日  録 二つの橋を越えた月 

 2002年9月1日(日)

 8月の習性を引きずっているのか7時過ぎに目が覚めた。蒸し暑い朝でもう一度眠ろうとしたがなかなか寝付けない。輾転反側しつつもつぎに目が覚めたのは11時過ぎだった。午後は宮城県をルポして回るBS11の長時間番組をなんとなく見て過ごした。生中継(ライブ)というのが惹きつけられる理由だった。山里の分校、水田、枝豆畑、家具職人、郷土料理などが出てきて、愉しかった。殊に、ササニシキ、ひとめぼれの稲穂が頭を垂れている様子は、なつかしかった。いつも通りかかる道路際の水田では既に稲刈りが終わっていたのである。前日に、実ったなぁ、そろそろ刈りとるのか、いやまだだろうな、あと少しか、などと百姓の倅らしく一丁前に“値踏み”していた。たった一日の変化に思わず嘆息したのが昨日のことで、確実に季節は巡っていくと思ったものだった。
  それにしても、この9月朔日、暑い一日だった。

 9月2日(月)

『midnight press』17号が届いた。目次をぱらぱらと見ながら巻頭の詩十数篇を精読する気になった。たしか明け方にすごい(?)アイデアを思いついたはずだが目覚めるときれいさっぱりと忘れ果てていた。半日経ったいまは、すごいのは、アイデアではなく「ことば」だったと思える。そんな理由で、大家、中堅、新人(こんな言い方が赦されるのなら)とり混ぜた編集の“罠”に嵌ってみたいと思うのである。

 9月4日(水)

 親父はよく「かんこう」という言葉を使った。話し言葉の中にしょっちゅう紛れ込んでいた。小さい頃はだいたいの意味がわかれば事足りたが、高校生ぐらいになると正確な意味とどんな漢字を当てはめるのかを知りたくなった。調べると「勘考」がいちばんふさわしかった。書き言葉でもあまり使われない言葉をよく平気で使っていたものだといまは感心する。こっちも、聞き返しもせず、頷いていたわけだから、親父によほど馴染んでいたのだろう。口癖のように“便利な言葉”を使っていたとしか思えない節もあるが、大学生になって帰省した折り、ひとくさり説教を受けた後に「しっかり勘考しろ」と締めくくった。それがおそらく最後に聞いた「かんこう」だった。頼りにしていた長兄を失ってからの14、5年は、そんな言葉を発するほどの元気もなかったのだろう。腹違いだったが格別に可愛がってもらったその長兄がこの朝、夢枕に立った。何かを書かねばという気にさせてくれた。

 9月5日(木)

 開け放した窓から入る風が秋の気配を感じさせる。庭の夾竹桃の枝先に咲き残った3つの赤い花がゆらゆらと動いている。なんとはなし、居所定まらずの感あり。いまだ鮮やかなピンク色にて、すぐには落ちそうにもないが、花弁よ、がんばれ、と声を掛けたくなった。半ばは自分に言い聞かせている、という気がしないでもない。

 9月6日(金)

 予報通り未明から雨が降り出し、終日降り続いた。日付が変わってもなお降り続いている。時に激しく吹き降り、数千キロ離れたところに漂っているという台風16号の存在を思い起こさせる。ともあれ、久しぶりの雨の音、雨の匂いを堪能した。毎日欠かさず飲んでいた「○○茶」のペットボトルを今日は口にしなかった。ついに縁が切れるか。

 9月8日(日)

 三夜連続、夢の中に同じ人が出てきた。中身は脈絡のない話で、はっきりと覚えているわけのものでもないが、実在のその人物がおのおのの話の主人公であったのは確かだ。熱しやすく冷めやすい体質は無意識裡の夢にも伝播したかと危ぶんだ。さすがに四夜連続とはならなかったからだ。
 おりしも配偶者が「何回もお義母さんの夢を見る」と言い出した。現れる人こそ違うが、不思議な暗合に驚いて「で、どんな風だった。元気だったか」と訊くと真顔で「わりと元気に立ち働いていた」と答える。二年以上顔を見ていない、数ヵ月前の電話にも出てこなかった(耳が聞こえづらいという理由で)、それ故に“夢の消息”が唯一のたよりとなるのか、お互い、なんとなくほっとする。暇をもてあましていた昼間には、三日休みが取れれば往復できるのに、と考えていたのだった。母の顔も見たいが、4月に死んだ腹違いの姉の墓にもお参りしなければならない。

 9月9日(月)

