日 録 桜からケヤキへ

 2001年4月1日(日)

 久々の休みとなるか、と期待したが、パソコンのトラブルが原因で、出勤する羽目に陥る。きちんとした原理が分かっているわけではないからトラブルは精神衛生上よくない。特に一人で機械に向かうときは。そのくせ、パソコンに通じた人にいろいろ説明を受けると納得することも多く、根っから機械が嫌いなわけではない。新しもの好きだった祖父は、機械という機械は必ず分解した、と言い伝えられている。小学校2年生ぐらいの時に死んだから、その場面を目撃したわけではない。水をしみこませた脱脂綿を唇に当てて死をみとった記憶と、欄間にかかっていた火縄銃が祖父を見おろすようだったのを覚えている。あの火縄銃はいまどこにあるのだろう。

 4月2日(月)

 桜が満開である。車で走っていると、去年も、一昨年も、もう何年にもわたって目にしているはずなのに、ああここにもあったんだ、と新たな驚きに打たれる。まず交差点の角の幼稚園である。園庭の5分の1近くを桜の木が占めている。照明こそなかったが、電柱よりも高いところから、低いフェンスをおおうように、豪勢な花弁のかたまりがたれている。夜目にも鮮やかなピンク色であった。つぎに、いつもの道をそれて、駅に向かう一本道にはいる。普段はめったに通らないこの道の街路樹は、ケヤキだったか桜だったか、と気になったからである。駅まで500メートルほどのところでは、人の往来も増え、互いに大声で呼び合う声も聞こえてくる。道の片側奥深くに満開の桜の列がのぞけた。すると、道行く人の風情は、ゆうべ(日曜夜)の宴のあとをしのばせる。いちばん驚いたことは、この通りの名前が「桜通り」であることだった。どうせ行政がおざなりに付けた名前だとしても、何の変哲もない駅前通りも、一年のうちのこの時期に全神経を集中しているかに思える。住人だって、わざわざ寄り道をして確かめた酔狂人同様、この時期に改めてこの通りの名前を思い出すことがあるのだろう。それでいいのかも知れない。名前なんて、100年、200年の単位でみれば、どんどん移り変わってきたのである。つい百何十年前までは、人の姓も、ふとしたきっかけで変わってきたのである。道をそれたなごりか、話までそれていくが、夜桜の下を走り抜けた者の頭は、高血圧による痛みに久々におののく。

 4月5日(木)

 小さな石ころを踏んだ拍子に足首がねじれた。急いでいたわけでも、走っていたわけでもなく、普通に歩いていただけだった。電気店を出て、車に戻る4,5メートルの間に起こった。それが午後2時頃である。徐々に痛みが増してきて、6、7時間後には、亀の歩み。杖が欲しい、何かに掴まりたい、と切実に思った。家に帰って、見ると踝周辺がこんもりと盛り上がっている。冷湿布をして、痛みは少し和らいだ。家の者らに、大いに笑われる。自分でも情けない。なんせ、通常の歩行中の怪我である。チャップリンのような靴のせいにするしかないか。
 昨日宮崎の友人から日向夏が送られてきた。1820年に発見されたというこのミカンは、みずみずしくて、いい味がするのだった。去年の3月には、上京の折に、宮崎から重いのにわざわざ持ってきてくれたのだった。2年連続で本場の味を堪能できる。有り難いことである。キイロ(今年10才になる手乗りインコ)にもお裾分け。すると、薄皮の方をさかんに食べる。本能でおいしいところを知っているのだろうか。

 4月6日(金)

