日 録  足早に過ぎ去る日

 2002年5月1日(水)

「メーデー」がこの日でなくなったのは去年だったか、それとも今年からか。暦の上から消えて、「風物詩」としても目にし耳にすることがなくなって、いささか拍子抜けがする。「メーデー事件」を題材にした小説(たとえば、黒い千次『五月巡歴』 )にも“註”が必要になるのだろう。5月1日が「国際的労働者祭」となったゆえんを改めて知りたくなり、いくつかの辞典を引いてみた。『角川 外来語辞典』にはこんな記述があった。
「1886年5月1日に、アメリカ全土の労働者が罷業し、かつ示威運動を決行せしに由来し(中略)爾後、毎年5月1日を全世界労働者の示威運動となすべきことを決議し、ついに全世界に波及するに至れり。わが國にては大正9年すなわち1920年にはじまる」(『広辞林』1925年)
 辞典の性格上初出の紹介となっているのだが、それにしても、「立て飢えたる者よ」と唄われた万国の労働者は、歴史の彼方に追いやられてしまうのか。

 5月3日(金)

 四連休の1日目の今日は坂戸高校ギター部の定期演奏会に出かけた。開演の20分ほど前に到着したところ、受付に並ぶ列が外にはみ出して建物をぐるりと取り巻いていたのには驚いた。父母と高校生が1対3くらいの割合だった。126名の部員を擁するとあとで知ったが、なかなかみな元気いっぱいで、オーケストラ顔負けの演奏もたのしかったし、趣向を凝らした演出はさらに愉快だった。高校生、侮り難し、と思った。自身も高校2年生の時、こんな会場で寸劇をやったことがふいに思い出された。予餞会の演し物のひとつだった。「友情物語」という“臭さ”からか、肝心の3年生からのヤジで散々だったが、クラスの結束はそれでいっそう固くなった。いま坐っているような場所で抱き合うようにして泣いていた同級生の女子の姿が甦った。もちろんこれは悔し涙であったが、この演奏会をもって部活動を引退するという司会の女生徒は「つらくても、一所懸命だった日々」を思い出すのか声を詰まらせていた。こちらももらい泣きしそうだった。男子の部長はその3年生40数名をひとりひとり、メモなしで、淀みなく紹介していった。これは凄い、と感心した。こういうところで昔ながらの「青春」は息づいているのかと感慨も深かった。

 5月4日(土)

 秋山駿『信長』(新潮文庫)を再読する。一回目には見通せなかったモチーフ、つまりなぜこれを書かなければならなかったがよく分かった。天才論の枠をかりて、人間という不可思議な存在に錘鉛をおろしていると思った。『信長公記』以外からの、時に長い引用の意味も、腑に落ちる。再読は、いいものだ。中原中也の評伝『知れざる炎』も読み直したくなった。一哉さんからおよそ半年ぶりに句が届いた。

 5月5日(日)

 駐車場を拝借するだけではさすがに気が引け、開いたばかりのお店に入ると「春過ぎて夏来るらし…」という短歌を草書体で認めた袋に粽を入れて売っていた。「縁起物だから」と一袋買い求める。古道具屋で20年も前に買った武者人形の傍らに飾っておいたが、深夜、夜食代わりにひとつ食べた。団子に甘みをつけたような味がした。ほんものの笹の匂いが沁みていること以外は馴染んできたものと違った。田舎では、子供の拳ぐらいの大きさにしたうるち米の粉で作った団子を何枚もの熊笹にくるんで蒸すのだった。大量に作って、あちこちに配り歩いた。一種の保存食でもあったのだろう、何ヵ月か経ってからも、笹にくるんだまま火の中に入れ焦げ目ができる頃合いに取り出して食べたりした。あれは絶品だった記憶がある。子供が小さい頃には毎年のように送ってもらっていた。いまも作っているだろうか。
 土地によって作り方も“もの”も違うのは、正月のお雑煮と同じなのだろう。このお菓子屋さんの粽は、賞味期限が6日となっていた。あまりの短かさに首を傾げ、ここも遠い世界になるのかと、しんみりとした。

