時下の青春を描いたもので、綿密な考証と記憶力に感嘆した覚えがある。

昨年末に母が死に、火葬場で最後の別れをしたとき、その弟(叔父)は
「生まれ変わって来いよ」
とひときわ大きな声で叫んだ。
このときも、ぼくは、涙が滂沱と流れてきたのだった。

2011年 4月18日(月)

目下の悩みは“畑仕事ができない”ことであるしたいのに、できない。
暖かくなって、なす、トマト、キュウリ、ピーマンなど夏野菜を植える時期なのに、なぜか毎日仕事に出かける羽目になって、日中にまとまった時間がとれない。日の高いうちにいないことは、畑仕事にとっては致命的である。

家の向かい、道路に面した、30平米(u)はあろうかという貸農園、配偶者が不在のために、自分がやらねば、と強く思っている。ところが、事情をよく知っているとなりのTさんが、土起こし、堆肥の散布から、畝切り、マスキング、支柱立てまで、どんどんやってくれる。朝起きて見るたびに、畑の風景が変わっている。

今朝方も出かけに、お礼旁々、「せめて苗だけでも植えます」と宣言すると、まだ少し早いです、霜が降りる日があるかも知れないので、来週あたりかな? と言われた。
一ヵ月ぶりの休みとなる明日こそは、と意気込んでいたが、さらに先へと持ち越しになった。

明日は雨の予報だから、どのみち、晴耕とならず、雨読の定めなのだろうが、それにしても、残念。


2011年4月19日(火)

夜明け近くに、雨・雷・風、と予報されていたので、待っていた。
午前2時過ぎに起きて、そのまま寝付かれなかったのである。
すると、3時半過ぎに、大きな雨音がし始めた。その音を聞くために窓を開け放したままで居ると、足元が冷たくなる。気温は10度まで下がっている。冷たそうな雨である。このまま昼まで、降り続くのだろうか、と期待した。

昼過ぎ、いっとき雨は止んでうっすらと晴れ間が差した。庭や、畑のまわりを歩き回ると、小さな発見がいくつかあった。

ジャガイモの芽が顔を出した。地上一センチくらい、可憐なものである。柿の木の下でちぢこまっていた、白山吹の花が、数個咲いていた。本来の黄色い山吹と一緒に苗木を買ったが、こちらは植える場所に悩んだ末、こんなところになった。ムラサキシキブや、つるバラや、自生のサンショウなどにもみくちゃにされてきた。ところが、どっこい……。

Tさんが植えてくれた柿の幼木から黄緑の芽が出ていた。そのほか、みながみな、枯れたように見えても枯れていない、しぶとく生きている、ということを強く感じさせる。朝夕は肌寒かったが、確実に遅い春がやってきた。

2011年4月24日(日)

未明まで強い風が吹いていたようで、雨戸を叩く音でときおり目が覚めた。眠り自体も浅かった。
寝覚め直前の夢では、何回かの揺れに耐えきれなくてついに家が倒れた。建て替えられていまや跡形もない、田舎の、昔の家である。

平屋だったが、天井の上(屋根裏)に物置用の一室があり、ここには、丸く束ねられた割り木(燃料用の薪)が並べられていた。足りなくなればそこに登って束を下の土間に投げ落として補充した。なぜ、屋根裏だったかはいまも謎だが、スレート葺きの屋根にも上ってよく遊んだ。

その家が、ゆっくりと斜めに傾いで、倒れたのだった。家族六人が寄り添って、成り行きを見守っている。これまでに何回か同じような夢を見たが、その都度持ち堪えていた。だから今回は、ついに、となる。

現(うつつ)でも、揺れている、と感じることが多くなった。3.11とその後の余震、緊急地震速報の強迫観念などが、原因だろうと思うが、思わず蛍光灯のひもを見つめたり、電信柱を眺めたりする。

この日はしかし、太陽が昇ってくると、台風一過のような晴天で、気温も高く、風もなく、気持ちのよい一日の予感がする。ゆめもうつつも、救われていくような気がした。(この項午前10時)

午後6時頃、ほぼ十年ぶりくらいに、虹を見た。予報に反して、黒くて重い雲が立ちこめ、にわか雨がぽつりぽつりと落ちたあとだった。




携帯電話を取りだして、2枚撮ったうちの1枚である。この虹は、ことのほか、儚かったような気がする。よりよい出来の写真を求めて、もう一枚撮ろうとしたとき、みるみる色合いがうすくなって、消えてしまった。空にかかっていたのは1分くらいのものではなかっただろうか。

2011年4月26日(火)

「春眠暁を覚えず」などというが、こちらは目の覚めるのが日々早くなっている。けさも、5時には起き出し、そろそろと活動を開始した。

ゆうべ眠りについたのはいつもよりは1時間ほど遅い1時頃だったから、正味4時間だけの睡眠である。体は重いが、眠くなんか、ない。

今日は、Tさんが作ってくれた苗床に、キュウリ、トマト、なす、シシトウの苗を植えることになっている。その前に、近くのJAの農産物直売センターに開店と同時に駆けつけて苗を買わねばならない。

早起きは、歳のせいばかりではなく、 いよいよ畑仕事ができるという興奮が原因のひとつかも知れない、と思いつつ窓を開けると、前の畑で悠然と耕耘機を動かす、同年配のKさんの姿が見えた。何度も書くが、まだ午前5時である。しばし、みとれていた。

「ずいぶん早くから、やっておられましたね」
それから5時間くらいあとに、畑のなかで訊いてみると、
「一日で終わらせようと思って、がんばりました」

十個余りの苗をのんびりと植え、草むしりをし、ついでに庭の一角を掘り起こし、余ったシシトウの苗を植え、とんでもないところに飛び散っていたイチゴを移植した。土いじりは時を忘れる、などと一人前の感想を抱いて、昼前にはお仕舞いにした。時折窓から覗いていたところ、Kさんは夕方まで働き詰めのようだった。

2011年4月29日(金)

一昨日は、強風が吹き荒れた。この地は、夕方から夜にかけてがとくに激しかったようで、11時すぎに帰宅すると、玄関先においてある、龍眼の木が倒れていて、仰天した。幸い、鉢に二十センチほどの亀裂が入っただけで、木自体は無事だった。

小学二年生2人と一緒に3月末から育ててきた屋上の小松菜が大きく育ち、食べ頃を迎えた。そのうちの1人は昨日、2種類のドレッシング持参で授業にやってきた。(栽培が、ひとつのカリキュラム!)

プランター栽培なので小振りだが、葉は濃い緑色をしている。艶もある。美味しそうな感じがしたが、教室では食べずに、それぞれ2、3茎を自宅に持ち帰らせることした。ここで食べるには、きれいに洗う必要があり、少しためらったからである。その代わり、小松菜を手にした子供ふたりの写真を撮ってもらった。

2011年4月30日(土)

タンスの上の神棚に、どうだんツツジと山吹の花を供えた。どうだんは漢字では「満天星」と書くようだが、白い小さな、提灯のような花は、庭の木にはもうわずかしか残っていなかった。いわば残り花である。それに対して、山吹の花はいまを盛りに黄色い花を咲かせている。

左側に、それらの花を投げ入れた信楽焼の花瓶、右側には100円ショップで買った三方、その上には龍眼の実を何個か供えたままにしてある。真ん中の神棚は、ことしのお札が姉から届くのを待つばかりの状態である。

明日は、教え子の結婚式に招待されている。思えば、メーデーである。このところ、外も内も、ともに激動でない月はないような気がするが、これにあやかって、失地挽回といきたいものである。