 連日連夜の雨風によってさしもの夾竹桃の花びらもついに落ちてしまったようだ。格別に暑かった夏も終わりか。夕方20年以上前の教え子がひょっこりと訪ねてきた。小学5年生になる娘のことで相談を、と言う。他日を約して別れたあと、旧姓を必死に思い出した。おそらく当たっているだろう。娘はいわば“孫”の世代である。時の経過に、しんみりとさせられた。

 9月10日(火)

 昨日夏の終わりを嘆じるようなことを書いたが、秋は毎年いろんな出逢いがあって愉しいはずである、と思い直した。
 “あの日、あの一瞬”が記憶として残っていて、ふとした拍子に甦ることがある。誰しもに共通の経験だと思われるが、今度からは甦る毎にノートに記録していこうかと思っている。そうでもしないともったいないと思えるほどに、どれもが鮮やかな瞬間だからだ。
 たとえば、 運転する友人が横道から飛び出そうとしていた車に警告のクラクションを癇性に鳴らしたところその車がパトカーだった、という場面。二台の車に分乗して会社の仲間と一泊の温泉旅行を楽しんだ帰り道のことだった。この記憶にはいろんなことが付随している。愉しかったことと、恥ずべきこととが綯い交ぜになっている。二〇年ほど前の、秋の出来事だった。

 9月12日(木)

 これから数日は、秋雨前線が南下して日本列島に雨をもたらすという。“秋霖”とよばれる長雨である。ひと雨毎に気温が下がって、秋色が濃くなっていくのか、と思うと楽しみな気もする。もっとも、一年前もこんな風だったはずだが、体感はすっかり消えている。躯の記憶は、儚いものだ。今日は晴天だったが、雨を待ち望んだせいか、伊興吉の「長雨」や、作者はど忘れしたが「湿舌」を読み直したくなった。雨に降り込められた人間(のドラマ)に興が湧いた。中上健次の「赫髪」というのも衝撃的な一編だった。

 9月13日(金)

 週のうちの半分は仕事が終わる頃を見計らって配偶者を迎えに行くのだが、午前4時近くなってもビルから出てこないと途端にそわそわする。すれ違ったまま、彼女は2時間歩いて帰宅しわれは車の中でウトウトしていた過去数回の記憶が甦るからだ。前方から疾走してくる車を確認しても、追いかけて戻るような性格ではない。まっすぐ歩いて帰るタイプである。過去数回がそうだっただけに、ひょっとして歩く姿を見過ごしたのではないか、こっちの自信が揺らぎ出すのである。前回の轍を踏むまいと、近くのコンビニに行って、携帯に電話を掛ける。7,8回のコールのあとに「ただいま出られません云々」のメッセージ。まだ仕事中か、それとも歩くのに夢中で気付かないのか、こっちにわかるわけがない。通り道を追いかけるようにしばらく走って、また公園脇のいつもの待機場所に戻ってきた。すると、女性がふたり車に近寄ってきて「事務室で仕事の件で話し合っていますのでもう少しかかると思います」と教えてくれた。こちらよりはうんと若いのにこんな夜中に働いている、それに明るい、とそのときは、感心もしながら後ろ姿を見送った。
  あとで、すれ違い事件のいきさつを知っている○○さんと△△さんだと教えられた。公園の回りを“うろうろ”していたわれを目撃し、見るに見かねたのであろう、とついに苦笑が漏れたのだった。

 9月14日(土)

 深夜、コン・リー見たさにBS衛星映画劇場で『菊豆』を観た。これが朝からの愉しみだったのだから、2週間ぶりの休日の中身は、以って瞑すべし、か。とはいえ、いい映画だった。葬送の列を遮って「行かないで、待ってくれ」と叫ぶ“棺止め49回”のアイロニーに満ちた哀切さは何だろう。よく生き抜いた13年間の集約としてみれば、かなしさも極まれり、と主人公に感情移入していた。観たあとで、確かめたいことがあって昔の手帖を抽斗の奥から引っ張り出した。メモとメモの間にちょっと大きめの字で「35歳になるまでに」と書き込んであるのが目に留まった。どんなつもりで書いたのか、当時の記憶はないが、こちらも映画とほぼ同じ量の時間が流れたのだと思った。よく生き抜いた、と言えるためには今後の精進か、と殊勝な気分にもなる。

 9月16日(月)

