日 録 春雷を聞きながら 

 2002年3月1日(金)

 空気は暖かだがすっきりとした青空はついに見られず、久々の2連休もあっという間に暮れていった。躯は確かに鎮まったかも知れないが、充足感は少ない。意気も上がらず、無為に過ごしたということになるのか、新しい月の幕開けとしては実に冴えない。そんななかでテレビのニュースが全国各地の3月1日の映像をコマ送りのように映し出していた。満開の梅のクローズアップ、宝塚の涙の卒業式、そして岐阜・高山の白線流しでは高校生らが男も女も一斉に制服を着たまま川に飛び込んだ。続きを見たいと思って目を瞠ったが、すぐさま次の場面に移った。残念だった。彼らは、やはり元気であった。

 3月2日(土)

 見る夢のことごとくが現実的でとても“夢のような”と形容できない。夜は身震いする寒さのなか、いくつもの橋を疾走するように越えた。橋のたもとに“佇んで”想像力に勝負を挑むが、またもや負けたような気分であった。

 3月3日(日)

 雛祭りの日であり、やって来た女子数人に「おめでとう」と言う。言いつつ異和感はあったが中高生の彼らは素直に「ありがとう」と返事していた。広辞苑によれば「五節句の一。上巳(初の巳)の日に女児を祝う」とあった。やはりめでたいのにちがいない。夜には、閑散とした職場に十年前に「雛」だった女性がふたりひょっこり訪ねて来る。祭とまでは行かないが愉快な話を一時間ばかり交わしあい、あまつさえ連れ立って職場を退散することができた。偶然の、些細な出逢いによって、ことしの三月三日は輝いたのであった。

 3月5日(火)

 杉本秀太郎氏の「音沙汰」は59回を数える連載物(『一冊の本』)であるが、前回に引き続き《『断腸亭日乗』のパスティッシュ(文体模写)》(著者自註)で綴られている。これまで熱心な読者であったわけではないが、今回の「信楽の里」は数回精読、碩学のしなやかな感性に脱帽の思いであった。そもそも年明け早々の信楽行は「年若き友人にして陶工」の谷井由靖氏の葬儀に参列するためであったらしい。氏は太田垣蓮月にちなんだ新窯「蓮月窯」を始めたばかりで「窯の需要次第に増しつつある折しも主人突如として荷造場にて気絶、不帰の人となる」と書かれている。両氏の交遊もこの江戸末期の歌人を介したものだと知れる。谷井氏、歳は当方とほぼ同じ、高校がちがったから交叉するところはなかったが、信楽にはいまなお十数人の友人がいる。彼らの友人である可能性もあって、まるっきりの他人という気はしなかった。それはともかく、例えばこんなくだりを、ぶつぶつと声に出して読めば何度か通った“あの道”が鮮やかに蘇ってくるのであった。曰く、
《下り坂を疾駆する車より見るに、東北に展けゆく甲賀の山麓、平地の景甚だ佳し。背後を顧れば、鈴鹿山脈の南端の山々今し方降り来し信楽の台地を隠せり。(略)台地なるにも似合わず小岳険しく四周を限り、台上に東西五里、南北三里の盆地を形成し、大戸川の清流ひとすぢに盆地を貫流するも珍らし》と云々。
 この夏には何とかして行ってみよう、と思った。これは懐旧の念だろうか。

 3月6日(水)

 立体駐車場の二階で、車のキーをポケットから取り出した拍子に、別の小さな鍵がホルダーから外れて下の階に落ちてしまった。音を聞きつけた新人が「そのまま動かないでください!」と怒鳴るように言う。一瞬何のことかと、頭が働かなかったが、突っ立ったまま身じろぎしないでいると、彼は車の通り道をすたすたと歩いて下に降りた。決して短い距離ではない。程なく、上を見上げるようにして落ちた場所の見当を付け、探し出してくれた。ああ、そういうことだったのか、と理系人間の発想に感嘆、とともに、若者の気遣いにちょっとありがたい気持ちになった。ホルダーに付け直していると「もう、落とさないでくださいよ」と言うから、「そのときはまた頼むよ」と軽口を叩く。「勘弁してくださいよ」と彼は笑う。明日の合格発表を控えて、一足早く厄を落とした、と思うのは、“年寄り”の後知恵だった。