 15日ぶりの休日。足首の捻挫のこともあり、終日、引き籠もり。配偶者がかごの掃除をする間、外に追い出されたキイロの相手をしてやった。夜になって、「作品4」アップロードに向けての添削やら、メールによる連絡で、パソコンの前に坐りっきりとなる。夜12時前、車を走らせていると、相次いで二組のアベックに出会った。一組は抱き合うようにして公園脇の道路を歩いていた。もう一組は、公園の街灯の下のベンチに坐っていた。道路の角になっていたから曲がり終わる頃に気付いた。女性の方と目があった。何を語らっているのかよりも、数十センチは離れて坐っている二人の距離が気になった。一対、といういまだものにならない自作のタイトルが浮かんだ。対幻想という言葉からの連想で作ってみたいと思った物語は、別れるも、結ばれるも、時代の花、つまりは自分の青春だった。この歳になってしかし、若者がうらやましいなどとは思わなくなった。再び書き始めることができる前兆かも知れない。

 4月8日(日)

 いま午前6時を過ぎたところである。つい1時間前に目が覚め、パソコンのスイッチを入れてしまった。煙草の煙を逃がすために窓を開けると、案の定小鳥のさえずりが聞こえる。周回道路でも、ときおり車が走る。路面をこする、湿った音が、なぜか気にならない。
 昼過ぎから9時まで、職場に詰めて留守番。電話数件と、3人が来訪。それでも、暇なので、新潮5月号の「ネオンとこおろぎ−或いは新宿角筈一丁目一番地」(高橋昌男)を読みはじめる。面白くて、声をあげて笑った箇所がいくつかある。というと、作者には怒られそうだが、また、中身はけっこう深刻だが、巧まざるユーモアがにじみ出ている。この作者、こんな酒脱な作風だったかしらと、記憶をまさぐる。記憶と言えば、よくいろんなことを覚えているものだと思う。もちろん、相当の資料に当たり、想像力を全開にしての気迫の仕事だったにちがいない。回想を装って、小説を構築している。それが読みやすさ、ユーモアの源泉なのだろう。ともかく、後半も一気に読めそうで、これは今夜のお楽しみである。付け足しを一つ。散髪したての頭を「お初」と言ってぶつならわしがぼくらの頃はあったけど、この小説では、「ふだんとちがうちょっとすました格好」に対してのからかいと書かれている。こちらは作者よりも14,5年あとの世代だが、どこで変わったのだろうか。(この項9日未明) 

 4月9日(月)

 昨日が満月だった、らしい。哲学堂に遅ればせの花見に行き、下の方は葉でしたと言った学生が教えてくれる。今夜、やや曇り気味の南の空に、確かにまん丸いお月さんが見えた。そういえば先月も9日は、月の話題だった。一日一回は空を見て、鬱気を放つのは、いい。 
 
 4月10日(火)

 駅から住まいのある団地まで約二キロ、まっすぐの道路には、欅の樹が数メートルおきに植えられている。その名も(例によって)「ケヤキ通り」と呼ぶらしい。今夜は、フロントガラスに小さな雨粒のような樹液が降り注いできた。若葉が繁り、両側から天蓋のように道路をおおうようになったのである。この樹液、正確には樹に群がった昆虫たちが吐き出す「よだれ」だと、どこかで読んだ。別名甘露。カンロ飴というのがあるが、同じ漢字を当てるにちがいない。それはともかく、走っていてこれだけこびりつくということは、何時間か樹の下に停めておいたとすれば、こそぎ落とすのに難儀するのだろう。これも小さな庭に何年も前に植えておいたチューリップが花を咲かせる。この何年かは葉だけでついに花を咲かせなかったのに、つぎつぎと、淡いピンクの花が開く。豊作である。地下でじっと球根を育てていたんだな。この季節、動物も植物も、さかんな生命力を発揮する。その一端を見せつけられた気がして嬉しい。いや、反自然の生活形態をとる人間には、若葉の季節も、厳寒の冬も、同じである、と思い知る。メリハリはどこにあるのか。
「ネオンとこおろぎ−或いは新宿角筈一丁目一番地」(高橋昌男)、最後の数ページを職場で読了。最初の印象は裏切られなかった。青春の文学彷徨を新宿を舞台に活写している。ぼくがその新宿に親しくなるのは物語が終わったあとの昭和48年からだが、地名や建物にかすかな記憶があるからなおさら興味深かった。酒場で「いま、最高に好調な人ですよ」と編集者からみんなに紹介されていたのが10年ほど前である。こんな「再会」は、楽しい。

