日  録 いずこかの祭りへ

 2002年7月1日(月)
 
 本棚の目に付くところにあったので『富士』を取り出してみると、ビニールカバーの背表紙が煙草のヤニにまみれてべとべとする。まず水をしみこませたティッシュペーパーでこそぎ落としてから、ページを捲っていった。中の紙も黄ばんでいるが、活字は大丈夫であった。奥付を見ると、昭和52年第九版となっている。読んでから25年ほどが経ったということである。早速序章「神の餌」を一読する。気の利いた題とか、洒落た言い回しを探している、衰弱した心根にグサリと突き刺さった。はじめに動機ありきである。本当のことばは、それに導かれて必ず現れるというお手本である。再読本が、またひとつ増えた。

 7月2日(火)

 午後の早い時間に高校生が2週間自転車を預かってくれと駆け込んできた。聞けば、いまから語学研修でハワイへ行くという。多少落ち着かぬ様子で、髪の毛や服装をしきりに気にしながら「お土産買ってくるよ。なにがいい?」と言い置いて、こちらが返答に窮しているのにもかまわず、あたふたと出かけていった。5分もいなかったのではないか。はなむけの握手をするのがやっとだった。またこの日深夜には、仕事でルクセンブルクに行っていたというK女史から、返信メールが届いていた。はて、どこかで聞いた国名だと、しばし遠い記憶を探り、ベネルクスということばに思い当たった。覚えきるのに難儀したが、覚えてしまうと耳に心地よくて、何度も舌の上に転がした記憶がある。そのうち、遭遇したのは高校生の頃の世界史ではないかと記憶も鮮明になってきた。こんな些細な記憶もどこかで役立つことがあるのだろうか。

 7月3日(水)

 午後11時、まだ作業を続けるという新人・直人をおいてひとり職場を出たとき、ビルの影から小学生らしき女の子がいきなり飛び出してきた。ぶつかりそうになった。おや、こんな時間にどうした? 声をかけたが返事もせずに道路の向こう側へと走っていった。続いて、男の子が同じところから飛び出してきた。ここでピンときた。この兄妹なら、何度か見かけたことがある。ふたりが出てきたビルとビルの隙間を駐車場に向けて歩いて行くと、案の定、自転車を押した母親が現れた。さっき子供に言った言葉で訊けば「仕事が終わったあと、一緒にボーリングをしてきたんです」と晴れ晴れとした顔で教えてくれる。ごく近くのスーパーから下の階のメガネ店にトラバーユした女性である。「上の子は何年生でした?」そんな立ち入ったことも聞いたりして、ゴミ置き場の横で数分立ち話をする。「子猫がいますね。ひどくやせ衰えています」とかねて気にかかっていたことを話すと「ええ、三匹、生まれたんです。この袋を漁っているようですよ」。こちらよりも猫の消息に詳しいのであった。「案ずることはない、か」と呟く。まだ親もついているだろうけれど、不況下の人間よりはたくましい、ということかも知れない。

 7月4日(木)

 きのうに続き、暑い一日であった。去年のいま頃の猛烈な暑さとは較べものにならないが、気温の低かった6月のことを思えば本格的な夏の到来か、と兢々。会う人毎に、暑いですね、暑かったですね、を繰り返す。

 7月5日(金)

 人の百感の絵図、とは太宰治『惜別』に出てくる、文芸を喩える言葉である。ほかにも、アインザームの烏、文明の患者(クランケ)、といった言葉が耳に残った。 いわばキャッチフレーズみたいなもので、ときに作品を貶めたりするのだろうが、けっして古くは感じなかった。50年以上経っても言葉はそんなに古びたりはしないのだと、多少安心した。若い頃の好きな言葉は「蝟集」だった。ハリネズミの毛のように、というところが、興を誘った。「咎」という言葉も、ハングル文字みたいで好きだった。

 7月6日(土)

