日  録 夏の白日夢 

 2002年8月1日(木)

 帰参の途に着く間際、突如として強風が吹き荒れた。道路脇の自転車がことごとく横倒しになっていた。ほどなく雷が鳴り始めた。空一面に閃光が走った。発育途上の稲を覚醒(受精)させて豊穣をもたらす光りだから稲妻というとどこかで聞いたことがある。雨も時に激しく降った。走りゆく前方の空をあからめる瞬時の光りの条に、こちらには“孕むべきもの”があるかどうかと自問。深夜まで開いている本屋に寄って『夏の花・心願の国』(原民喜、新潮文庫)をほとんど衝動的に買う。新装の帯には高村薫の推薦文に事寄せてこんなコピーが書いてあったからだ。「210頁13行目。私には書けない。」

 8月2日(金)

 高島平にて今日もまた激しい雷雨に遭遇する。子供らは外に出て見たいとせがむ。授業を中断することはできず、ドアを開け放して室内に稲光りを呼び込むことにした。音も、遮蔽物がないせいか、きれいに聞こえた。3時間ほど続いた雨が止む頃には気温もずっと下がってすごしやすくなった。その直後、教室にはいるとやけに暖かい(暑いではなく)。いたずら心からひとりがエアコンを暖房に切り替えたのだという。それでいて“張本人”は暑い暑いと喚いている。茶目っ気が入っているとしても、こんな反語的な反応は、普遍的ではあるまいかとわが心理に引き寄せて思う。実際体温を超えるような気温は、いったん思考を停止させ、やがて狂気に誘うのではないか、と。その果てに創造の沃野が開けていればよいのだが、凡人の我には小学生なみのひらめきもない。無念。

 8月4日(日)

 未明、大地を震わせるほどの雷の音が起こった。一瞬停電にもなったようである。しばらく雷雨は続き、夢心地の中で自然のすさまじさを体験していた。時に、内と外で人のわざともいえる物音が混ざってきた。冷蔵庫の開け閉めの音か、周回道路を走る車の音か、いずれ、かそけき音は幻聴と区別が付かない。

 8月5日(月)

 暑い一日だった。明日はもっと暑くなるという。先日衝動的に買った『夏の花・心願の国』のうち「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」の3編を読んだ。惻々とした思いにとらわれる。“日常”を描写するが如く惨過を語っている。いや、逆かも知れない。悲惨の中の日常を正しく、美しい日本語で記録している。「実際、広島では、誰かが絶えず、いまでも人を捜し出そうとしているのでした。」これが「廃墟から」の最後に置かれている一行。いままで、なぜ読もうとしなかったのか、不思議である。「有名」すぎてかえって敬遠していたのだろうか。この夏の、稀有な出逢いとなった。

 8月6日(火)

 連休だったのでいつもより早起きをして活動を開始する。といっても、特段の用はなく、中國新聞のホームページにてこの未明から朝にかけての平和公園の風景、日付が変わると同時に駆けつけた女性の祈る姿などを見る。去年もこんな風にしてすごした記憶がある。ちがうところは、「広場」欄への投稿を思いついて、送信したことである。内容は前日の記述と重なるのだが、自裁した“私小説”作家・原民喜の他の作品をも精読していこうと思った。「広島市長平和宣言」を夕刊にて読んだ。ブッシュ大統領に広島・長崎に一度来いとか、アメリカ政府は「パックス・アメリカーナ」を押し付けたり世界の運命を決定する権利を与えられている訳ではないとか、毅然としていてよかった。文章も、やや美文がかっているも、格調は高かったのではないか。

 8月8日(木)