 昼過ぎ駅前の本屋に行って、残っていた文芸誌のなかから『新潮』を買った。連載を除けば小説はたったの3篇。どれも飛びついて読みたいというほどのものではなかったが、吉田修一「正吾と蟹」は真っ先に読んだ。“あらくれ一家”の人間関係を小学生(2年生?)の視点から描いた短篇で、余韻が残った。連作その1、となっているから、人間模様はさらに入り組んでいくのだろう。ここでの「正吾」(22歳)のような男を主人公にして物語を豊かに紡いでいった中上健次の初期の作品が思い出された。

 9月18日(水)

 心ここにあらず、ででもあったのだろうか、裏表を間違えてA4紙を500枚ばかり無駄にしてしまった。印刷機の備品が切れたのがそもそもの始まりだった。コピー機に乗り換えて印刷機と同じ感覚で仕事を続けたための失敗だった。緊張も足りなかったのだろう。
  厄日、と思いきや、平泉・中尊寺から仙台を回る慌ただしい旅から戻ってきた若者らがお土産だと差し出してくれたのが「般若心経寫経扇」、早速取り出して煽ってみれば、香ばしいかおりが漂い、いっぺんに気に入ったのである。広げるたびにお経を唱えて心を安らげろよ、という戒めかも知れない。パソコンの傍に置いて、もちろん、そうするつもりでいる。

 9月20日(金)

 3時過ぎにまっすぐの道を西に向かって車を走らせていると30度ほどの高さのところにオレンジ色の月が見えた。走るにつれて、月が落ちてくる。スピードを上げると、地平線にぶつかるほどの勢いで動いた。北に向きを変える交叉点で停まると、月の動きも止まった。近付くと仰角が大きくなるから上がっていくはずだがと訝りながら、それ以上の詮索はやめた。ここは、落ちる月こそがふさわしい。朝刊で調べると、明日が旧暦の8月15日で、月齢14.0だという。すると、一五夜お月さん、中秋の名月、ということになる。

 9月21日(土)

 昨夜からノーカー・デーと思い決めていた。行きは駅までバスに乗ったが、帰りは約2キロの道のりをはじめの予定通り歩いた。商店街から住宅地へと、看板や玄関先の鉢植えを、ときには夜空を眺めながら、ゆっくりと歩いた。ひとつの軒先に「カメを探しています」という絵入りの張り紙があって驚いた。子供が小さかった頃、水槽にカメを飼っていた。ある日水槽からいなくなったが、翌年の春に砂を盛った遊び場を掘り返しているとひょっこりと顔を出したことがあった。およそ半年ぶりの再会だった。深い縁を感じたものだった。張り紙のカメも早々と冬眠の準備にかかったのかも知れないなどと考えていた。
  ところで、家に帰り着くと、鞄が重かったせいかしばらく腕の筋肉が震えていた。脹ら脛のあたりはいまも心地よい痛さを保っている。恰好の(躯を動かす)機会だと思ったが、少し早足にするとすぐにも息が上がって、日頃の運動不足をかえって痛感させられた。日を置かずに歩いていなければ効果はないのだろう。半年に一度ではおぼつかないと反省しきり。

 9月23日(月)

 急ぐ事情があって一足先に職場を出ると、ひとりの車内でついに暖房を入れてしまった。耳を澄ませば虫々のすだく声もひときわ高く聞こえてくる。まったき自然の中に生きるものには、季節の変化はより敏感に感受されるのだろう。人も昔は、暑さ寒さも彼岸まで、とよくぞ言い得たものである。
  ここ4,5日、準会場受験となる「英検インターネット一括申し込み」なるものに挑戦していた。マニュアルを何度も読み、一度も使ったことのない計算ソフト「エクセル」を操作して、やっとアップロードできたのが2日前だった。やれやれと肩の荷をおろしたところで追加申し込みがあった。「確定」ボタンを押したあとでは登録も修正もできないとマニュアルには書いてあったが、とりあえず「サービスセンター」にメールで問い合わせを出した。それが昨日のことだった。今日、あの殿様商法然とした「英検協会」が休日に営業しているわけはないと思いつつも電話をすると、なんとつながったのであった。そればかりか、事情を話すと1時間くらいあとに担当者から電話があって「いま確定ボタンをはずしたから、追加分を登録して再び確定ボタンを押しておいてください」と親切な対応である。追加申し込みを無事終え、何ごとにも例外はあるものだと感心し、面目も施し、ほっと胸をなで下ろした。
  数時間後、サービスセンターから返事が届いていた。「マニュアルにある通り、確定ボタンを押したあとは一切の変更はできませんのでご了承下さい」とこちらは木で鼻を括ったような文面であった。これぞ“昔の協会”だと人の技とも思えない応対に腹が立った。と同時に、電話していなかったら、と冷や汗が出た。

