純白と無粋 

2011年5月1日(日)

結婚式に参列するため、昼過ぎに家を出て、目黒へ。川越から「渋谷行き」に乗った。地下鉄副都心線直通という。はじめての路線だったので、すこし興奮する。それにしても隔世の感がある。東上線で東京に出るとなれば必ず池袋を経由したものだったが……。 「渋谷行き」は 途中から急行に変わって、式場の近くに着いたのは、受付開始の一時間も前であった。喫茶店でコーヒーを飲みながら、時を俟つことにした。

式は、なごやかで、明るく、「ふたり」の出発にふさわしい活気に満ちたものだった。人間が大好きで、人を信じ、人から信頼される、類い稀な心根を持つ YUKI は、終始いい笑顔をみせてくれた。参列したみなが愉しい気分になったのではないだろうか。ともあれ、二人のしあわせを祈りたい。

2011年5月3日(火)

G.W.といっても、いつもと変わらない日常を送るのみで、今朝なども、7時前には起き出して、「ビンラディン殺害」関連記事で埋め尽くされた新聞をわりと丹念に読んだ(これは国家テロリズム? 「スパイ大作戦」のリアル版?)あとは、野菜の苗に水を遣った。

これも新聞によれば、午後から雨の予報になってはいるが、乾いた土が気にかかるのであった。となりの畑では、なすの花がすでに咲いているのを見るともなく見て、確実に大きくなって、やがて実をつける植物の偉大さを思う。

さらに、昨年亡くなった恩師・ナベさんの「植物は、人を裏切らないからなぁ」という言葉を思い出した。専門が植物の遺伝だった。なぜそれを選んだのですか、と訊いたときの答えである。この言葉を聞いたのは高校3年生のときだった。

2011年5月5日(木)

朝起きると、ジャガイモ畑の草むしり・追肥・土寄せ、スイカ畑に稲藁の代わりに黒いビニールシートを敷く、などとたくさんの仕事が待っていた。

3月に植えたジャガイモは一ヵ月くらいあとに可憐な芽が畝のくぼみに現れ、以来ぐんぐん育ちたくさんの葉が茂ってきた。その根元に土をかぶせて行くのを土寄せと言い、収穫までに三回ほど行うことになっている。

今日の初回はまだしも、二回目、三回目になると足の置き場に困ってしまうのである。葉を踏むまいとして、躯のバランスが崩れ、倒れてしまって茎を折るなんてヘマをやらかしたこともある。

それでも土寄せするのは子いもが地上近くにはみ出してこないためである。いもは日に当たると青くなってしまう。青くなると、食べられなくなる。ジャガイモ大好き人間としては、それは困るので、丹精する。

終日曇り空、気温もかなり低く、肌寒い感じさえした。ついに灯油を買いに走った。本当に寒かった3、4月、エアコンをたまにつけるだけで、ストーブは我慢してきたのに、今日の10℃程度にこらえ性をなくしてしまった。天の邪鬼の“心”が鎌首もたげたか、と他人事のように思った。

2011年5月8日(日)

今年は「粽」のことを思わなかった、ということに気付いたのは、童謡「背くらべ」の作詞者についての記事が昨日の新聞(朝日「be」の特集)に載っていたからだった。

「背くらべ」は「はしらのきずはおととしの5月5日のせいくらべ、ちまき食べ食べ兄さんが、……」とつづく唄である。これを作った人は、夭折の童謡詩人・海野厚である、という。

そこからの連想で、そういえば粽、となったのである。毎年田舎では、握り拳の半分くらいのうるち米の団子を熊笹に包んで、湯の中に入れて蒸した粽を手間ひま惜しまず作っていた。10個を一束に、何束も作っていた。5月5日にそれを、親戚などに配って歩いたり、来客に手渡したりする。それを楽しみにやってくる遠くの友人に渡したこともあった。

