日 録  移動性高気圧の如く

 2002年2月1日(金)

 風ひとつない穏やかな朝であった。陽の当たる場所にキイロを出して、指を差し入れたり、パンの耳を食べさせたりして、かまってやった。所狭しと飛び回って、チチチィ、とよく鳴いたから、きっと喜んだにちがいない。月が改まって、気持ちもなんとなく新たになる。夕べ血圧を測ってもらう夢を見た。何人かが並んで待っている。順番が来て、水銀柱の異様な上がり方に、これはヤバイ、怒られるぞ、と思った。叱責の言葉をすべて聞く前に眼が覚めた。測ってくれたのが誰だったかが思い出せない。身近な誰かであったことは確かだ。それを分身と考えれば、辻褄は合う。気にはしながらも何の手立てもしないでいることが、自身に対する弱みになっていたのである。つまりは自作自演の夢、かと。

 2月2日(土)

  新聞記事によれば、この冬御在所岳で樹氷が見られるという。御在所岳とは鈴鹿山脈の南端、滋賀と三重の県境にある最高峰(標高1212m)である。生まれ育った村から十数キロのところにあり、中学・高校の6年間に何回登ったか知れない。いわば庭みたいなところであった。朝のうちに出発すれば、夕方には戻ってくることができた。長い道のりも、谷川に下りたり、崖を登ったり、寄り道の材料に事欠かず、けっして退屈しなかった。さすがに冬には行けなかった。山頂に雪の残る早春の記憶がかろうじてあるだけだ。それにしても樹氷は意外だった。尾根道が切り立った崖のようだから、吹き上がる風も山頂では相当に冷たいのだろう。三重県側にはロープウェイもあるから、見物に行くことができる。日帰りというわけにはいかないだろうが。
  5年前、中腹を縫って走るスカイラインを通って帰省したことがあった。ところどころ昔の風情が残っていて、ここで弁当を食べた、この沢に下りて水を飲んだなどと、なつかしく思い出したものだった。

 2月3日(日)

 大学も学問も逃げはしない、高村薫の「十二ヵ月雑記帳」(朝日新聞)の一節である。冒頭に高橋和己の引用があったので全編読んでしまった。当世の受験生について言及しており、彼らを相手にしている者としては賛同できないところも多くあったが、文末に置かれたこのシンプルなメッセージは悪くないと思った。本音を言えば「不合格」と聞くたびに腹が立つ。なんで受からないんだ、と叫びたくなる。インターネットで彼らの発表を見る機会も増えたが、当該番号がないと前述のような気分に陥る。まるでその気分を言い当てられた(否定的に!)ようで、反省はしないが、ちょっと面映ゆくもあった。

 2月4日(月)

 穏やかな日和の立春となった。深夜近くのラジオ放送を車の中で聴いていると大原さんという小樽の吟遊詩人が話していた。自作の詩が朗読され、その中の方言に「ごぼうほり」というのがあった。「駄々をこねる」の意味で使われているらしい。同じ言葉を小さな頃に、「根ほり葉ほりしつこく聞くこと」の意味で使っていたような気がする。用例としては、どうして? と2、3回畳みかけると「おまえはごぼうほりだ」と大人から言われるわけである。意味にちょっと隔絶があっておやっと思ったが、ともにこどもに対して使う点は共通している。

 2月7日(木)

