日 録 悲しみの月

 2002年1月1日(火)

 7時30分に家を出て、がら空きの道路を走っていく。東の町に向かうから昇ったばかりの太陽がほとんど真正面から射し込んでくる。低すぎてサンバイザーも効き目がない。時に前方が真っ赤に染まる。眩しい。新しい年が始まったのだと思うと、それは恍惚の一瞬でもある。出発前にNYの紀からのメールを読んでいた。タイムズスクエアのカウントダウンを見物に行くと書かれていた。あの事件からもう3ヵ月以上が経った。世界の構造を再認識させられ、多少見えてきた部分もある。行動と結びつかなくとも、言葉の、思考の変容を迫ってくるのはたしかだ。
 今日は 義弟の命日である。去年は、もっと早い時間に北に向かう配偶者を乗せて同じ道を走った。3ヵ月、あるいは1年、いずれもが“歴史”であり、いま現在の生きた記憶と言うべきである。

 1月2日(水)

  ライターのつもりでさっき使ったばかりの銀色の爪切りを再び手にしていた。口にはタバコを銜えたままである。さすがに落としはしなかったが、はっとした。1年でもっとも長く感じられる一月が始まったばかりで、早くも焼きが回ったかと思った。昨日の朝は雑煮を食べ、夜はよく眠り、風邪の兆候もいつしか消えていた。体調は万全である。なのになぜ、と歌謡曲のような文句を呟く。タバコ一本吸うのにも、気力がいるのか。
  喪中だったが10枚近くの年賀状が届いた。数人に官製葉書にて返事を書く。あとで、絵はがきにすればよかったんだ、と反省。あれでは、味気がなさ過ぎる。こんなところも、弛緩していた。反省しきり。

 1月5日(土)

 寒い一日だった。朝からどんよりとした曇り空で、気温はほとんどあがらなかったにちがいない。いっとき霙まじりの雪が降った。昼過ぎには陽が射してきたが、変わらぬ寒さが続いた。深夜近く、家に着く頃には、東の空から大きな下弦の月が昇っていた。正月も5日を過ぎて、これでひと息つける。去年はそれどころではなかったが一昨年までは毎年次の日かその次の日を初もうでの日と決めてきた。三が日、車で通りかかった高徳神社も、森の中の参道に提灯の灯りがともりっ放しになっていた。車を停めてついでに詣ろうとしたことが一度ならずあった。その日のために、誘惑を断ち切ってきた。4、5年前までここは、正月といっても普段と変わりない、地元の氏子たちだけの神社という風情を保っていた。“新住民”には近寄りがたかったのである。いまは年々親近感が湧くようになった。樹齢はまだまだ若いとはいえ、杉の木立に埋もれたようにして“鎮座まします”のがいいと思うようになった。

 1月6日(日)

 川越の町は車で溢れかえっていた。デパートの駐車場に入るのを断念して、駅前までの長い列に並んだ。日曜日に来ることは久しくなかったので、これほどのものとは、正直びっくりした。ようやく市営駐車場に停めることができたのは家を出て1時間半後の午後4時半であった。小一時間で所用を済ませてすっかり暗くなった道を戻ってきた。
 駅前商店街の入り口にあった本屋さんがなくなっていた。そのことを配偶者に話すと、もうずいぶん経つ、確か前にも同じことを言った、とたしなめられた。そういえば、そんな気もした。ごく近所でも一軒なくなっているのを年末に気付いた。ともに、本屋さんらしい、いい本屋さんだった。例えばTSUTAYAなどは、店内放送がただ喧しいだけで本屋の体をなしていない。落ち着いて立ち読み(本選び)もできない。これが今流なのかと毎回腹立たしい気になり、もう来ないぞと誓ったりするものの、欲しい本があればつい買ってしまう。
 荒井南海堂は、いまも営業しているのだろうか。若い者に店を譲って「夫婦ふたり悠々自適の生活に入ります」と案内状に書いてあった。たしか2年ほど前のことだった。それ以来お店に行っていないが、それまでの20年近く本はすべてそのお店から買っていた。文芸書がきちんと揃っているのがよかった。電話一本で、欲しい本が手に入った。いつぞやは、先代自ら神田まで出向いて目当ての本を買い求め、取り置いてくれたことがあった。ちょうどいま頃の時期だった。年が明けてから取りにいくと、
「あいにく店になかったもので。お正月休みに読まれるのかと思って、それでは、と」
「もうけになりませんね」
 というと、“不実の客”に、透き通ったバリトンで「あなたはそんなこと気にしないでください」と笑ったものだった。いまどうしておられるだろうか。なつかしい。