そんな思い出とともに、近くになると粽を思うようになっていたが、今年にかぎってはあの記事を読むまでは忘れ果てていた。

ネットで調べると元禄年間の『本朝食鑑』には、4種類の粽が紹介されているらしい。わが田舎の粽は、そのうちの2番目「御所粽、内裏粽」に淵源しているようである。誰彼に配るのには、何か重要な意味があったにちがいない。

十何年か前までは、こちらにも何束か送られてきた。この日前後の
田舎の情景、つまり母のいる風景を思い出したものだった。

2011年5月9日(月)

明日からは、前線が列島上空に停滞し、週末まで雨の日が続く、らしい。これはいわゆる“走り梅雨”、とラジオの予報で言っていた。

走り=先駆けとしても、ずいぶん早いような気がする。おまけに、フィリッピン海域では「台風一号」が発生していて、これが前線を刺激する。よって、本来の梅雨後半(7月はじめごろか?)のような大雨・雷雨もあるかも知れないのでご注意を、とも。記録的ではないだろうか。

Wikipedia によれば、昭和31年4月25日の台風第3号が一番早く、大隅半島、つぎが昭和40年の5月27日房総半島にそれぞれ上陸したという。もし上陸すれば、今回は第二位の記録となる。)

また、百代の過客じゃないけれど、月日の経つのも早い。


2011年5月10日(火)

日付が変わった頃、新婚の YUKI から「行ってきます!」というタイトルの、威勢のよいメールが届いた。慌ただしく手配したモロッコへ、これから行くのだという。
配偶者はG.W.前に帰ってきてから13日目の今日、富良野の実家に戻った。またしばらく滞在して、義父母の介護にあたる。

雨もよいの一日、期せずして二人の出立を見送る仕儀(もちろん一人は心=想像の中でだが)となった。

配偶者を志木駅まで送って行った。しばらくぶりのなじみの街は、そこに至るまでの道々も含めて、優しい風貌を持っていた。ここを左に曲がれば平林寺、この奥には、おいしいラーメン屋さんがある、などと思いはいくつかこみあげてくるが、実際にそれらの場所に立ち寄る気にはならなかった。

もう無縁の街、という気持ちが
どこかにあるのだろうか。いや、そんなはずはない。

2011年5月11日(水)

その苗木の名前を忘れていた。一ヵ月ほど前には白い花が咲いていた。(下記写真)





実がなる木というのは覚えていたから、成ってみればわかる、それを待つのも乙か、とそのままにしておいた。
つい三日前、何げなく2年前の5月の日記を読んでいると、買った日付とともに苗木の名前が記されている。「きのうプラムの木を、衝動的に
云々」と。


一ヵ月後の現在、実のなる気配はない。若葉に、アブラムシが蝟集し、無数のアリがせわしなく蠢いている。
またの年に、期待を寄せねばならない。

2011年5月12日(木)

「博多・料亭/稚加榮」の明太子が送られてきた。遅ればせながら、母の日のプレゼントだという。三箱あったので、そのうちの一箱は「母」用に冷凍室へ入れ、一箱はとなりへの「お土産」とした。残りの一箱は目下ひとり暮らしのわれが食べることになったのである。これが、抜群のうまさであった。

「まだ、こちらへは帰ってこないのか」
「少なくとも来年は、いるみたい。向こうにしばらくいた方がいいよ。こちらから、行こう、秋にでも」
「そうだな。東日本は、不安がいっぱいだ」
そんな話をしたばかりだった。

ずっと音信が途絶えていた広島在住の、学生時代の友人にメールをすると即座に返信があって、自身の近況のあとに、
「最近、大小取り混ぜて、飲み会の誘いが多くなりました。西の方に旅されるときは、是非一報ください。飲みましょう。」
とあった。

なんとも、気の逸ることである。これも、日常が呪縛されているせいか、とやや自虐的に思う。

2011年5月14日(土)