 3月7日(木)

 ほぼ3年ぶりに高島平駅前の立ち食いそば屋に行った。オヤジが息子に“技”を教え込み、やがて交互に店に立つようになり、息子が結婚したところで、当地での勤務がなくなって遠ざかっていた。今日からまた勤務が復活したので早速出かけてみたのであった。
「やぁ、いらっしゃい。久しぶり」
  息子ひとりが店を切り盛りしている。種々の天ぷらをのせたソバはなかなかに旨い。早くでき上がるのもいい。おまけに安い。「値段も昔のままだね」と言うと、
「値上げした日にはお客さんに逃げられますよ」
  オヤジと同じ口調になっている。
  一度“食い逃げ”をしたことがあった。翌日になって、品物と引き換えに渡すきまりの代金を払わなかったことに気付いた。番号を調べて電話すると、「そうだっけ」とオヤジはケロリとしていた。「いいよいいよ今度で」と言った。そう言われても食い逃げにはちがいなかった。すぐにも駆けつけて払うつもりだったのである。
「オヤジさんは元気?」と聞くと、「今日は早番で、さっき帰ったよ」と息子。3年しか経っていないが、ああ元気なんだと安心した。
「こどもは?」
「男の子。もうすぐ2歳、かな」
  いよいよオヤジと区別がつかなくなった息子は、嬉しそうに言った。

 3月9日(土)

 今月からは週一回の休日が土曜日に変更になった。昼前に起きて、新聞を広げ、そうか『世界・ふしぎ発見!』がまた見られるということか、などと他愛ないことを考えた。それからずっとパソコンの前に坐りっぱなしだった。 職場では“雑用”に追われて遅々として進まなかった仕事も、4時頃にはひとつ片づいて、ほっとした。昨夜は嬉しいニュースが飛び込んだ。2月に入って、受ける高校ことごとくに蹴られ不運を託っていた生徒に繰り上げ合格の報せが届いたのである。そこが一番行きたかった高校というのも、嬉しさに輪を掛けた。その生徒は無口な少年剣士だが、心の底にナイーブな感性を秘めていて、殊に応援したい気持ちになるのであった。それだけに、不覚にも涙が流れた。
 深夜路上にて、エサを漁るサギに似た大きな鳥を一羽見かけた。あわや轢くかと危ぶんだが、流石鳥である、寸前で躱した。その様は、夜目にも優雅なものに映った。

 3月10日(日)

  昼過ぎに出勤すると、すでにシャッターが開いていた。先に誰かが来ているのかと訝りながら2階に上っていった。誰もいない。もちろん電気は消えたままである。どうしたことかと種々考えを巡らす。いろんな理由が考えられた。もし昨夜、帰る際に閉め忘れたのだとすれば、ざっと15時間、開きっぱなしだったことになる。このビルは、駅から続く大通り、ダイエーに面している。昼も夜も人の往来は多い。ぞっとして、部屋の中を点検するが、荒らされた様子はなかった。開けっぴろげすぎて、目的のあるなしに拘わらず、入り辛かったということか。それにしても前代未聞のことなり。今夜は完全に閉まるのを見届けてから、帰途についた。

 3月12日(火)

 旧友・平野正剛から「本」が届いた。二,三年行き来がなかったから、ああ忘れてはいなかったんだ、とちょっと嬉しい気持ちになった。題名は『オラトリオ 女王(ぞ)川物語(矢部川物語)』、扉には「生まれ育った、筑後、柳川のふる里に捧ぐ」と書かれている。早速はじめの何ページかを読んでみた。土地の神話に想を得た古代ロマンのようである。会話に組み込まれた土地のことばに、献辞を添えた彼の心意気を感じた。18のとき故郷を離れ、東上しながらいまの藤沢に辿り着いた男である。望郷の念があるのだとすれば、他人事とも思えない。ここは、じっくり読んでみよう、と思った。

 3月13日(水)