  コンビニが突然姿を消したり、忽然と現れたりが狭い移動範囲の中でも結構目に付くようになった。最近大きな街道沿いで2つ3つ目撃して、おやっ、と思っていたら、今度は配偶者の送り迎えで通りかかる「ローソン」が店仕舞いして、その交差点が暗く寂しいものになった。駅から歩いて数分、背後に大規模な団地を控えている。通りかかるのは深夜だが、家路を急ぐ通勤者の群れを多く見かける。そのうちの何割が利用していくのかは知らないが、立地はけっして悪くないのである。駐車場がない、煙草を売っていない、近くの店との競争もあって立地はよくても経営は楽ではないのだろうなどと閉店に追い込まれた苦衷を慮っていた。前2つの理由で、当方にしてもこの5年間で利用したのは3回あるかないかである。やはり通り道の、こちらはゴルフ場と小学校に挟まれた、人家も少なければ人通りとてない場所に、店の何倍もの駐車場をこしらえた新しい「ローソン」が姿を現しつつあったことも、消長にまつわる無常感を煽ったのである。ところが、である。昨晩仕事先で配偶者が仕入れてきた情報によるとこの二つのローソン、実は「移転開店」だったのである。張り紙がしてあったというから確かである。無常感も一気に醒めた。それにしても、ちょっと遠すぎないか(ついさっき車のメーターで計測したところによると1.3キロ離れていた)、立地だって全然違うのにと、余計なお世話とは思いつつ自棄のように呟いた。騙されたような気がしたからである。
 HPに入るためのキーワードを2度までも聞きながら、一時間もしないうちに忘れてしまうという失態を演じる。それが横文字だったせいで、片仮名が一字二字と入れ替わってしまうのだった。やはり横文字音痴なのか。メモを取ればよかった、せめて日本語の意味を聞いておけば思い出せたかも知れないと悔やみつつ、三度問い合わせてメールで教えてもらう。そうして無事入れたのは、芸能活動をはじめたばかりの新人タレント・衛藤美菜さんの公式サイトである。自然体の健やかさを愛するが故に、応援したいのである。

 8月9日(金)

 暦のうえでは立秋も過ぎたというのに、記録ずくめの連日の猛暑で躯もへばってきた。風邪やそれにともなう発熱に見舞われる人が身近に何人かいる。明日は我が身か、他人事ならずと同情を禁じ得ないでいるところだが、今日はまた、仕事を終えた頃(空気は昼間の熱気を引きずっている!)には歩くのも大儀なほどに気持ちが萎えていた。あと3日、あと2日と一息つける日までを指折り数えて過ごしている自分を発見してやや自己嫌悪に陥る。そのわりには、日の経つのが異常に早く感じられるわけで、生身の、一個の肉体も、いまや矛盾体と化してしまった。もちろんこんな“生理”を書くのが本意ではなかった。若い者らの元気に押されて、帰宅する頃には、幾分しゃきっとしていた。長崎の原爆祈念日での平和宣言小気味よし。こういう場面でしか本当のことを語り、そのままに流せないマスコミの生理こそ問題だろうと思った。

 8月11日(日)

 市立図書館にて先の投稿文が8日付の中國新聞に掲載されていることを確認する。いくつかの言葉が新聞向きに改められ、三行分の書き足しもあった。その部分がタイトル「民喜から学んだ惨劇」(投稿時のタイトルは「この夏の稀有な出逢い」だった)へと結びつくようになっており“庇を貸して母屋を取られた”気がしないでもない。一度廃墟と化したとはいえもはや廃墟の面影とてない街を走り回り、飛び跳ねた若い頃の記憶を『夏の花』に託したつもりだったが、いずれ意足らずだったのであろう。それに、そんな記憶はあの惨劇と較ぶべくもない。公器としての新聞には、必要不可欠な改変だったと納得することにする。幸い元の文意、広島への思いは、損なわれずに残っていたのだから。

 8月12日(月)

 もう疾うに日付が変わっている。外はいつになく涼しい風が吹いていたのに、シャツの下ではじわじわと汗が吹き出す。この汗は「原存在」をひっくり返そうとする。宮本徹也の哲学論考『トラヴァース』を拾い読みしていたせいかふとそんな感想が湧いてきた。所詮思いつきの域を出ないが、ふるさとの海の底で目を開けたまま坐り込んでいる年配の女性を見てきた、と真顔で報告したという若者の話を聞いたとき、血の気が引き鳥肌が立つほどのおののきを覚えたことが思い出された。見たという若者の感覚はなんと特権的であることか。ただ、そのとき咄嗟に、冬眠するみたいに蹲っている生きた人であるのだ、と思った。生者と死者が出逢うお盆がやってくる。

 8月13日(火)