三日連続の「国立通い」が終わり、ほっとするのが、この土曜日であるが、その国立で、10日夕方、痛ましい交通事故が起きた。駅前ロータリーで、学校から帰宅途中の小学6年生が亡くなったのである。その子は、いま勤めている塾にこの2月まで在籍していた。こちらは一度も目にしたことはなかったが、同僚の話によれば明るくて、元気のよい子だったという。こんどの事故では、彼には何の落ち度もない。駐車(不法!)している車に気をとられてはね、動転したのかブレーキと間違えてアクセルを踏み込んで轢いてしまったという。スピードが出ていなかったことが逆に巻き込む結果と成ったのだろう。はね飛ばしただけなら、あるいは、打撲程度ですんだのかも知れない。しかし、そんなことを言っても、詮ないことである。

その日のラジオニュースで、事故を知った。「国立駅前で小学生が……」という声につい耳をそばだてた。次の日、出校して詳細がわかったのである。すべての情報が、悲しみを誘った。あまりにも理不尽にすぎる。起こってしまったことに対して、生きている者があまりにも無力であることも、いっそう悔しい。

次の次の日、現場に立ち寄った。花束やお菓子や、飲み物が、山のように置かれていた。黙祷して、言葉も出ずに、立ち去った。

2011年5月16日(月)

夕べ、午後8時頃に帰ってくると、玄関先の龍眼の鉢植えがひっくり返っていた。強風による転倒はこれで二度目だが、今回は素焼きの鉢がばらばらに壊れて、中身がはみ出していた。が、木自体は無事だった。今朝、これよりもふた回り大きい鉢に、植え替えた。

この龍眼は昨年、花が咲いたあとに実がいくつも成ったのである。固い殻の下の、その実はミルクのような、そして柿のような味がした。種は、黒く艶光りがして、なるほどこれが“龍の眼”か、と思わせた。


(2010.8.28 )


(2010.9.6 )

ことしも、是非、花を咲かせ、実をつけて欲しいのである。

龍眼を植え替えたあと畑に降りて莢豌豆(さやえんどう)を収穫した。
この場合、もいだ、とか、摘んだ、と言う方がピッタリである。白い花と若草色の葉が柵の中でこんもりと密生していて、その中に葉と同じ色の莢がぶら下がっている。たいへん見つけづらい。

通り掛かった近所のSさんが手伝ってくれた。「じっと眺めていると、見えてきますから」と言うので、なるほどうまいことを言う、と感心し、夜空のなかに星座を見つけるときと似ていると思った。

夕食は、両掌いっぱいに収穫したそれを使い切ろう(明日になればまた大量に実をつけている!)と、塩ゆで、味噌汁、野菜炒めに加えた。さながら、莢豌豆づくしとなった。

そういえば数日前、近所の農家の人が通りすがりに、
「大きくなるままにしておいて、ご飯に炊き込むというのもいいですよ。グリンピースですから」
と教えてくれた。
うーん、大好物、食指が動いたものだった。

追記:仕事で一緒になる同年配のSさんが自分で漬けた「コーヒーリキュール」(一年もの)を瓶に取り分けて持ってきてくれた。食後に是非試してみて下さい、と。
コーヒーの香りが隠し味になって、なかなか美味しかった。ほとんど全部を飲んでしまった。明日の分はないに等しいが、いい気分である。

2011年5月17日(火)

庭、畑の草木に水を遣り、庭まわりの雑草を片付け、にょきにょきとあちらこちらから生えてきた竹(すなわちタケノコ)を切り、莢豌豆をもいで、一段落。それでもまだ午前10時。ソファに寝転がって、うつらうつらしていて、ふと、自分は何かを待っているんだ、と気付いた。雷鳴が聞こえた。ただひとつのみにておしまいとなり、これは幻聴だったかも知れない。

ほどなく娘から、携帯の充電機能が壊れたみたいなので機種変更をしたい、との電話があった。どういう経緯があったのか失念したが、娘の携帯電話はこちらの名義である。名義人が行くか、あるいは委任状がないと機種変更はできない。せっかくの休日だったが、たまに娘に会うのも“義務”だと感じて、川越に出かけた。

D.shopでは、何もすることがなかった。請われるままに、免許証を何回か差し出しただけだった。2時間ほど経って、そろそろ手続きも終わろうというときに、やっと雨が降り出した。
「あ、光りましたね」と店員が言うので「埼玉全域に、雷注意報が出てます」と応じた。