 1月7日(月)

 切り抜いておいた5日付の夕刊。ここには興味津々の記事が3本も固まってあった。ひとつは「小さな神社」と標題のついた写真である。ビルの谷間に、一階は廃業した飲食店と思しき木造家屋。二階建てのその建物の屋上には鳥居と祠が見える。こんもりとした木々の繁みもある。この神社のために取り壊すことができない、あるいは、住居から人が消えても神は残る、か。神田界隈と思われるが、都市の皮肉を読み取った。
  写真の下には漢数字一、二、三を20字20行に無造作に並べただけ(と思える)の「〇一〇一〜〇一〇五」というタイトルの詩があった。声に出して読んでみたが、区切り目に迷ったから2、3行で止めてしまった。個人的には4字で区切るのが生理に叶っていたようだ。暇なときに、こんど挑戦してみよう。それはともかく、なんとも不思議な詩ではある。作者の松井茂氏のHPにも入ってみた。「純粋詩」と呼ばれるこの種の連作が10作ばかり発表されていた。当方は、はじめて知ることとなったが、掲載した新聞社も勇気がある。
 三つ目は外来語研究に取り組んだ在野の人荒川惣兵衛に触れた思想史家・鈴木正氏の論考である。戦時中に反戦詩を書き、戦後は百姓をしながら外来語辞典の完成に没頭したという。ガンジーに擬して「反戦の一言居士再評価」の論考は終わっていたが、荒川惣兵衛がこんな素敵な人だとは知らなかった。手元にある『角川外来語辞典』、何回もお世話になっているが、全項目を読み直してみようという気になった。
 だから「朝日」はやめられない。
 昼、七草がゆ。はこべはキイロもよろこんで食べていた。

 1月8日(火)

 深夜に空を仰いで星を見た。手を伸ばせば届きそうなところで幾百の星たちが煌めいていた。中学の同級生をまた思い出した。彼は自己紹介で「キラキラ」と名乗ったのである。1年生の時だったろうか。本当の名前は「きだあきら」であるとすぐに分かったが、そうでなくても早口なのに、早く自分の番を終わらせようとして「キラキラ」と言ってしまったのである。付き合ってみれば、人なつこくて、とぼけた冗談が得意な男だった。そのときもたしか爆笑が起こったはずだから、本人は案外計画していたのかも知れない。いや、顔を真っ赤にして席に着いたという記憶もあるから巧まざるギャグだったのだろう。最近中学生にその話をすると予想以上に面白がってくれた。30年後のいまに通じたことを「きだあきら」のために寿ぎたい。
「ネオンの反射を浴びながら、一人ずつなんだか点滅しながら歩いている」山本かずこさんのHP(8日付「日録」)最後の一節である。都会ではそんな経験を何度も重ねるのに言葉にできなかった。改めて、詩人の感受性と表現力に感嘆した。

 1月10日(木)