 5月7日(火)

「いつ髪の毛を切るんですか」と訊かれた。むさ苦しいから早く床屋に行けという意味かと思ったがそうではなかった。いつ見ても同じ長さに見えるから不思議だというのだった。確かに肩にかかるまで放っておくことはない。年数回はばっさりと切り落とすが、この数回が曲者である。毎日のような顔を合わせる子供らには、そのときの記憶が遠のいてしまう。したがって、いつもながらの「長髪」と映るのである。「毎日自分でチョキチョキと切っていたりして」真顔でそんなからかいのことばまで飛び出した。伸びる分だけ切り揃えていけば、いつも同じ長さとなる。理屈の上からは、まちがっていない。面白い発想だと思うが、少なくとも髪に対してそこまで本気になれない。根気と情熱のことである。
 連休最後の昨日は、義妹ふたりが訪ねてきて、夜遅くまでビールを飲んだ。子供は母親がいつまでも若いと思っているから困る、少しは労って欲しいのに、と最近自転車で転んで左眼のまわりにたんこぶを作ったばかりの下の方が嘆くのを聞いて、確かに自分にも思い当たる節があると、この歳になって反省を強いられ、その感受性に瞠目した。

 5月9日(木)

 昨日、今日と、走り梅雨を思わせるようなぐずついた天候である。5月も中旬にかかるわけだからそれであってもおかしくはない巡りであろう。荒川に沿った街道で、新車を積んだキャリーカーが電柱にぶつかって道路を完全にふさいでいた。その道自体が裏道みたいなものだったから、迂回路たるや、狭いうえに人通りも多く、職場到着が大幅に遅れる。事故を起こした運転手ともども、災難であった。北と西のふたりの母に、それぞれ紫陽花の鉢植えと花束を手配。

 5月10日(金)

 深夜、煙草のけむりを逃がすためにベランダに通じるガラス戸を少し開けた。もうひとつのねらいは、雨音を聞く愉しみである。ザーザーと空を打つ音に混じって、葉に溜まった水滴が土の上に落ちるらしい野太い音が波状的に響いてくる。耳奥に栓が詰まったような症状に朝起きたときからずっと悩まされてきたが、いまやもう正常である。この「耳栓」(と呼ぼう)、なぜか車を運転しているときは気にならないのである。車の震動が狂った平衡感覚を一時的にせよ元に戻すせいかと、素人診断をする。

 5月11日(土)

 夜7時を過ぎてやっと、気持ちのうえで日常の生活に入ることができた。それまではさながら脱け殻のようであった。腹がくちれば眠るということを二度も繰り返した。体調云々よりも、まずは覇気に欠けると反省。同時に、裸虫という言葉がわが身のこととして切実に浮かんできた。身を守る体毛も甲羅もなければ空を飛ぶ羽もない、さらには土中にもぐり込む術も知らない、この言葉、広辞苑には「人間の異称」とある。自嘲、あるいは励まし、どちらにもとれる。はだか故に、しなやかで有り得る、それが人間だ、と。古井由吉氏のエッセイ集に『裸々虫記』というのがある。なぜ“裸々”と強調したのかを知りたくなった。再読に如かずと、例によって本棚を探すも見つからず、いったん断念。

 5月14日(火)

 高校時代キンテン(キンパチではなく)と呼ばれる国語の先生がいた。上の代から引き継がれてきたあだ名だった。自身がそう呼ばれていることは百も承知で、わりと早い時期に「昔は尊敬の念を込めて音読みしたものですよ」と釘を差した。本名を「増井金典」というのだった。この先生の記憶がいまなお鮮やかで、こんな風にふとした拍子に思い出されるのは授業中に『暗夜行路』を全編、何時間にもわたって朗読してくれたからである。少し前に高校で国語を教えている若者にその話をすると、「凄いですね。よほど、自信があったんでしょうね」と驚いていた。低く、透き通った声が耳奥に甦ってくる。ついさっき降り出した雨音を耳にしながら、もう一度聞きたい、と思った。
 しかしそれは、叶わぬことだから、せめて消息なりとも、と最新の同窓会名簿を見ると短大で教えておられることが分かった。あの声は、健在なのだと思うと、勇気づけられる。