 夜10時頃になって“通常の生活”が送れるようになった。昼過ぎに起きたときからずっと頭痛。食欲はあるが、食べ終わるとまた腑抜けのようになってしまう。躯の芯に力が入らない。こたつに潜り込んで、テレビに目を遣ってときおりうつらうつらしていた。頭痛の原因は高血圧か、いやコーヒーの禁断症状かも知れないと、いずれにしても冴えない自問を続けていたのだった。今日はじめての外出が1キロ先の、二番目に近いコンビニ、コーヒーも買ってきて、震える手(?)で入れて、やっと人心地つく、という体たらくである。
 車谷長吉氏が『一冊の本』2月号でこんなことを書いている。
《元禄時代は、社会の経済体制としては、実際にはもう疲弊していた。にも拘わらず、それから徳川幕藩体制は二百年、もった。もちこたえた。それは支配階級たる武士階級が「金を軽蔑」していたからではないか。「金あさり」に血まなこにならなかったからではないか。こういう精神過程は「ついこのあいだまで」、日本社会には生きていた。》(「銭金について」最終回)
 これは日本史の「定説」ではないだろうが、「ついこのあいだまで」というのは、いわゆる「身に覚え」があって、なるほどうまいことを言うと感心した。確かにある時を境に、世の中が、金を持っているというそのことだけで尊敬いや崇拝する風潮に一変していた。「早稲田の貧乏学生」「清貧」などという言葉が通用しなくなっていたのである。車谷氏同様、当方もそれを悲しむ。ところでこの連載は、なまなましい話や毒々しい話を連ねてきたが決して下品に堕ちず、夫人と自分を戯画化する場面まであって、「文士」の面目が躍如としていた。6回でおわりというのが、ちと惜しい。

 2月8日(金)

 3月下旬から4月上旬の天候というので、セーターを脱いで、出かけた。夜のことを考えてマフラーとコートは持っていった。ともに20年近く愛用している代物で、目撃されると、ときおり“デカだ”とこどもらに囃される。袖口がほころび、外見はてかてかと光っているが、手放す気にはなれない。大事な人から贈られたマフラーとて同じである。黒井千次の初期の短編に「メーデー事件」を題材にしたものがあったのを思い出す。デモの時に着た「よれよれのコート」が狂言回しとして出てくる。政治の季節を生きた者の挫折の象徴、といえば身もふたもないが、あのコートは確固とした実在感を持っていた。翻ってこちらは、なんだろうか、と思う。けっして貧乏自慢ではない。為念。

 2月9日(土)

 月の変わり目に風邪の洗礼を受け10日間以上外界と離れて暮らさざるを得なかった女性が、「ああいつの間にか2月になっていたんだと今日気付きました」としみじみ述懐するのを聞いて、いつもながら稀有の感受性を持っていると感心した。時の観念をどこに構築するかはその人固有の個性である。個性が大げさならば、クセと言い換えてもよい。時に追われたり、時を追いかけたり、微視的に眺めれば、当方のクセはすこぶる慌ただしいと思い知る。その女性のごときしなやかさに欠けるのである。
 長いトンネルを抜けて光明を見た、などという言い方もある。この場合、時は闇の中でじっくりと醸成されるにちがいない。

 2月11日(月)

 近くのコンビニへ行くと、買い物代金締めて「1111円也」となった。昨年の暮れに続いて二度目である。今回は、かねて顔見知りのレジの女性が「ああ、今日はいいことがあるかも」と大いに喜んでくれた。売り物の100円ライターを付けて呉れた。「ご褒美ですよ」と言うから、「へえ、褒美が出るのか」と大いに感激した。記念にどうぞ、とレシートを差し出すとその人は恭しく受け取った。いい人だと改めて思った。
 必要があって、虹のイラスト、虹の写真をインターネットで検索した。かなりの量が出てきた。虹に込める思いは、依然強いものがある。虹は、地上の人間を、夢幻の世界に連れて行ってくれる。オーロラもきっとそうなんだろう。そういえば久しく見ない、とちょっと残念な気がした。

 2月12日(火)

 真冬の風物詩ともいうべきか、まっすぐ東西に伸びた道路の向こうに真っ白の富士山が見えた。まるで、そのまま走っていけば数分でそこに行き着けるかのように近い。いや、真に身近なのは左手からモクモクと立ちのぼる二筋の黒煙である。廃材置き場がよからぬものを燃やしているにちがいなかった。旋回する赤いヘリも見えた。住民の通報を受けて監視しているのだろうか。富士と黒煙、ちっとも似合わない。

 2月13日(水)