 若者らの飲み会に参加するために午後7時ごろ自宅を出た。まだ真昼のような明るさである。一年のうちもっとも昼が長い夏至を過ぎたばかりとはいえ、この明るさには驚いた。7時出発と決めたときに、もう暗くなっているだろうという予断があったのも一因であるが、この1,2週間、何を見、何をしていたのかと反省を強いられるほどのものだった。北欧の白夜も、心理的にはこんな感じなのだろうと思った。ともあれこの時間に職場のある方に車を走らせるのは稀なことで、何ヵ所か思わぬ渋滞に引っかかってしまったが、それらを抜けてからは、有料道路を飛ばして約束の時間にかろうじて間に合った。飲み会の方は“新人歓迎”が主な名目だった。OB・OGが6人ほど駆けつけてくれ、また留学生活を終えてNYから帰国したばかりの紀も顔を見せ、またもや愉快な会となった。

 7月7日(日)

 朝から30度を超えたようで、暑い七夕の日となった。病院では風邪と言われました、喉だけなのにと昨夜不平気味に訴えた女子学生の嗄れた声が甦った。おとなしくしておられない性質らしく、別人のような声でずっとしゃべり続けるから傍にいて微笑ましく感じたのだった。実はまったく同じ症状の若者がもう一人いて、今日、「声が出ません」と青白い顔で悲痛な叫びを発していた。こちらはいたって壮健(躯だけは)で、代われるものなら代わってみたいと不謹慎なことも思った。こんな了見でいると、不意に倒れることになって、鬼の霍乱と笑われたりするのだろう。ここは、彼女らが、元の美声に戻ることを祈ろう。火を灯すと「HAPPY BIRTHDAY」のメロディが鳴り出すローソクにびっくりした。

 7月8日(月)

 昼前に起きたとき喉奥がいがらっぽくて、前日の記述が早速祟ったかと危ぶんだ。猛烈に暑い一日だったが、その後、喉・声に異変はなく一日が過ぎた。午後、車の中でNHKFMをつけるとすぐに「ズンドコ節」が聴こえてきた。どうせなら小林旭のものを聴きたかったなぁ、とがっかりしていると、続いてその人の同じ歌が流れたのである。これには思わずにんまりとしてしまった。(あとで「演歌聴きくらべ」という番組だとわかった)。“三枚目のロマンチスト”を彷彿とさせる歌詞をも面白く感じたが、ズンドコってなんだろう? できた当初はちゃんとした謂われがあって、新しかったのだろうが、いま仔細に歌詞を辿ると、古くさくて、滑稽で、おかし味が募る。もちろん躯を電流のように突き抜ける“旭の高音”は相変わらず心地よかった。歌を聴きながらひとりでニヤニヤしていたのは、なつかしさと馬鹿馬鹿しさと、なんだか名状しがたい感情がごちゃ混ぜだったためかも知れない。日付が代わろうとしているいま、喉に異和感が戻ってきた。生活に支障がない程度の、いわばさざ波にはちがいないが、首のまわりからは依然汗が噴き出る。

 7月9日(火)

 しばらく止んだかと思えば、また降り募る、むらっ気の多い雨の中を帰宅した。台風が北上中で、明日このあたりも大雨に見舞われるという。この朝は早起きをして数ヵ月前にオープンしたばかりのホームセンターに駆けつけた。昨夜台所の水道詮からついに水が噴き出し、テープでの応急措置も間に合わなくなり、とりはずすにも工具がなかったからである。おそらく開店直後だったと思われるが、すでにたくさんのお客が来ていた。高速下の畑に建てられた、だだっ広い店だった。「日本一の売り場面積」を自称するだけのことはあると半ば感心しながら人波を縫って売り場を探し回った。ポケットには管の回りを測った紐を忍ばせていた。商品を袋から取り出すことはできないと言う店員にメジャーと計算機を借りて紐の長さを3.14で割ってみた。コンマ数ミリの誤差はあったが適合の管を見つけることができた。レンチも一緒に買って帰宅、早速作業にかかった。付け替え終わってからひとつ不都合な点が見つかった。管の先がネジになっていないといまだローン支払い中の浄水器がつけられないのである。勇んで何かをやろうとするといつもこうなる。宿命みたいなものである。そして、こういう失敗は自分に赦せない(?)性質(たち)である。ちがう店に駆けつける羽目となった。そこにも先がネジのモノはなかったので、取り付け部分だけ拝借するつもりで型のちがう、効き目三ヵ月の浄水器を買って戻った。やはり数ミリの差でネジ穴が合わず失敗に終わった。アイデアは悪くなかったのに、二度までも! 無念なり、と云々。