 結局初詣でには行かず、箪笥の上の神棚を日々拝むことで済ました。すると今日、来年一年間兄が神主を務めることになっている鎮守「若宮神社」の新しいお札が届いた。早速去年のお札と入れ替える。
  このところ川越詣でが続く。誕生日のプレゼントにいくらかずつ出し合って買ってくれるというYシャツを選んで、札幌往復の航空券を求めたあと、いまをときめくスターバックスコーヒー店にはじめて入った。マッチを下さいと言うと「全席禁煙です」との返事。唯一の欠点である。二階席で、クリームの乗ったコーヒーと一緒にドーナツを食べて早々に退散する。喫茶店のイメージも変わってきたということか。ただ窓際の席には一心に本を読む少女がひとりいたから、ちょっとほっとしたのであった。
 石黒達昌氏の「真夜中の方へ」が芥川賞候補作になっていることを知る。東大病院の医師である氏の久々の作品であるような気がする。初出誌で読みそびれたのが残念である。

 1月11日(金)
 
 早朝、叔父の見舞いのために日帰りで札幌に行く配偶者を駅まで送る。誰にも死に顔を見せるな、密葬にして新聞社にもそのあとで知らせろ、と遺言していると聞いていまのうちに逢っておきたいと言うのであった。これが今生の別れになるのならば、当方とて同じ思いであった。4、5年前まで、学会で上京する度に必ず立ち寄ってくれた。毎年のことでこちらも楽しみだったし、何かと贔屓にしてもらった。小さかった息子が入院したときは、予定を変更して同じ医師として担当医に治療の進め方を聴取してくれた。担当医を信じなかったわけではないが、それでやっと安心したものだった。当時生きた心地のしなかった“親の命”の恩人だと心の底では思い続けている。戻ってきた配偶者によれば、前の日までよりは多く話し、点滴の効果がみえるということだった。いまひとたび逢えることを祈るのみである。
 生活クラブの配送員が米4袋を持って玄関に立った。注文ミスだったが、「本当にいいんですか」と気の毒そうに置いていった。いえいえ、ありがたいくらいです、と口には出さず呟く。先祖はずっと百姓だった(と思う)。米さえあれば生きていけるというのが、遺伝子に組み込まれた観念である、と思い知った。

 1月12日(土)

 慌ただしい一日を過ごした。ひとりの中学入試の合否を巡ってあたふたしたのも一因だが、たまった仕事を片づけるのにも時間を費やした。職場を退散するのが久しぶりに真夜中の12時近くになった。暖かい日が続く。そうなればなったで頭の芯が鈍く震動するのである。「何かいい話ありませんか」会えばきまってそう訊く男がかつていたが、記憶の中の男の姿は杳として浮かばず、結局それは自分自身の口癖だったのでないかと思える。そんな瞬間がある。

 1月13日(日)

 ヘッドライトを浴びた目をオレンジ色に光らせながら、猫は必死に走る。植え込みから急に飛び出してきて、わき目もふらずとはこのことかと思わせるほどに速いのであった。10メートルばかりの幅の道路を渡り切った直後に、車は通り過ぎていく。間一髪というのでもないが、ここは走らなければ危ないということを猫は知っているのだろうか。公園の外周道路の角で車を停めるとどこからともなく4匹の猫たちがのそりのそりと現れる。警戒と親和を綯い交ぜにしたような目つきで一瞥をくれたと思いきやすぐに目を逸らす。歩きながらそれを繰り返す。子猫だった頃、定期的にエサを運んでくれた奇特な人と勘違いしているのであった。いずれも、深夜の見聞、時間差10分以内だから、ほぼ同時進行と考えられる。“神の視点”ということを思った。
 
 1月14日(月)

 一応“人気商売”だから小さな染みが気になってズボンを洗濯機に放り込んだ。年末の、配偶者の留守中のことだった。しわしわになって、アイロンを掛けても元に戻りそうになかった。年が明けてクリーニング店に持ち込むと「縮んだものはもうだめです。それでもよければ」と言われた。その場で脚に合わせて丈を計ってから、頼むことにした。「手洗いだから高いですよ」普段の倍の金額を払う羽目になった。つくづく短気あるいはものぐさを悔やんだ。そのズボンが今日出来上がってきたのである。見違えるほどしゃきっとなっていた。餅は餅屋と言うが、感動ものだった。
 もう一つ無知にまつわる失敗がある。ベストセラーになった『倚りかからず』という詩集を持つ茨木のりこ氏の「自分の感受性くらい」を「暗い」または「杳い」の意味にずっと長い間(20数年)取り違えていた。題名だけ見て詩を読まなかったための錯誤である。なかなかいい題だなどと思っていたから滑稽である。昨日、どこかの中学校の入試問題に出ていてはじめて気付いたのであった。「くらい」の使い方 ひとつにも、世代や出自の差が出るものかも知れない、などと自己弁明。