そのあと午後6時現在まで、雨もさほどには降らず、雷も鳴らない。
注意報は、いまだ解除されていないようだが。

2011年5月19日(木)

朝、となり街の友人からメールあり。読み終わるや否や、家の電話が鳴った。当の友人一哉さんだった。
声を聞くのは3ヵ月ぶりだが、近くにいながらもう何年も逢っていない。

この日録について、
「なんというか、“配偶者”のいない寂しさみたいなものが、滲み出ているね」
と批評してくれるので、
「ひとり、というのは、なんとも張り合いがないものだね」
つい、素直に応じてしまった。
30代前後の頃一緒に雑誌を出した仲間だから、見るべきところはちゃんと見ている。つまり、批評眼は鋭い。

それも含めて、心置きなく、久々にまともな話をしたような気がした。

ただ、近々逢う約束をしたとき、
「よく行った池袋西口のお店、またあのあたりで」
「ああ、あの店。地下があり、階段が狭くて、暗くて、それでいて座敷が広い。話しこむにはもってこいの、いい店でしたね。なんていう名前だった?」
「うーん、忘れた。今度現地に行って確かめてきますよ」
その店の名前が気にかかってしまった。

約1時間後、ふっと浮かんできたのである。すぐに、メールをした。はるか昔のことだからもう思い出せないとあきらめかけていただけに嬉しかった。他愛ないよろこびだが、一哉さんにはちょっと得意げに届いてしまっただろうか。

2011年5月21日(土)

数日前まで蕾だったミカンの花が一斉に開いた。
この土地の持ち主が何かの記念に、庭の端に植えていったのはたしか4年前である。いまだ小さな木だが、去年は5、6個のミカンがなった。おととしは3個程度だったが、人づてに報告すると、“どうぞ食べて下さい”との伝言が゙かえってきた。両年とも、食べた。酸味が利いて、瑞々しい味がした。

さて、小さな、白い花である。白というよりは、純白と記したい誘惑を覚える。気恥ずかしさをこらえてでもそうしたいのは、花の数が、30個を下らず、葉の緑を掠めとっているからだった。

この花が全部ミカンになったら、と想像することはなぜか愉しい。同時に、自然はそんなに甘くない、とも思う。どこぞで聞きかじった「摘蕾(てきらい)、摘花(てきか)ということばが出たが、ここは花を摘むなどの無粋をやめ、純白を楽しむことにした。

枝先の葉は、何枚にもわたってアゲハの幼虫が食い散らかし、ぼろぼろと穴が開いている。衝動的に、一匹を葉ごと切り、地面に捨てた。
見ると、他の葉にもまだ何匹かの幼虫がいる。じっと、葉裏にしがみついている。何回か脱皮して、羽化すると、鮮やかな紋様の羽をまとった揚羽蝶に変身するのである。もう、捨てる気にはならなかった。

それは、日没まであと一時間ほどのことであった。幼虫を捨てた自分こそ無粋ではないか、と反省せねばならなかった。

2011年5月22日(日)

降りはじめは、いきなりの雹だった。コンクリートの路面、トタンやスレート屋根を激しく打ち鳴らした。いま思えば、船出の銅鑼の音みたいなものだ。そのあとは夕方まで、時に激しく降った。

その日の朝、水やりをしながら、一区画おいたとなりを借りているSさんと、
「今日は雨だというのですが、水やっておかないと、何となく不安で」
「それはこっちも同じですよ。水は、やり過ぎなんてことはないでしょうね」
「 降る降ると言っていても、結局降らないことが多いね、このあたりは」
あまり噛み合うことのない“畑端会議”をやっていた。

野良着に麦わら帽子がよく似合うSさん。お互いに、うんだ、うんだ、と呟いて、頷いて、それで十分会話が成り立っていく。身振りや顔の表情で、相手の言わんとすることが“感じとれれば”いいのである。何を、どんなことばで言うかは重要ではない。一緒にいることが、なぜかなつかしい人である。