 7月10日(水)

 深更を過ぎても激しい雨が降り続いている。側溝を溢れ出た水が道路を流れ、くぼみに淀んで、時に小川を走っているような感じがした。対向車や並走車が跳ね上げる飛沫がフロントグラスに当たると何度も視界が遮蔽された。両肩をパンパンにしてハンドルにしがみついていたというのが実相であった。帰宅すると居間に酸漿が飾られていた。10個の赤い袋をぶら下げた太めの一本の茎が信楽焼のかめから横にまっすぐ伸びている。田舎の野ばたで見るのとちがって、可憐さがない代わりに、壮観な印象を受ける。浅草寺のほおずき市にゼミの仲間と行ってきたという女子学生の微笑ましいエピソードも思い出され、嵐の中の走行もまた悪くないものだと思えてきた。

 7月11日(木)

  早起きをして「学校説明会」に出かけた。秩父の山並みが迫る田園地帯に新設6年目の中・高一貫校とそれ以前からある高校の校舎が線路を挟んで広がっている。野球場、ゴルフ場、サッカーグラウンドがそれぞれ専用で、乗馬部の馬場まであった。敷地面積が10万平方メートルもあるというから恐れ入った。それ以上に、教頭の話には度肝を抜かれた。のっけから「世間では私のことをうそつき○○と呼んでいますが」と自己紹介。「ここには文科省の査察の方はいませんよね。いてもまあ、いいんですけど」「またうそつき○○が、ほらを吹いているな、と思われるかも知れませんが、今日は正直に、本当のことを言います」全編こんな風だった。つい眠気も吹っ飛び、清聴してしまった。漫談調ながら、言いたいことはちゃんと言っているので、感心した。感受性のさかんな生徒はこんな“話術”にだまされたりしないだろうが、ぼくは半分以上だまされてもいいと思った。どこにでも“人材”はいる、ということである。

 7月12日(金)

 昨日“話術”のことを書いたが、二日前に新しいプリンターを設置し、不具合を直すために今日再度来訪してくれたセールスマンは、まったく余計なことを話さない。かれこれ一年ほど前に「1枚1円のプリンター」を勧めたのが最初で「これが今度故障したら、考えることになっています」と返答したのだった。以来、ある期間をおいてひょっこり訪ねてきては「まだこわれませんか」とだけ言ってすぐに帰るようになった。これまでに何回来たか、数えておけばよかったといまは悔やまれるが、うるさい感じはひとつもなかった。むしろ待ち遠しく、早くこわれれば喜ばせられるのにと思っていた。長身、白皙の顔は笑うと子供のようにあどけない。いろいろなセールスマンが来るが、この人は「赤鹿さん」以来の好印象であったのだ。(「赤鹿さん」というのは、こんな苗字ありかとまず驚かされた、やはり寡黙な若者で“折良く”故障したファックスを一台注文している。下の名前もそれに劣らず凄かったように思うが覚えていない。)
 今日は、持参したドライバをインストールして何度か試し印刷をする間、手提げの鞄を一度も手から離さなかった。手に持っていることを忘れているかのように、坐っても立っても歩いても手には黒い鞄であった。先回はその同じ鞄を床の上に無造作に置いたまま汗をかきつつ黙々と作業を続けていたから、そっと椅子の上に載せてあげたのだった。仕事ぶりは、鞄を手にしたままの姿同様、誠実そのもので、時に携帯で技術者らしき人と連絡を取りつつ、まずは満足のいく状態に仕上げてくれた。こちらも、義理が果たせたような気持ちになったから、こんな人はセールスマン冥利に尽きるのだろう。もっとも、こっちが言う台詞ではないか。
 趣旨からいってもここには自分のことを書くつもりでいるが、やはりいろんな人に登場してもらわないことには、立ち行かない。昨日今日と肴にした不義理は、赦してもらえるだろうか。