 1月16日(水)

 昼過ぎから、久しぶりに雨が降った。5日にちょっと雪が舞った以外は、今年はじめての降水ではないだろうか。気温はさほど上がらずとはいえ、けっして寒くはなかった。セーターを脱いで、薄着で出かけた。沖縄北部はもう桜が咲いているという。桜前線が本州とは逆に北から南に下がっていくらしい。
  夜も、小糠雨が降り継ぐ。さすがに冷たい雨とはなっていた。

 1月17日(木)

 夕方暗くなってからやっと外出して、南西の空高くに三日月を見ることができた。滅多にないことで、鬱気が一瞬吹き飛んだ。細身の月はまったくエレガントだ。迂闊にも、昼のニュースで「1.17」が阪神大震災の記念日であると知る。丸7年が過ぎたということである。同じ年の3月にはサリン事件があった。あの1995年というのは、記憶に残る個人的な出来事もいくつかあった。「百代の過客」もさまざまな顔を持っている、が、すさまじく早いと感じさせる。
 終日パソコンにて、新聞折り込み用のビラの原案作りをする。メインコピーとして「風を掬え、風に乗れ」を思いついた。きっと“没”になるだろうが、それこそ個人的なキャッチフレーズにしようか、と思った。深い意味は、もちろん、あとから考えていく。

 1月18日(金)

 連れ立って職場を出た途端に風の冷たさに震えた。若い者らも一様に「わーさむ」と声を発した。この夜は、つい先日から成田空港で働くことになった通称「姉さん」が戻ってきて、一日7時間の講義に、復習テストという「研修」の辛さを披瀝していった。滑走路があらたに一本完成して、4月からは発着が180便も増える。ゲートの前を乗客の誘導のためにきっと走り回ることになるだろうと言う。元長距離ランナーの経歴を買われての配属だった。「英語大丈夫?」と訊くと「これから、これから」と屈託がなかった。

 1月19日(土)

 かつてはさまざまな禁忌に囲まれて生活していた。禁忌というと大袈裟だが、日常でやってはいけないものがいくつかあったはずだ。かろうじて「夜爪を切るな」「髪の毛を火にくべる(燃やす)な」がわが家ではいまなお生きている。「おばあちゃんの知恵」のようにもっとあったはずで、ここ何日間かそれらを思い出そうとしているがなかなか思うように蘇ってこない。子供の間でその時々に流行った「まじない」も入れれば相当な数になるはずだ。「さんまい(墓地)で転ぶと早く死ぬ」というのもあったが、そもそも近くにさんまいがない。生活の環境が変わって、禁忌もすたれていくということなのだろう。これは引き続き、課題となった。

 1月20日(日)

 夜にまつわる禁忌として「口笛を吹いてはいけない」というのがあったのをいま思い出した。はじめて教えられた当時、当然「なぜ?」と訊いて、大人がしかるべき理由を語ったはずだ。そうでなければいまなお禁忌として生きてはいないと思われる。ところが理由は忘れ果て、禁忌だけが躯の奥底に居座っていたのである。次の世代に引き継ごうとするならば、現在の生活の中から、その理由を推理、または想像していかなければならない。眠れる死者を起こす、という類の“怖い理由”であったのかも知れない。少なくとも「近所の迷惑になる」という程度の、陳腐なものではなかった。久しぶりに柳田國男を取り出し、いままでは読もうともしなかった『こども風土記』(全集23巻所収)などをぱらぱらと捲ってみることにした。