『midnight press』15号はいつにもまして読みでがあった。とりわけ福間健二氏の「倒れながら、けれども倒れずに」は3回ほど読んで、うんうんなるほど、と納得させられた。詩書評の体裁をとった連載物で、今回取り上げられた岡島弘子や山本哲也の詩集を読んでみたいと思わせたのはもちろんだが、納得し感心したのは、著者の肉声のなめらかさであった。詩の尖端を見つめ続ける実作者にしか書けないものだと思った。たとえばこんな一節「今はほとんど死語だというべき〈平和〉をいったん本当に死なせてから、とてつもなく大きい〈三十九億年の物語〉をかかえこませて生き返らせた。/はぐれる。はみだす。入れかわる。本来、生命はそういう自由をもっている。また、私たちの詩の言葉もそういう自由を享受してきたといえる。」はどうだろう。詩にかぎらず書くという行為に「通底」するそれこそ「哀しみ」ではないか。氏の奥深さを再認識させられた。
 冷えた夜、夜を徹して大阪方面に向かうK氏を見送ってから、帰宅の途についた。「大垣行き」の夜行列車も珍しいが、全国の天守閣のある城を巡歴するという目論見も痛快だ。写真に納めて、とんぼ返り同然に戻ってくるらしい。また暇を見つけて、どこかの城へ飛ぶのだろう。居合わせたみなが、いい旅をと祈った。

 3月14日(木)

 荷造りが得意だ。学生時代、丸善の発送室でアルバイトをしていたとき、シベリアに抑留されていたという気むずかしい老人から習った。本を箱詰めにして、紐で縛る、その縛り方を覚えるのに何日もかかった記憶がある。通りかかった書籍課長が「うまくなったな。こいつは、身を助けるぞ」と声を掛けていった。そのときはフンと鼻であしらった。「長」の付く人には誰であれ反感を持っていた時期である。しかし、この技はその後、いろんな場面で役立った。「やります」と買って出て、褒められたりするとちょっと得意な気になった。身を助けているかどうかは分からないが、課長の言は当たっていたと、素直に認めざるを得なかった。その課長は、ダービーの日に、暴走する車にはねられて亡くなった。十数年前の、取締役になって何年かあとの痛ましい事故だった。今日、千枚ずつ束ねられたビラを三十ばかり縛りながらその人のことを思い出した。怖い、狷介だという評もあったが、発送室の前を通るときにはいつも数人の部下を引き連れていた。荒々しさでさえ、人を惹き付ける要素だったのだろう。あなたは正しかった、と直接言う機会は、永遠に訪れない。

 3月15日(金)

 思い出したことがひとつある。タイトルを付けるとすれば「異性と理性」。
 業界紙記者に成り立ての頃、同僚が訊いた。
「なんでこんな風になったのかなぁ」
「そりゃ、異性だろう」とぼくは答えた。同僚は大いに賛同した。
「そうなんだ。そいつが曲者でね。すぱっと捨てられれば、もっと生きやすい」
  いくつかの会話が飛び交ってから、同僚の言動がヘンだと気付いた。肝心のところで噛み合っていない。
「え? 理性と言ったんじゃなかったの?」
  聞き違えたばかりに、お互いが全然別の言葉をめぐってそれぞれの思いを吐いていたのである。そんなオチのついた思い出である。
  議論がちっとも苦にならない時代ではあった。正確には、そういう時代の残り滓で生きていた。その男とも随分やり合った記憶がある。今池あたりで飲みはじめ最後は彼の岐阜の実家に流れついて、そこでまた、彼の弟も交えて飲み継ぎ、ぐでんぐでんになったことも、なんともなつかしい思い出である。いまや名前が思い出せないその男は、ぼくが同じちっぽけな新聞社の東京本社に転勤になる少し前に、もっとメジャーな日刊の新聞社に転職した。華麗なものだった。理性をいったん捨てて、ついに味方につけたとでもいうのか。

 3月16日(土)

 駅前の本屋に行くと、幸い、『新潮』4月号が残っていた。「『死の棘』日記」を読み始める。3ヵ月間の「家庭」の有り様と仕事の記載が独特のリズムで刻まれている。すこやか、さわやか、はれやかという言葉の中に「混迷」が挟み込まれ、しんぷくの深みに思いをいたす。

 3月18日(月)