「ズッキーニは、雄花が咲いたら人工受粉をしないと、大きく育たないそうです。め花よりも咲くのが遅いので、待っているのですが」
受け売りの知識を披露すると、自分の畑のズッキーニを見遣って、
「ひとつ咲いているが、あれはどっち?」
すたすたと近づいて眺める。遠目に見ると、根元がふくらんでいる。
「それは、きっとめ花ですよ」
「あれ、まぁ」

午後、予報通りの雨だった。仕事先で雨に出合い、それを全身で受け止める畑の野菜たちのことを思った。

2011年5月24日(火)

今日の休日は、ぐたりぐたりと暮らそうと思っていた。いわばデカンショ節の心境である。

ズッキーニの雄花が開いているかどうかを確かめるために二、三回畑に降りた。ひとつの雄花が半開きの状態だった。ネットで「育て方・人工受粉」を調べると“朝日が昇った直後”もしくは“日が沈む直前”にやると確率が高い、と書いてある。一日のうちで、一番いい瞬間ではないか。これが本当だとすれば(経験に基づく報告らしいから本当だろう!)雌花は、ぜいたくである。いまはただ、雄花の開花が待ち遠しい。

畑に降りたついでに、莢豌豆を摘んだ。毎日毎日実をつけて、今日も鈴成りである。食事のたびに、ちょこっと手を加えて食べているが、追いつけるわけはない。

居間に小さなアリ(イエヒメアリ?)が侵入していた。数にして10匹程度だったが、去年大量に発生した記憶があるので、掃除機で吸い込んだ。これが、抜本的な退治になるかどうか心もとないが、少なくとも目の前からは消えていなくなった。

いつもはシャワーで済ますところを、今日にかぎって、湯船に水を張り風呂を沸かした。洗い場に入ると早々に大きな虫が足元に飛びついてきた。コオロギだった。これは、いい。かまわない。おまけに相手は一匹である。おまえも、オスか? と訊くのみにした。

デカンショ節は丹波篠山に発祥し、学生歌として世に広まったのち帰省して同地の盆踊り唄になったそうである。題名の由来のひとつは、「デカルト・カント・ショーペンハウエルにちなむ」とも紹介されていた。俄には信じがたいところだが、今日一日はほぼ目論見通りに終わり、もうすぐ新しい一日が始まる時刻となった。

2011年5月26日(木)

鴨居に吊り下げている南部鉄の風鈴は冬の間もずっとすだれの前に張りついていたので、風が吹いても鳴らなかった。そこで今朝、すだれを半間右側に移動して、風通しをよくしてみた。早速窓を開けると、ときおりかそけき音を立てるようになった。気温は10度を少し越えたくらいで、半袖姿には、肌寒く感じられる。よりによってこんな日に風鈴、と呆れなくもないが、この音は、気持ちを鎮めてくれる。

昨夜10時過ぎ、私鉄の駅から車を停めている場所まで歩いて帰る途中、入間川にかかる長さ300メートルほどの橋を渡った。はるか後方でチリンチリンと鈴が鳴った。自転車がやってきて、注意を促しているのだ。歩道は広く、立ち止まって避けるほどのことはない。鳴らす方も、それを後方に聞く者も、こっけいな存在だなぁ、と思いつつ追い抜いていく自転車を見送った。

そのときふと下を覗くと、その意外な高さに足が竦み、背筋を寒気が走り抜けた。少し蛇行しながらも水が流れ、両側の岸辺には背の高い草が茂り風にさわさわと揺れている、そんな様子が昼日中のように(白日夢?)鮮やかに見えた。きっとそのせいでぞくっとしたのにちがいない。気温もかなり低い夜だった。


今夜は、JRの駅から歩いてH市の職員専用の駐車場に着くころ土砂降りとなった。いつもはこの時間まで停まっているのは他に一台もないことが多い。そして出入り口に長鎖環(ロングリンクチェーン)が張り渡されている。が、そのステンレス製の鎖チェーンは両端のポールに巻き付けただけなので簡単に外せる。出たあと元通りにして帰るのが“不法に”停めている者の仁義だと心得てきた。