 5月15日(水)

 水曜日はいつも気持ちのいい日であるのだが、職場を若い者と連れ立って退出したとき、何か忘れ物があるかも知れないという予感がした。数日前に新しく搬入されたコピー機、設定した時間が経つと自動的にスイッチがオフになる(正確に言うと、物理的にある程度の力がいるスイッチが勝手に元に戻ってしまうのである)、その瞬間を目撃(カチッという音がした!)し、かつ感動した。傍にいた新人に「凄いもんだな。そう思うだろ?」と同意を求めると「いや、それほどには」などと醒めた言い草である。そんなやりとりの直後に、不吉な感じがしたのである。しばらく車を走らせてから、やはり大切なものを忘れていたことに気付いた。しまった、と思わず叫び声を挙げると、同乗の女子学生ふたりが「わたしもよく忘れるんですよ」「わたしも、そうですよ」と交々に慰めてくれる。やはり“いい日”ではあるのだった。

 5月16日(木)

 映画・忍びの者シリーズを二夜連続にて、見るともなく見ていた。おかげで寝不足である。二作目の『続忍びの者』の方がスケールが大きくて一作目より面白い気がした。女房、子供を殺された恨みから信長、秀吉という時の権力者にたったひとりで挑む、一向宗に帰依した元忍者、という設定であった。実はこの忍者、三条河原で釜茹での刑に処せられる石川五右衛門であるのには驚かされた。物語・小説は、広い枠の中で展開されなければならないのだと改めて感じた。日常のどんなに些細なことを描いていても、そこにひとつの世界が現出しなければ、読者の想像力は喚起されない。ところでこのシリーズには『新忍びの者』まであって、そこでは義賊・石川五右衛門は生きていて再び秀吉に闘いを挑むのである。ここまで来ると、受けねらいの感なきにしもあらずで、案の定、途中で眠ってしまった。

 5月17日(金)

 どんよりとしたくもり空で、夕刻から本格的な雨が降りだした。夜はさらに気温も低くなって、弱く暖房を入れて車を走らせる。こういう日がもう3日も続いている。梅雨寒というのは何度も経験したことがあるが、5月若葉のこの時期に、暖房はつくづく似合わないと思う。新聞の小さなコラムで「麦秋」だと気付かされる。収穫期を迎える麦の悲鳴のようなものが聞こえてくる。

 5月18日(土)

 古びた文庫本が出てきた。わずか100ページあまりのうすい本である。裏表紙には煙草の火をわざと落としたのか、ゆるい弧を描くように6つの穴が開いている。何ページ目かに「早稲田のNより」と青い字で自分の書き込みがある。30年前の記憶が部分的に甦ってきた。郷里の鹿児島に帰る途次に立ち寄って、一年近く誰かの家に居候し続けた男だった。同人誌作りを通じて付き合いも深まり、夜な夜な一緒に遊び歩いた。誰とでもすぐにうち解ける、おおらかな性格だった。父親が開業医だと言っていたから、お坊ちゃん育ちだったのかも知れない。流暢に英語を話した。そいつがいつもポケットに忍ばせていた本である。何がきっかけで、この本を譲り受けたのだったか思い出せないが、Nなどとイニシャルで書く必要はなかったはずだ。その本の題名は中城ふみこの歌集『乳房喪失』。試みに傍線が付いているものを引用しておこう。付けたのはNか、自分か、分からない。
 
  不遜なるわが生き方に赤痣の浮くほど頬うつ人もあれかし  
  蛍火の只中にいて見つめいる怖れよ君は死ぬかも知れない

 5月20日(月)