 1月21日(月)

 夕方になっても雨は止まず、いっときは雷が鳴った。冬の雷は、音が大きい。躯の底にずしんと響く。慌ててパソコンのスイッチを切り、その間モップ片手に部屋の掃除を始めていた。一種の避難だったのだろう。深夜の街道には霧がうっすらと出ていた。

 1月22日(火)

 日中のあたたかさはまるで春のようであった。案の定、畦道を舗装したような曲がりくねった脇道にはいると縁石に少女がひとり腰掛けて、陽の光りを浴びていた。早くもひなたぼっこ! スピードを緩めて、仔細に眺めながら、つまりよそ見をしながら通り過ぎた。なかなか行儀のよい坐り方をしていた。俯いた姿勢で一心に携帯電話をみつめているのであった。心を空っぽにできる時を持ちたい、いや持つべきであると思った。このところ、気が急くという言い方がぴったりの日々を送っていることに気付かされた。まだしばらくは続きそうな気配であるだけに、少女が羨ましく思える一瞬だった。

 1月23日(水)

『こども風土記』などを読んでいると、そういえばと思い当たることがいくつかある。また記憶は確かでなくとも、大正からは50年ほど経った昭和の30年前後にも、農村ではここで書かれているような雰囲気を引きずっていたように思う。なつかしさはそこからくるのだろう。神社やお寺の境内、稲を刈り取ったあとの田んぼで、暗くなるまでよく飽きもせずいろんな遊びをしたものだ。それらの遊びが、何かしらの「土俗的、または宗教的由緒」を持っているなどとは知る由もなかったが、こどもたちの想像力で幾度も改変されながら、その理由のかけらだけは連綿と受け継がれてきたのだろうと思うといまごろになってやっと厳粛な気持ちにもなる。さらに50年ほどが経ついま、もはやこういう本は成立しないのだと観念した。

 1月24日(木)

 自慢にもならないが、一歩も外に出なかった。持ち帰った仕事が早めに片づき、メール一通をやりとりしたきりで、午後からいま(深夜)まで「寒い寒い」と自分に言い訳しながらこたつに入っていた。思えばたくさんテレビを見た。昼のワイドショー(「雪印食品問題」の続報)から始まって、サスペンス劇場の再放送、ニュースの森、7時のニュース、お江戸でござる、「洋画劇場」、ついさっきの「地を這う虫」(これも再放送?)となった。面白いのもあったし、面白くないのもあった。腰を上げるきっかけがつかめずにいたというのが真相かも知れない。自堕落という言葉を思い出した。その間ずっと、頭が重かった。しくしくと鈍い痛みを感じていた。これしも言い訳か。明日は元気になれるだろうか。

 1月26日(土)

「地を這う虫」全三回(NHK・BS)の完結編を楽しみに帰宅したところ、ビデオがうまく撮れていなくて多少がっかりする。昨夜の2回目は息子に録画を頼んで首尾よく見られた。今日の分ははじめて「Gコード」を使って出がけに自分で予約しておいたのである。画面にギザギザが走り音も入っていない状態だった。何分間か未練たらしく再生を試みたが、声が出ないのは致命的であった。「3倍」のつもりが「標準」になっていたから、それが原因なのだろうか。それとも重ね撮りが祟ってテープが劣化していたのだろうか。そんなことはともかく、これだけ緻密なドラマに仕上がったのは高村薫の原作がよほどいいからだと思われる。『マークスの山』をかつて読もうとしたことがあったが、何かしらの理由でやめている。これを機に、原作を読むべし、か。
 深夜の帰り道、秩父の山に向かって西進するにつれて、道路の積雪が多くなっていった。みぞれまじりの雨が降り続いた。 雨は冷たいが、部屋の中の気温はさほど低く感じられない。暖房なしでも、平気だった。
  ビデオの件、録画当時(午後11時前後)のこの地の気象のせいかもしれない、と言われて、納得するものがあった。