おりしも、出てくる車が一台あった。内側から鎖チェーンを外し、車を外に出し、雨の中、傘もささずに出入り口に戻ってきた人に、
「あとはボクがやっておきますから」
と言い放った。
「あ、すみません。ありがとうございます」
かくて、自らチェーンを外す手間が省け、そのうえ残業を終えた職員に、似非(えせ)職員のボクはお礼まで言われてしまった。

「ここは職員専用です。職員以外の方は停めないで下さい」と書かれている。あのときもし彼が、ボクのことを同僚だと思ったとしたら、すでにボクは詐欺師である。

家に辿り着いてからも1、2時間土砂降り状態が続いていた。風鈴の掛かっていない窓を開け、雨音に耳を傾けた。心が凪ぐひとときだった。

2011年5月29日(日)

信楽の友人から、陶器のカタログが二冊送られてきた。一冊は陶芸図案作家山谷壱彦氏の、新しい趣向を凝らした作品が紹介されている。

たとえば、スポットライト付き水中ポンプをはめこんだつくばい、庭や室内用の照明陶器、などである。実用性のなかに芸術性を最大限追求するようなところがあり、息苦しさを感じないわけでもない(価格も30000円から120000円と、高い)。

タヌキの置物と対極にあるのだろう。こちらには、実用性も芸術性もないが、信楽のにおい、なつかしさはある。

もう一冊は花器、花瓶、傘立てなどの“大物 ”が中心である。どれも地の良さを生かし、実用にして飽きない、と思われるものばかりが載っている。今回調べてみたかったのはこちらの方である。

彼の家を訪ねたのはもう20年以上も前のことになるのだろうか。そのときの目的は抹茶茶碗を求めることだった。茶器専門の作家の店に案内してくれた。彼のおかげで、赤茶色の、軽くて、上品なものを購入できた。
昼ご飯を食べた後、自宅兼工房に戻り、夕方までいろいろなことを話しながら、ひとりの“職人”が傘立てをこね上げる様子を見学させてもらった。養護施設の子がふたり、手伝っていたのを覚えている。

帰る間際に、倉庫のなかに置かれた焼き物を指さして、
「全部失敗作だ。好きなものを持って行っていいよ。花瓶は、水が漏れるかも知らんが」
と言った。

そのとき貰ってきた、花瓶二個、傘立て一個は、今なお健在、三つとも玄関にあり、実用に供しているばかりか、記憶の一品として、日々を更新してくれている。

カタログのお礼を言ったあと、ボクは訊いてみた。
「いまも、作っているんだろう?」
「もちろんだよ」
「あのカタログのなかのものも、そうか」
「50から60パーセントは、うちの製品だよ」

なぜかほっとし、安心を覚えたのである。実は、その言葉が訊きたかったのである。

2011年5月31日(火)

午後になってから化成肥料を買いに走り、戻ってすぐに畑仕事。
といっても、一部花が咲き始めたジャガイモの列に肥料をぱらぱらとまいたあと、畝に土寄せをするだけの作業である。畝と畝との間隔が例年よりも広かったので、よく捗った。二巡ほどやって、師匠格のTさんに見せると、両手で大きな輪を作ってくれた。

昨日はキュウリの初物を生のまま食べた。焼き肉に巻く葉っぱ(サンチュというらしい)も、マヨネーズをつけてそのまま食べた。ともに格別の味がした。

サンチュと同じ畝には空心菜を植えてくれていた。名前の由来は、茎の中が空洞になっていることだという。

空心菜と聞いて、二年近く前のお鈴の言葉を思い出した。「炒めて食べると美味しいです。今度是非植えてみて下さい、種ならばいまわたしの抽斗にいますよ」と言っていた。寒冷紗の中ですくすくと育っているが、食べるのは、もう少しあと、とお預けをくった。どんな味がするか、いまから楽しみである。

野菜づくしの食事もさりながら、野菜の世界は奥が深いと改めて感じた。