 欺瞞、という言葉がずっと頭を離れない。長い間公私ともにこういう心性から自由なところにいた。それはとてもしあわせなことだった、と思う。精神衛生上も、ずいぶん助かっていたはずだ。夜、雪でも降り出しさうな曇り空に、星がひとつ輝いていた。雲間を逃れて地上に光りを届かせている果報者の星。いや、果報者は星を見ることができた人間か。

 2月14日(木)

 緊急の仕事がひとつ出来、休日を返上して職場へ。いまひとつ乗り切れなかった仕事も、4,5時間経つと沸々と意欲が湧いてきた。そのうち女子生徒から手作りのクッキーやらチョコレートを手渡され、気分は上々となった。当方の鬱は、その程度に単純と言うことか。

 2月15日(金)

 深夜、西の空にオリオン座が見えた。三つ星が右に傾いて、鋸歯のような山稜に、いままさに突き刺さらんとしていた。日中と夜の温度が大きくちがう。あと何日か、と思えば肌に突き刺さる夜の風も、また興深い。
  しゃっくりが止まらなくなって病院に駆け込んだ直人の話を聞いて、自身の似たような経験を思い出した。何年か前の夏、いっぱいのビールがきっかけで1週間以上出続けた。まじないめいたことを何度もやっていっとき治まったかに見えるが、時間を措いてまた出てくる。肋骨にも影響がでた。まったく生きた心地がしなかったのを覚えている。彼はレントゲンを撮られたうえに太い注射を打ってもらって止めているという。当方は、こんなのも病気のひとつだろうかと不信のみが募って、ついに病院には行かなかった。今度そういうことがあったら、やはり病院に行くべきだろう、と思った。

 2月17日(日)

 どんな“こども”だったのだろうか、と思った。50年の歳月が遠近を超越して迫ってくる一瞬である。素直だったことも、嫌みであったことも、ともに本当のことと思える。それぞれにひとつ、ふたつの記憶が張り付いていて、根拠をなしている。まあ、ご多分に漏れず自意識過剰であったことはまちがいない。器量を伴えば、それはそれでよかったのだろうと、いま口惜しい思いもする。未明のコンビニで代金999円、ちょっと驚いた。しかし、こんなことを何度も書き留める心性はあきらかに病んでいると思うのである。

 2月18日(月)

 昼過ぎ、入間川に架かる初雁橋の上で黄砂に遭遇した。といっても中国大陸からの“ホンモノ”ではない。おりからの強風に煽られた河川敷の砂が舞い上がって目の前をまっ黄色に変えてしまったのであった。その橋を渡りきるのに一分とかからない。したがって、幽玄さも、いっときの夢の如し。おまけに、春一番にはまだまだ遠い北よりの風、とみた。夜は半端でなく冷えた。ひとりで仰ぎ見るには惜しいほどに、星は豪勢に煌めいていた。

 2月19日(火)

 物を掴む手の握りが弱くなったような気がしていた。箸でつまんだおかずがぽろりと落ちたり、箸そのものを落としたりしたことがそう思うきっかけだった。今夜ついに、氷を入れたコップに蛇口から水を入れようとした拍子にコップを流し台に落としてしまった。水に濡れる前で、すべったというのではない。するりと手を離れた、としか言いようがない。もちろんコップはまっぷたつに割れた。
 こんな事態は十分に予想できたのに、注意を怠った。ぬかったのである。指先まで細かく神経を行き渡らせるべきときに、ふっと気が抜けてしまうのだ。精神の弛緩以外のなにものでもない。今日、大学合格の報告に昔の生徒がやってきた。のっけから手を差し出すと、「わあぁ、久しぶりです」と言いつつ手を握った。当方の右手を両手に挟んで長い間そのままにしていた。力一杯握り返して、その有り難い気持ちに報いた。コップを落としたのは、それから5、6時間あとの出来事だった。

 2月21日(木)