 7月13日(土)

 日曜日に前半部分を見逃した「本能寺の変」を再放送にて観る。弓、やり、鉄砲で応戦したあとに、あの有名な「是非に及ばず」の台詞が発せられたので、おやっ、と思った。脚本が竹山洋だから、それ相応の考えがあってのことだろうが、こんな場面をいくつか観てきた者には、しっくりこなかったのも事実である。『信長公記』ではこんな風に記されている。
「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。信長も御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出し候と思食され候の処、一向さはなく、ときの声をあげ、御殿へ鉄砲を打入れ候。これは謀叛歟、如何なる者の企ぞと御諚の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。」
 このあと弓、槍を持って戦い、「殿中奥深く入り給ひ、(中略)、無情御腹めされ、」となる。「是非に及ばず」は信長の最後の言葉であるのだ。秋山駿はこの言葉の裏に「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である」というナポレオンの言葉を刻んでいる(『信長』)。
 ところで信長は炎に包まれて能を舞うのだが、学生の教科書に使われているという本『世阿弥は天才である』(三宅晶子著)を、当の学生から一時拝借して読み始めている。「能面のような顔」という比喩をかつて一、二度使ったことがある者としては、なぜ「面を掛けて」舞うのか、「面にも表情はあるのか」その辺りを一番感じ取りたい、と思っている。

 7月15日(月)

 台風がまた日本列島を縦断する勢いだ。梅雨明けもいまだ宣言なされていないこの時期に、こんなに矢継ぎ早な襲来は珍しいという。去年も使った気がするが、天変地異、とでもいえばいいのか。額にいぼができていまだ消えない。赤紫色の米粒大で、大きくなる気配もなく、もちろん痛くも痒くもない。顔面の異変である。どうせならば、眉と眉の間のすぐ上、つまりどまんなかにできて欲しかったのに、左にずれている。それが口惜しい。

 7月16日(火)

 起きたときすでに銚子沖に達していて、通り過ぎた後だった。眠りについたのが午前6時頃だったから、まったく“嵐”を知らずにねむり呆けていたことになる。台風7号はすさまじい勢いで北上していったともいえる。昼過ぎてからの暑さは躯の芯に燠火をしまい込んだようで、太陽の熱からくるものとは、ちとちがった。台風一過の感受性はこんな程度である。

 7月17日(水)

 やることはいっぱいたまっていたが、時間がゆっくりと流れていった。不思議な一日だった。職場に着くと同時に、高校三年生の女子がひとり訪ねてきた。それから7時頃まで約5時間余り、彼女はさして動き回らず、同じ場所で、高校生活の現状や志望校について訊かれるままに答えたり、物静かに自らもしゃべったりした。おぉ、もう帰るのか、と言うほど時の経った気がしなかったのである。そして、彼女の中ではどんな風に時間が流れているのだろうと考えずにはおられなかった。あたふたしても始まらない、というのは一種の処世だと思っているが、武田泰淳の『富士』を流れる時間にも通じるようなこういう一日は確かに貴重であった。

 7月18日(木)

 川越を過ぎたあたりから、雨が落ちてきた。風も強く、にわかに嵐の様相を呈した。家についてしばらくするといっとき雨足が激しくなり、ほんものかと思わせた。いま、「雨足」と書いて若い頃のことを思い出した。お互いに習作を見せ合った女子学生と「雨脚」か「雨足」かで夜っぴて論争したことがあった。100メートル道路を行ったり来たり、時に芝生に寝転んだりして、「わたしなら絶対雨脚とは書かないわ」と彼女は言う。「いやこっちの方がピンとくるんだ」そんな他愛ないことでよくも長時間彷徨っていられたものだと思う。そのときか、その前後か、記憶は定かではないが、自転車の前かごに入れて置いた原稿がなくなったことがあった。「逃がした魚は大きい」そんな皮肉めいたことを呟いたことも思い出された。しかし、なくなったのはどっちが書いたものだったか、どちらでもあり得たと思うだけで、真相はすでに藪の中だ。遠い昔の記憶は、よみがえるたびに改変されていくのかも知れない。