 昼前に、2日から行方が分からなくなっていた名古屋の女子学生が青木ヶ原の樹海で保護されたという第一報を、NHKのラジオで聴いた。公開捜査に切り替えて十数時間後の発見だった。まずは無事だったことを喜びたい。例によってテレビのワイドショーはいろんな場所からの中継でこのミステリーに迫っていたが当人が元気になれば全容は解明される。事件性との関連も取りざたされているがいまの時点では五分五分といったところらしい。“現代の神隠し”と言えば、不謹慎との誹りを受けるだろうか。それにしても、民放の騒ぎをよそにNHKテレビはこの事件をお昼のニュース以降一切報じていない。よほど重要な情報を握っていて、一大見識から“無視”しているとしか思えない。こちらの方も謎ではあった。夜、札幌の義理の叔母から電話あり。叔父の初盆に送ったお花のお礼だった。「今度来たときは、うちにも泊まって、遊んでいってくださいね」と言われる。葬儀にも行けなかった身ゆえに「是非そうさせてもらいます。おまいりもしなきゃいけませんし」と答えた。

 8月15日(木)

 高村薫『マークスの山』が飛び込んできた。というのは、娘が図書館で借りていた本を持ってきて、返却期限がかなり過ぎているので夜中にこっそりボックスの中に入れておいてくれと言う、その3冊の中に入っていたのである。早く返さなければならないのだが、8年ほど前にいったん読もうと思いながら断念したことが思い出され、これも何かの“縁”だと2日がかりで読んだ。(図書館と利用者のみなさんにはさらに遅れて申し訳なかったが)警察の捜査の模様などは綿密な取材に基づいていることはわかったし、構想力・想像力は凄いものがある。フレームが大きい、というか、磁場が広い。最新作の『晴子情歌』も読んでみたいと思わせた。

 8月16日(金)

 まったく静かなお盆だった。これで夏の休日も終わり、明日から4日間志賀高原・熊の湯である。配偶者には旅行と間違えられ、夏休みもままならない友人にはうらやましがられた。実際、温泉が愉しみでないわけではないが、また、頭が高血圧性の痛みをともなって疼き始めているが、ここは気分を変えて“仕事”に精を出そうと思う。

 8月20日(火)

 志賀高原では早朝、10℃まで気温が下がっていた。まるで晩秋の候で、涼しいどころではなく、長袖を着込んでもブルブル震える始末だった。昼過ぎ、台風の吹き返しだったのか昨夜遅くから降り続いていた風雨が止んだ一面の霧の中を出立して、残暑の厳しいここへと戻ってきた。真っ先に関心を惹き付けられたのは、赤坂の先物取引会社でのボヤと焼け跡から二つの遺体が発見されたというニュースである。口論の末に差し違えた可能性があると報じられていた。それが事実だとすれば、経営上のトラブルから包丁を手に渡り合う、文字通り切ったはったの世界ではないか。都心の、オフィスビルの一角(密室)で繰り広げられた惨劇に、寒気とともに驚愕が走った。“下界”はなんとも怖しい魔物が棲む場所である。

 8月21日(水)

 何年かぶりに、大宮から浦和にかけて車を走らせた。いまは両地とも「さいたま市」となっている。それは承知済みのことだが道路事情が大きく変わっているのにはびっくりした。混雑がなくスイスイ走れるのはいいが、今どこにいるのかがわからない。まるで反対の方向に向かっていることに気付いて慌ててUターンをするということが何回もあった。市街地に入ってからは、例によって迷いに迷った。立ち寄ったコンビニで折良く横に停まっていたタクシーの窓をノックして女性運転手に道案内を乞うた。弁当を食べる手を休めて親切に教えてくれた。「本当に大丈夫?」と当方の目を覗き込み、同じことをもう一度繰り返してくれた。有り難かったが、こんどはいつの間にかさいたま市を抜けているのだった。タクシードライバーの予感が的中したなぁと他人事のように思い、直談判を諦めて電話で済ますか、と考え直したときに、目的地の駅が現れたのだった。しかしこのドライブは非生産的ではなかった。“原点”に戻って、何にもないところから絞り出してでも書かねばという気力が湧いてきたからだ。

 8月22日(木)