 9月24日(火)

 路上で酔っぱらいが帰る生徒に何やら絡んでいるようだったので、玄関口に降りていくと、早速こっちに近付いてきて「あんたはぬすっとだ。わたしのカバンを盗んだだろ? まっ赤なやつだよ」ときた。鞄がなくなったのですか、人を疑う前に交番へ行きなさい、などと最初はまともに取り合っていたが、すぐに脈絡なしと判断して相手にする気もしなくなった。ちょうどそのとき、自転車の置き場所を忘れてしまったと言いながら、体育大をめざしているかつての卒業生が傍に寄ってきた。二年ぶりに見る顔だった。目が大きく、笑うときれいな八重歯が覗く女子生徒でてっきり新体操かと思っていたら、器械体操の選手であるという。くだんの酔っぱらいはその間中「アンタは日本人か」「邪道だな」と当方に向けて同じ言葉を何度も呟いていた。話の輪に加わりたそうであったがそこには“真実”が見つけられず一切無視を決め込んだ。もっとまともな、ポレミックな酔っぱらいなら、相手になってやらなくもない。ただし、素面では、ちょっと勘弁である。女子生徒が再び自転車探しに走り去ったのを機にシャッターを閉めた。

 9月25日(水)

 ふと万年筆で字を書きたくなって、ほこりまみれの一本を取り出した。この前に使ったのはいつだったかと思いながら、ペン先をインク瓶につけた。雑誌の余白に、子供の落書きみたいなことを書いた。気分的にも、似たようなものだった。春先に古い友人に葉書を書いて以来と思われたが、なかなかなめらかな書き味で、ほっとした。しばらくして、指先に黒い染みが付いているのを発見した。これも、ここ十年の万年筆の“クセ”だった。外形も機能の一部もこわれかけているが、30年以上使い続けている。「シルバー」というジャズ喫茶で贈られたときの情景もぼんやりと覚えている。欲しかった太字のモンブランだった。その場で贈り主に何か気の利いたことを書いて見せたはずだが、何を書いたかは思い出せない。

 9月26日(木)

 昼過ぎに、荒川をまたぐ秋ヶ瀬橋を越えた。橋下の長閑な風景を眺めながらの走行だった。ヒガンバナの群生も見た。武蔵浦和で用事を済ませたあとは、笹目橋を越えて、高島平に入った。こちらは数キロ下流にある短い橋だが、あちこちからの道が集まっては分かれていく交通の要衝らしく、さながら巨大建造物の感があった。趣は正反対だったが、期せずして二つの橋を渡ることで、現世を飛び越え、また現世に戻ってきたような思いがした。ハイな気分のままに、一日を過ごすことができたのは、功徳か。

 9月29日(日)

 配偶者の送り迎えを終えて3時間ほど眠ったあとに団地の清掃が待っていた。不用自転車を廃棄するというのが今回のテーマだった。30分ほどあと集会所横には、各棟の置き場から運ばれた自転車が山をなしていた。わが家も1台を捨てた。残した2台のうちのひとつはもはや誰も乗らないが、直せば乗れるからとりあえず残しておくことにした次第であった。288戸の団地だから、三戸に1台の割合で廃棄したとして100台近くになる。山もまた頷けるが、その圧迫感から自転車とはなんと“日常”そのものであることかと考えた。七,八年前「終わりなき日常」という言葉が流行り、文芸批評の中にまで鬼の首でも取ったように使い出したお調子者の評論家がいた。その言葉も、件の評論家も大嫌いだったが、“日々の重さ”は今回強く感受された。三日ほどかけて三〇枚の短篇を仕上げた。テーマが乗りかける予感があって、やはり愉しい作業だった。今日は、午後一時から十時まで途切れることなく仕事が待っていた。
 そんなわけで、寝不足による頭痛、少々。

 9月30日(月)

 台風21号が近付いている。大きな崩れを予想したが、「曇り時々晴れ」のままに一日が過ぎた。明日本州に上陸するというから、嵐の前の静けさ、だったのか。夕方頃から腰の筋肉が痛むようになった。理由を考えていたところ、昨日の朝廃棄自転車を運び、腰をかがめて雑草を毟ったことに思い当たった。一日半遅れて躯が反応しているのだった。自転車が重いだって! ふん! と鼻であしらわれそうだから、人に話す勇気fない。昨日の日曜日には、運動会で走ったあと倒れた人が全国で何人も出たとテレビニュースが報じていた。そのうちのひとり、46歳の、園児の父親は重体だというから、これはあまりにも哀しすぎる。     
 


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