 7月19日(金)

 慌ただしかったが、賑やかな一日だった。こういう日は嫌いではない。明日を皮切りに近辺では夏祭りが目白押しだが、そぞろ歩きの人の波を見れば気がはしゃぐ、それと似通った心性なのだろうか。夜店の金魚すくいも、ちゃんと掬えた試しはないが、楽しかった経験である。ふっと気が付くと、深夜の空いた道を、鼻歌まじりに、飛ばしていた。

 7月20日(土)

 全国的に梅雨が明け、ここらあたりは今夏一番の暑さとなった。夜になっても風がほとんどなく、ただ汗が吹き出すのみ。“土用丑の日”ということでウナギを食べた。照会・依頼の返信メール、冒頭に「きゃ−!」とあって意表を衝かれた。若い女性ならば、こんな茶目っ気も様になると瞠目。 というのは、真似をしてやれとばかりにいたずらすれすれのメールを一本送信するも通じるかどうか忸怩たる思いにとらわれて仕舞ったからである。これを年寄りの冷や水と呼ぶのか。

 7月21日(日)

 午前3時頃公園脇まで配偶者を迎えに行くと、子猫が数匹どこからともなく現れて車の回りを徘徊する。時に、路上に仰向けに倒れ込んで白い腹を掻いたりして、余裕のあるところを見せつける。この公園まで車で餌を運んでくれる人と勘違いしているのである。前はその人たち(若い夫婦のようだった)と出くわすこともあったが最近はとんとない。猫の代は明らかに変わっているはずだが、親から子へと記憶が引き継がれているのだろうか。それとも、奇特な人はいまも“健在”なのか。毎回間違われるこちらには、多少の後ろめたさが兆す。今夜は、職場の裏にいる子猫三匹と帰りがけに遭遇した。彼らは、われら三人を見ると、車の下に隠れて、出てくる気配がない。仕方なく、直人と新人に左右の車輪を覗いてもらい、ふたりの合図でゆるゆると発進する仕儀とはなった。ここで轢くわけにはいかないのであった。

 7月24日(水)

 小学校の同窓会報が送られてきた。今年度から校長が代わったらしく、一面に「ご挨拶」とともに顔写真が掲載されていた。どこかで見たことがある顔だと思った。その名前にも覚えがあった。はたして、二年前の高校の名簿に記載されていた。ひとつおいた隣の組だった。仲良しではなかったがどこかで、なにかで交叉したはずだと思えた。それほどになつかしい顔であり、名前である。しかし詳細は思い出せない。検索エンジンにかけるとサッカー関係のところに名前が散見された。当時からサッカー部は強かった。インターハイの常連で、花形の部だった。それでこちらだけが一方的に知っているのかとも思えた。
 しかし、それはもう過去の記憶でどうでもいいことだが、この小学校は全校児童数が今年度47名、次年度は33名の過疎に悩んでいる。昭和30年代には300名の児童がいたはずである。50年近くの歳月の重さを考えさせられた。この秋には「全国へき地教育研究大会」の分科会がここを会場に行われるという。新校長とのかつての関わりはいまだ曖昧模糊としているが、よりによってこんなところによくぞ赴任してくれたと、不思議な縁を感じたものであった。そういえば、同じ小学校に通っていた甥の担任が同級生だと聞いて驚いたことがあった。これは十数年前のことである。当時からもう過疎は始まっていたはずだ。その男にあとで会って話を聞くと、へき地手当が付いたんだよ、と自慢とも韜晦ともつかぬ口調で話したのが思い出される。

 7月27日(土)