 朝8時に起きる。駐車場と団地内道路の境界にあるケヤキの枝を伐採するため車を移動するよう前々日に要請されていたのだった。配偶者に起こされ、しぶしぶ着替えを済ませ、車を動かした。昨日は「合格祝賀会」の器材を運ぶために朝から車を出し、池袋までの4,50キロを往復することになった。一次会、二次会の席では酒を控えざるを得なかった。帰宅したのは深夜だった。その車を別の棟の前の路上において、雑誌片手にまた布団に潜り込んだ。昼前外に出てみると、他は枝が切り払われてスリムになっているのに1本だけが地上1メートルほどの高さの“切り株”になっていた。車の出入りに邪魔だったとも思えないのに、と釈然とせず、配偶者に報告するとすぐに窓から覗いて「なんで? もったいない」とあっけにとられた様子である。「また枝が出てくるよ」と自分に言い聞かせるように呟いた。ところが、夜戻ってきて見ると、根こそぎにされていたのであった。影も形もないとはこのことか。がっかりである。決定的な理由がほかにあったのだろうか。

 3月19日(火)

 桜の開花が始まって、季節のめぐりが今年は早い。このころの、深夜・早朝の送迎の愉しみは夜桜が見られることであったと、その桜花が教えてくれた。桜の木に取り囲まれた公園の傍で降ろし、午前3時頃再びそこで帰りを待つわけである。さっき、7分咲きの木の下に一台の車をやり過ごしてきた。中のふたり、夜桜を見上げながら何を話していたのだろうか。

 3月20日(水)

 浦所街道はケヤキの街路樹が続くが、ところどころに桜の木が植えられている。満開に近いその桜が夜の闇にピンクの彩りを添えて綺麗だった。今夜は土星食だったという。月齢6.0の月に20分ばかり土星が隠された。テレビの映像で見てはじめて知ったから、文字通りあとの祭りである。この惑星、輪があることで、郷愁をそそるのだが、我だけの思いか。この目で見たかった。

 3月21日(木)

 春分の日。職場に到着するのに、いつもより30分余計にかかった。車が多かったのは、花見の人、お墓参りの人のせいかも知れない。ただ陽気に誘われて外出する人もいただろう。あとで気付いたのだが、前を走っていた車が一時間以上、つまり、移動距離の3分の2にわたって、同じだった。奇異なことであった。職場でははじめの数時間、暇なうえにひとりぼっち、雑誌を読んで過ごした。福田和也氏はどうしても好きになれない評論家だったが、杉本秀太郎氏との対談「文人街巷に紛れ」(新潮4月号)を読むと「いいところ」も少しはあるのか、と思わせる。「“本”好きでなく“物”好きとして本を読んでいる」などは、本編でそれを実践してくれれば著作を読もうという気にもなるのである。

 3月22日(金)

 アパートを引き払って実家に戻ることになった学生が「一度来て下さい。何のおもてなしもできませんが、あいつはこんなところに住んでいたんだと、確かめるためにだけでも」と言ってきた。朴訥ながら、なかなか味わいのある招待で、感激すら覚え、こんどの日曜日に立ち寄ることを約束した。何度か引っ越しをしてきたが、新しい住まいに慣れてきた頃に、かつての居住空間を夢に見ることがしばしばあった。目覚めた一瞬、ここはどこ? とうろたえる。そんな自身の記憶を反芻しながら、その学生の前途を思った。

 3月23日(土)

 10年ほど前に篆刻を趣味としている同僚に作ってもらった印をほぼ5年ぶりに抽斗の奥から取り出した。固くなった印泥をこね回すとみるみる柔らかくなっていった。さすがに往時の鮮やかさはないが、朱は朱である、独特の風合いを醸していた。 当初は蔵書印にでも使おうと思っていたが、本に押した記憶はほとんどない。何年か続けて年賀状に使ったことがあるが、それもいつしか止めた。今回は、サイン帳(卒業時などに小中学生が友達に回して記念に取っておくという、市販のあれ)に押そうと思ったのである。根強い人気を持つらしいこのサイン帳、頼まれれば書かないわけにはゆかないが、当方には書くことが何もない。名前、住所、電話番号それに電子メールアドレス、誕生日を書いたところではたと行き詰まる代物だ。昔はもっとシンプル、つまり、書くための自由な空間がもっとあったような気がするが、最近のものは細かい質問(他愛ないか、おちゃらけたもの)がぎっしりと並び、いささか抑圧的である。「告白コーナー」「LOVEコーナー」「心理テスト」まで、ある。何の意味があるんだよなどと、ここは、目くじらを立ててはいけない場面である。大半はミスキャストと心得たのか、今回頼んできたのは幸いふたりだけだった。空欄をいっぱい残したまま、朱の印でアクセントを付けておこうという魂胆である。意志が通じるかどうかは怪しい。ちなみに彫ってある文字は「順」。もっと哲学的な文字、例えば「真」や「義」などにしておけばよかった。