 1月27日(日)

 お昼の12時、西の空に突然青空が現れた。ちょうど車を走らせているときだったが、なかなか鮮やかな変化で、世界が変わるというのはこういうことかも知れないと思った。日々の生活は、こういう風にうまくはいかないものだが、それだけに自然の変幻自在は目を愉しませてくれた。
 最近人名などの固有名詞が思い出せなくて、脳髄の疼く経験を重ねている。太地喜和子からはじまった気がする。「海に落ちるという悲しい事故で亡くなった女優」までで長らく足踏みしていた。記憶がその先に行かない。何ヵ月か経ってふいに名前が浮かんできた。コムデ・ギャルソンの「川久保玲」も思い出すまでに何日もかかった。『俺達に明日はない』の俳優の名前はいまだに思い出せない。「監督として映画を撮ったこともある人」までである。
  遅く帰宅して、フライパンのものを暖めて食べながらこれは有名な中華料理の未完成品ではないかと思った。何かが足りない。そのときは料理の名前を知っていた。翌朝「起こさなかったばかりに食いそびれたんだな」と念を押そうとして、肝心の名前が浮かんでこなかった。しばし考え込んだがたまりかねて訊いた。かに玉だった。ちなみにかにだけを食べたのである。玉がなかった。
 この経験は試験を前にした受験生の心理に似ている。せっかく覚えて知っていたことが、ひとつまたひとつと抜けていくような気がして不安でならないのである。不安が蒿じると、また次の何かを忘れてしまう。忘却の連鎖。歳のせいというよりは、若い頃の後遺症か。

 1月28日(月)

 午前、鳥かごをベランダの物干しにつるして、水を取り替えるとキイロは早速へたくそな水浴びを始める。水の置き場所も悪いが、くちばしをほんの少し突っ込んでパシャパシャと胸を濡らすだけである。ぎこちない。危なっかしい。インコにはもともと水浴びの習慣がないのではないかと思える。それ眺めながらひなたぼっこをした。風もほとんどなく陽の熱が全身に染みわたった。早起きによる功徳かと思ったが、昼ごろに悲しい報せが届いた。かねて入院中の札幌の義理の叔父が亡くなった。人の気持ちを思い遣って、言葉を選び選び話す姿が浮かんできた。格別の愛情をわが家に注いでくれた。医者としても優秀で、ここ数年は道庁に拠ってずっと現役を通していた。一年前義弟の葬儀で逢ったきりとなってしまった。いまひとたびの思いが届かなかった。ありがとうございました、と遠く北の空に向かって瞑目するのみ。

 1月29日(火)

 深夜、水の音に目覚めた。ここ1年、風呂場の水道の蛇口がゆるんでいて常時水滴が垂れている。直さなければという強迫観念が、聞こえるはずのないところまで届いてくる原因か。いずれ、幻聴である。札幌の通夜、葬儀には行けず、弔電と花を送る。何度も泊まってもらったことがある家では、線香を焚いて、数々の思い出をかみしめる。人の生はなぜかくも悲しいのか。

 1月30日(水)

 寒風の吹く空に満月がぽかりと浮かんでいた。「立てば低くなり坐れば高くなるものなぁーに」のなぞなぞじゃないけれど、屋上に登ったとしてもやはり月に手は届かない。今朝、雪の大地から野辺のけむりが立ち、天をめざしていった。今生の別れは、この月ほどに、とおい、と思った。
  悲しみのうちに1月が終わろうとしている。恩讐を越えて、ものみなに対して暖かい心が持てそうな気がする。ものみなの中には、自分自身も入っている。

 1月31日(木)

 数日前に届いた紀からの手紙をゆっくりと再読した。冬期休暇中にアラスカに行った様子が認められている。オーロラを見るのが主な目的だったようだが、当地での見聞が生き生きと報告されていて愉しい。追伸欄には、絵付きで「オリオン座が大きく見られるのです!」とあった。元気をも、もらったような気がする。


メインページ