  月曜日に書き留めるのは20数日ぶりである。ブルー マンデーとは、言葉を失う日の謂いであるのか。最近、古くからの友人宮本徹也が「ゆっくりいこう」を立ち上げた。映画論、哲学、小説と多岐のジャンルにわたって骨太な文章を公開している。どの論考もまだ完成途上にあるように思われるが、本来の才の片鱗は窺われる。もともとが一徹な男ゆえに、どんなHPに仕上げていくのか、気にかかる。

 5月21日(火)

 夜中、行きがけに少女をふたり目撃する。ひとりは交差点の角の石垣に腰掛けて足をぶらぶらさせ、もうひとりはその石垣に背をもたせかけていた。道路を挟んで中学校とマンションが立ち並ぶ一角である。交差点を越えると上空を送電線が走る広大な畑、さらにその向こうには太田ヶ谷沼が控える。ここは光と闇の境界線だった。少なくともぼくはそう感じながら何千回もここを走りぬけてきた。だから、語らいの場としては最高ではないかと感心した。少女らの前にある2台の自転車が、わざわざこの時刻にこの場所で待ち合わせたことを物語っている。一転5月らしい陽気に誘われ外に飛び出したか、あるいは、この時期特有の悩みをすぐにも頒ちあいたいと考えたか。20数分後の帰り道、ふたりは寸分違わぬ恰好でそこにいた。石垣に坐っている方は笑顔であった。そんな光景を予期しながら、同じ道に戻ってきたのかも知れない。

 5月23日(木)

 街のラーメン屋の看板に「げんこつ」という文字を見つけた。豚骨はつとに有名だが、拳(こぶし)以外にこんな言葉は聞いたことがない。「とん」に対して「げん」という動物がいるのか、それはみんながよく知っている家畜の別名なのか、あるいは「渾身の力をふるって作ります」との意味を込めた商品名なのか、などとどうでもいいようなことが気にかかってインターネットで調べてみた。商品名ではなかった。検索エンジンには何百件もの「げんこつラーメン」が並んだからだ。そのひとつ、博多ラーメン「げんこつ」なる名前の店のHPによれば「文字通りブタの骨の部位のこと」らしい。これだけでは、豚骨とのちがいは、まだはっきりしない。なぜ“げん”というのか。どんな漢字を使うのか。疑問はさらに深まった。看板を見かけたその店に行って食べる前にこっそりと訊いてみるのが一番だろうと観念する。庭にリンドウに似た花が咲いている。この時期にリンドウはないはずだが、花の色までうすむらさきである。これも「名前」が課題として残った。花と団子、どちらも春の椿事である。

 5月25日(土)

 西方の山の稜線にかかるまっ赤な満月を見た。木の間隠れではあったが、曲がった拍子にまっすぐ目に届いた。鮮やかな未明の景観であった。ほどなくラジオがチェリッシュの歌曲の数々を聴かせてくれた。「えっちゃん」のソプラノは実になつかしい。色で言えばやはり赤か。同じ高音でも小林旭のは金色である。こちらもたまには聞きたいと思った。
 涼やかな風が吹きわたる日中、部屋の中にいると4月の気分である。外の陽射しは案の定きつかったようだ。外出したのはやっと午後7時を過ぎてからだった。

 5月27日(月)

 山下徹氏から詩誌『土星群第十八号』と藤原書店から月刊『機』(PR誌、購読の依頼)が送られてきた。郵便物と言えば請求書や督促状ばかりの昨今だけに嬉しかった。山下徹氏は一度も逢ったことのない人だが六年前に詩集『散乱するものの再生』を贈られている。日常に材を取った警世的な詩集で、意味の深さに驚かされた記憶がある。この詩誌では、前とは随分ちがう調子で、死生を透視するような詩を一編発表している。六年、こんな風に化けてきたのか、と思った。藤原書店は今どき骨太のモノを出し続ける出版社である。とりわけ、鶴見和子、石牟礼道子の著作に興味が湧いた。購読する気になった。“生のどん底”に来たかという思いも少なからずあっただけに、もうひとがんばりの思いが湧いた。ふたり(正確にはひとりと一社)に、ありがとう。

 5月28日(火)