 ちょっと尾籠な話になるが、わが家の愛用トイレットペーパーはコアレスである。近くの薬局スーパーでずっと入手してきた。たまに品切れになることもあったが大体順調に補給できていた。ところが、その店が昨秋「マツモトキヨシ」に生まれ変わると同時に店頭から消えてしまったのである。もうコアレスには巡り合えないと半ば諦めかけていたところ、2週間ほど前にふらりと入って覗いてみると再び売られていたのだった。早速買い求めて、大げさだが「よし、これで大丈夫」と呟いた。ありきたりの、かつての日常が戻ってくるとでも考えたのか、大きな安心を覚えた。ところが今日同じ店に行くと、棚から消えているではないか。未練がましく何度も見回したが、ない。思い余って、すぐ近くで蹲って商品のチェックをしている若い店員に訊いた。すると元気印の若者は「ありますよ!」と叫ぶように言った。ずいぶん探したはずなのに、どこにあるのだろう、と訝っていると「倉庫にしまってあるんですよ。ダブル? シングル?」と聞きながら奥に消えた。
  そうか、人気がないから店頭には出さないのか、すると愛用者には大安心だ、とひとりほくそ笑んだのである。それにしても、14日ぶりの休み、トイレットペーパーひとつを収穫に暮れていった、ということか。

 2月23日(土)

 人との諍いは避けたいと常々考えている。もとより、百姓の出自であってみれば、逃げる術も心得ている。何もかも放り投げて「あばよ」と言ってしまいたい場面でも、ふと気が付くと、懸命に怺え、修復を模索している。その出来事もやがて忘却の彼方に追いやられる。あったこと自体を忘れてしまう。このごろやっとそんな自分の“処世”に気付いたが3年間担任だった高校時代の恩師はとっくに見抜いていたのだった。一昨年の夏久々に逢ったときに「おまえだからできるんだよ。おれなんか、とうにケンカしてるところだ」と言われた。何が話題になっていたのかはもう思い出せないが、よく言えば根気強さ、悪く言っても粘りは、やはり日本の農民の属性か。

 2月24日(日)

 女子学生から接骨院での体験話を聞いて久しぶりに大笑いをしてしまった。指を骨折しただけなのに温熱治療のために巨大ボックスに入れられ全身を温める羽目になった。指だけを温める機械がないという理由からだった。ほぼ毎日十数分間、約一ヵ月続いたという。そんなことがあるのかと半信半疑で聞いていたが、異様に熱かったことなどを身振り手振りを交えて話してくれるので、情景もくっきりと浮かび、ついに笑ってしまった。おかしくて、おかしくて、本来あるはずの哀しみなどはついに湧いてこなかった。こういう笑い方は誇りを失うことが多いのだが、このときはそうでもなかった。しばらくあとで、いくら機械がないとはいえ随分おおらかなことであると思った。

 2月25日(月)

 昨日「笑った」と思ったら、今日は「怒って」いた。情緒が移動性高気圧の如く不安定である。空腹と高血圧のせいにするとあまりにも表面的にすぎる、根はもっと深刻なはずではないか、などと思春期の高校生みたいなことを考えていると、四六時中こころは安寧ならず、厭戦気分も漂ってきた。次はいつ「泣く」のだろう。春間近、物憂さもまた、極まれり。こういうときは「友」の存在がなつかしい。

 2月28日(木)

 夜来の雨が降り続いていた。久しぶりな感じがする。止んだ頃に外出。川越駅前では、ハイキングスタイルの年配の婦人に県立図書館の所在を尋ねられた。大通りまで案内する道すがら「本川越から歩いてきたんですが、道は正しかったでしょうか」と聞かれる。それでいいですよ、と「土地の者」のように答える。大通りに出ると、生憎建物は見えなかったが、方角を指し示して面目を施した。昨日は早朝、入学試験に赴く中学生3人を桜並木の校門で若い者らと一緒に見送ったあと、図書館に用事があるというひとりをここまで案内したのだった。みんなともその前で別れた。そんな昨日の今日のことだから、暗合めいた成り行きに感嘆した。2日か3日を飛び越すようにして、明日から3月。この感覚はなかなかなじめない。                 


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