 涼しい朝、熟睡したせいか、目が醒めても夢の欠片も残っていなかった。額と手の甲に吹き出した小さな膿胞を見つつ、我が身は依然活火山の如し、と悦に入る。小さな頃は秋から冬にかけて毎年のように全身(主に足と手だった)が“できもの”に被われたものだった。20代のはじめ頃まで、こんな状態は続いた。病院通いの日々、殊に注射やさまざまな薬を試みたことが記憶として残っている。注射や薬が効いても効かなくても、春になるとさっときれいになるのだった。そんな十数年の間には、活火山などと思うことはなかったのに、また自己嫌悪のかたまりと化していたはずなのに、ヘンなものである。

 8月24日(土)

 この土日は、全国各地でお祭りが催されるという。ごく近場でも、商店街や町内会(自治会)主催の、つまりは趣向を凝らした祭りが予告されていた。ふるさとの行事である“地蔵盆”が都会ではこうした祭りに取って代わられたのだろうか。こどものころ地蔵盆というのは、ほんとうのお盆の“付録”に思えて、お盆の余韻を引きずっている身には有り難かった。一五日、十六日の賑わいには及ばないものの、ハレの日として心をときめかせることがふたつみっつはあったように思う。正月三が日のあとの「七日正月」「一五日正月」も似たような感じで受け止めていた。祭りから祭りへ、毎日がそういう面持ちならば、どんなに愉しいことか、と。

 8月26日(月)

 久々に昼前まで眠っていた。用事が一件あって午後出かけるが、きょう一日だけはまったく気楽に過ごせそうである。大いに英気を養って後半の飯場暮らしに備えよう。この“飯場”にはいろいろ難題が控えていて、考えるだけで眩暈がするから、その日暮らし然としてあたふたしている方がいい。きのう、体調を崩して一日中横たわっていた学生はもう元気を取り戻しただろうか。ずっと気にかかっている。固い椅子の上でひとり唸っているしかなかったわけだから、まことに悲しい思いをさせたことになる。
 車の中から、道路を隔てた7、8メートル先の歩道を歩く知人を見かけ、どうしても気付いて欲しいと思ったとき、人はどうするだろうか。大声で呼ぶほど声に自信がなく、クラクションは通行人や運転手に不安を抱かせると考えて、ぼくは手を叩いた。背後のビルの壁にはねかえったのか、小さな拍手の音はその人の耳にうまく届いたのだった。久々に話ができてよかった。

 8月27日(火)

 午後外出するも、とてつもない蒸し暑さに閉口する。体感的には、猛暑がぶり返したようである。と思えば、帰宅途中に仮設の巨峰売り場が開いていて、もうそんな季節か、と驚かされた。家に着いてからは、辺見庸の『赤い橋の下のぬるい水』(文春文庫)所収の中篇3つを読んですごす。この作者のものをじっくり読むのは「自動起床装置」以来だ。奇譚にはちがいないのに、妙に生臭く、実在感がある。言葉が生きている証拠なのだろう。

 8月30日(金)

 打ち上げ会をやるために近所の『牛角』に急ぐ若い者らに背を向けて帰宅の途についた。一ヵ月半に及んだ特別勤務態勢が終わったのである。文字通り汗まみれになったが、それに見合う報いがあったかどうか。宿題は残ったが、充足感はいまひとつないのである。もちろん個人的な話で、去りゆく夏よりも、来るべき秋に希望を託すと言うべきだろう。少し時間に余裕があったので『BOOKS GORO』に立ち寄る。いろんな本を次々と手に取って、いまだにはるけくも遠い道程に、さらに疲労感が募った。思えば30代からずっと同じ感覚に依りかかっているのである。3つ子の魂100までというが、他にもいくつか思い当たることどもがあって、怖ろしい。それにしても、想像力が“地”を離れてくれないのはどうしたことだろう。五百キロ離れたふるさとに向かって車を走らせている姿は、さしずめ白日夢であった。

 8月31日(土)

 左折した直後、目の前の車道を親子連れが横切った。歩き始めたばかりと思しき女の子、その手を引いた母親、一番奥に父親がいた。三人が縦に並んで、当然急ぎ足で歩いているのだった。渡り切るまで車を停めて、見ていた。すると、女の子が、歩道への段差にけつまずいた。しっかり握りしめていた母親の手を軸に、宙空でくるくると回転した。転ぶ寸前に母親が持ち上げたのにちがいない。たしなめる声はするが、それはどうでもよかった。回る様が人間の技には見えず、何とも滑稽だった。おさなごには悪いが、声を出して笑ってしまった。            


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