 パンフレットを送って欲しいという電話を「メリーさん」から受けたのが昨日の夕方のことであった。たどたどしい日本語に、なるほどと“納得”した。昼にそのことを思い出し、一応電話をしてから送ろうと思い直した。「宮原町6丁目」はここからはあまりにも遠いところだったからだ。おまけに小学6年生だという。4時から5時の間に2回電話をしたが誰も出なかった。すると5時過ぎに、「さっき電話をもらったのですが」という電話が「メリーさん」から入った。これには別の人間が出て、明日来ることになったと報告を受けた。この時点では、パンフレットはそのとき渡せばいいか、と考えていた。どんな子か見てみたいなどとちょっと待ち遠しい気持ちにもなった。7時を過ぎて、どうやってくるのだろう、と心配になった。2回乗り換えて、1時間はかかるはずだった。途中でもしものことがあったら大変だ。もう一度電話をした。女の子が出た。
「しつこいようですが、また電話をしました。メリーさん?」
「いいえちがいます」
「宮原さんのお宅でしょ?」
「いえ○○です」
  ここで電話番号を言って確認してもらうと「電話番号は合っていますが、うちは宮原ではありませんし、メリーという人もいません」という返事。電話を切ってから、いたずらか、という疑念が生じた。宮原町の宮原メリーというのも、なくはないだろうができすぎの感がある。近くに友人が住んでいるという新人が、「だいたい6丁目があるかどうかですよ」とインターネットで地図を開いてくれる。4丁目までしか探せなかった。
 8時過ぎに、さっきの少女の父親から電話があった。ナンバーディスプレイの履歴を見て掛けているのだという。こちらから何回か電話をした経緯を手短に話すと、娘から概略は聞いているらしく、「いま小学生の間では、メリーさんからの電話というのが流行っているらしいんですよ。何かの名簿でこの番号を調べて、そちらに知らせたのでしょうか」と意外なことを教えてくれる。聞いた住所を言うと、6丁目はないですね、と笑った。新人の勘はあたっていたのである。
  ざっくばらんな人らしく、自分らは共働きで6時にならないと家に戻らないこと、娘は一人っ子、いま中学一年生だ、と話してくれた。「ご迷惑でしたね」と労ってもくれた。悔やまれるのは、そんな人に「いえいえ、実害はないのですが、ひとつ腑に落ちないことは、留守中に電話が入っていたことをメリーさんは知っていたことです」と余計なことを言ってしまったことだ。
 その後「宮原メリーさん」と大きく宛名書きされた封筒(中身はもちろんパンフレット)を机の上に見付けた中学生の一団が「きゃー、怖い」と叫び声をあげたのは故なしとしないのであろう。どんな遊びかは知らないが、メリーさんとはなんとまぁ遠い世界であることか、と感慨もひとしおだった。

 5月30日(木)

 ものすごいスピードで日が過ぎていく気がする。光がなければ時の観念は生まれなかったと誰かが言っていた(科学の常識かも知れない)が、日の巡り、すなわち太陽の進行は、まったく律義である。明日はもう晦日。それに、夏の予感がする。おいおい、ちょっと待てよ、言いたくもなる。
 週一回の、高島平往還。ぎっくり腰で伏しているという人にお見舞いの花束をと思い立ったが、忙しさから職場を離れることができず断念。来週はもう治っているだろうから、機を逸したことになる。こんな頓馬さも、また日のせわしなさのせいか、と云々。

 5月31日(金)

 午前、いまにも降り出しそうな曇り空、風もやや強く、いよいよ梅雨の季節か、と覚悟したが、ついに雨は落ちてこなかった。通勤の途中に通りかかる、水道工具製作所の玄関に神社の御札が貼り付けられていた。いままでもその存在には気付いていたが、今回ついに墨字書きのその文字を読んでみた。「盗難除け」とあった。「秋葉神社」が発行しているものだった。この神様、もともとは何を祀る神様だったか、と拙い記憶探ったが出てこなかった。それにしても、いろんな御札があるものだと感心した。  


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