 3月24日(日)

 ウグイスの鳴き声で眼覚めることを夢想したが、ダメであった。というのは、昨日はついつい朝まで起きていて、5時過ぎに布団にはいるとほどなくホーホケキョーと可憐な鳴き声が三度聞こえてきたのであった。起きあがって声の主を捜したが見つからなかった。今朝は、来なかったのか、よほど熟睡していたのか、聞くことができなかった。たわむれに広辞苑を開くと、ウグイスとそれに関連した項目が一段以上にわたって記載されている。呼び名も、百千(ももち)鳥、歌詠鳥、春告鳥などさまざまあり、隠語もいくつかあるようだった。その鳴き声のために、いろんな方面から注目されてきた、人間に置き換えれば芸は身をたすくということか。夜、ぶり返した寒さに、身が震えた。

 3月25日(月)

 出かける寸前に、1月28日に死んだ義理の叔父の形見分けとしてスーツが十数着送られてきた。すべてオーダーメイドというだけにもったいないほどの上物である。着たきり雀の我は、一挙に衣装持ちになった。早速そのうちのひとつを着て出かけることにした。開会時刻の30分前に着いたが父母の席はもう満杯になっていた。予想外のことだった。同時中継の教室に入って、ビデオを通して見学した。卒業式、(息子にとっては大叔父にあたる)叔父が愛用したスーツも、そして叔父も一緒に見ていてくれるという気になった。

 3月27日(水)

 朝から夕方まで冷たい雨が降り続いた。冬に戻ったようで、暖房なしでは過ごせなかった。夜、晴れた空に満月が輝いていた。去年のいま頃は雪も降ったと思い出させられたが、今年はその代わりに路上を桜吹雪が舞っている。見た目には春の盛りかと、北風に首を竦める。

 3月29日(金)

 前回までの分を読み返してきて、28日が空白のような一日だったことに気付いた。なぜ日録が飛んだかをそういう表現で納得させるしかなかった。何をしたのか、昨日のことなのに、思い出すまでに暫時を要した。無意識裡に記憶されることを忌避するものがあるのかと我が事ながら勘繰ってみたくなる。夜は、いつもよりも早い時間に職場を退散できたので『BOOKS GORO』に立ち寄って、隆慶一郎の『一夢庵風流記』(新潮文庫)を買ってきたのだった。NHKの大河ドラマにも登場する前田慶次郎の生き様を描いた時代小説である。愉しみながら読めそうである。役小角三部作の三巻目は5,6日前にインターネットで注文したがいまなお「在庫確認中」である。版元(作品社)に直接申し込めばよかったと少し反省している。

 3月31日(日)

 昼過ぎまでたっぷり眠ったが、目覚めは“さわやか”でない。頭の芯が重々しく、首の付け根から両肩にかけて凝った感じが残り続ける。「首が回らない」とはこのことか、と自嘲。先日届いたスーツからひとつを選んで駅前のリフォームセンターにズボンだけを持っていく。ウエストを9センチばかり縮めてもらうことになった。ポイントカードを作りますかと訊かれたので「是非。まだいっぱいあるんです」と答える。料金を払いながら配偶者が「形見なんですよ」と言い添える。「それじゃ、大切なものですよね。また、お待ちしています」と感じのいい応対をしてくれる。夕方、いまにも降り出しそうな空で2時間にもわたって雷が鳴り続けた。桜吹雪のあとは、春雷となった。    


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