 なんてことを! 助手席の配偶者が叫んだ。路面で軋るタイヤの音が聞こえていた。暑い盛りの午後3時過ぎ、大きな交差点の右折レーンで信号待ちをしていた。この時点では何が起こったのか皆目分かっていなかった。なんだ? とあたりを見回していると右折のために交差点に入っていた紺のワゴン車がすぐ目の前にいて、さらにその前を、反対側から慌てて左折してきたジープが横切る。そのままぼくの車にぶつかろうかという勢いだった。すんでのところで止まったから事故には至らなかった。この間数秒ぐらいのものだったが、ここでやっと事態が飲み込めた。ブレーキを踏みつつ必死の形相でハンドルを握る運転者の赤い顔が克明に見えた。十分にスピードを緩めずに赤信号を突っ切ろうとしたため弧が大きくなりすぎて曲がり切れなかったのである。誰にでも分かるそんな“算数”ができないのか、まったく、トーシローはどうしょうもない、などと毒づきながら、ここでやっと恐怖心が兆してきた。躯がぶるぶると震えた。はじめから状況を掌握していた配偶者は「こんなときでも、意外と落ち着いていられるもんだね」と涼しげな口調である。進むことも退くこともできなかったわけで、どんなことになっても甘んじて受け入れざるを得ない“位置”にいたのだった。それにしても、ぶつかられた日には、いい面の皮じゃないか、こっちは、そう言うと、「そうだね」とめずらしく素直に同意した。自分の家までの残り数キロはマニュアルに沿った安全運転を心がけた。あの形相は、他山の石である。

 7月28日(日)

 眠い一日だった。ここでこのままウトウトとできればどんなに幸せかと思うが、仕事中ゆえそうはいかない。机の間をやたら動き回るも、いっこうに眠気は散らない。それどころか、突っ立ったまま、上下の瞼がくっついて、一瞬平衡感覚がなくなるのであった。すとんと落とし穴に落ちてしまうような無重力を体験した。怺える事も、ある種の快感であると思い知る。ポランスキーの『マクベス』を観てから眠ったせいか、起きるまでの数時間の間に、仔細は思い出せないが怖い夢を見た。そんな浅い眠りが、白昼に報いとなって現れたのか。

 7月29日(月)

 ここまで夏祭りとは無縁に過ごしてきた。去年は何度か遭遇して、通り過ぎるだけだとしてもそれなりに華やいだ気分が持てた。今年は、通行止めや混雑予告の看板を見かけるだけで、ああそうなのか、と頷くだけである。この団地でも、十数年前から始めた祭りがつい先日行われた。御輿も練り歩き、夜店も出たはずだが、これしも無縁に終わった。例年になく、寂しい夏、つまりは精神的に余裕のない夏となっている。こういうときは花火を見るとよいのかも知れない。どすんとはらわたに沁みる音響も、聞きたい。田舎から野菜が送られてきて、早速食卓にのぼっていた。

 7月31日(水)

 今夏一番の暑さだったという。昼前に起きて、近くのATMに出かけたあと、“昼寝”を愉しんだ。その後、熱気の熄んだ頃合いを見計らって、久しぶりに『BOOKS GORO』に出かける。途中駅前の宝くじ売り場に立ち寄ると、見たことのある人が後ろに並んだ。はて誰だったかと、例によってまじまじと眺めているとその人もにこりと笑う。いつもは売り場の中に坐っている女性だった。すっぴんの、私服姿だったからすぐには分からなかった。「毎度、どうも」と、今日はスクリーンなしに、目の前で、言われてしまった。「今日は買う立場ですか」と応酬しつつ、こんな偶然もあるのかと苦笑する。確率的には、こっちの方がうんと高いわけか。
  昨日は暑い最中をパンツスーツに身を包んだM女史が久々に現れた。就職して4年目、仕事のできる女性として、いっそうの落ち着きぶりを示していて、感心する。髪が学生の頃のように、長くなっていた。 上着も長袖だったので、仕事の話が済んだあと、しばらく涼んでいくように勧める。近く添乗の仕事でベトナムへ行くのだと言う。退職した教師のツアーで、いまベトナムは老若男女を問わず大人気らしい。それにしても、体力と知力のいる仕事だと、改めて思い知る。        
  


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