 4月12日(木)

 朝早くから働いた。といっても、4月からとみに厳しくなったらしいゴミ出しと、9時までに振り込む必要があって銀行へ。そのあとまた少し眠った。曇り空で、雨催いの天気。 が、予報は当たらず、ついに雨はふらざりき。
 川村二郎『語り物の宇宙』は愛読書の一つである。これまでに何回か読み返した。冒頭の甲賀三郎についての文章は、なかなかに興趣に富む。最近、甲賀三郎ゆかりの大岡寺の国宝が盗まれたか、行方不明になったかしたとのニュースに触れたが、その後どうなったのだろう。ぼくは大岡寺から2キロほど西にある高校に通っていた。一度だけ著者に会う機会があって、出身を明かした。「こうかですか、こうがですかね」ときかれ、「濁らないと思います。昔は鹿深と書いたそうですから」と答えたのを覚えている。もちろん根拠はあったのだが、のちに全国の一宮を巡り歩くほどの人になんと賢しらなことをと長く赤面ものであった。つづいて鎮守の「一年神主」の話をすると「それは人身御供ですよ」きっぱりとした答えが返ってきた。これには唸った。一年ごとに神主が交代するこの制度は、村内では、むしろ晴れがましく行われてきた。いまもなお続き、実は3年後の正月には実兄が神主になる。目下、家業と両立させながら修行を積み重ねている。神主の一年間は専任となる。祝いの華美さ・派手さから「嫁に出すようなものだ」と言われている。神の嫁と人身御供。いまとなればこの二つはほとんど同義に聞こえるではないか。物事を深く考えてこその直感というものを川村さんは「文学修行中のチンピラ」に教えてくれたのだった。
 前書によれば、甲賀三郎の遍歴の随所で次のフレーズが繰り返される、という。
「恋しき人には逢わざりき」
 なんという言葉だろう。

 4月13日(金)

 一時はやったバイオリズムという怪しげな診断も最近めっきり聞かなくなった。が、この日は十三日の金曜日にも拘わらず調子がよかった。物事がスムーズに運んだということである。バイオリズムは確実に上昇カーブを描いている、と。つい、徹夜をしてしまう。内にいつ下るとも知れない危険を孕んでいる、上りつめたものは必ず落下するのだが、できるときにできることをというのでなければ、あっという間に人生は暮れていく。

 4月14日(土)

 夜仕事を終えてから練馬の義妹の家に行く。夕方着いたばかりの富良野の義母に会い、配偶者を連れて家に戻ったのが12時30分。朝日夕刊の文化面に山本かずこさんの詩「花の城」を見つけ、何度も読む。「私を離れる繰り返される映像(イメージ)/永遠(ずっと)という言葉の束/私はそれに火を点けた」 決してことばをおろそかにしない山本さんは、これだけのフレーズで、自身のありったけを語っているように見える。敬愛し、畏怖する詩人の一人だ。詩集『不忍池には牡丹だけれど』も送ってもらいながら、いまだまともな感想も書けずにいる。

 4月16日(月)

 朝刊にて田久保英夫氏死去を知る。たくさんの本を読ませてもらった。繊細な文章はひそかに手本にもさせてもらった。『触媒』や『髪の環』はいまでも細部を覚えている。紀尾井町の坂を足早に歩く姿を喫茶店のウインドー越しに見たことがある。当時70才に近かったはずだが、ずいぶん精力的な歩きっぷりだった。

 4月17日(火)

 義母が帰る日にて、早朝高速道路を飛ばして練馬へ。 地下鉄の入り口まで一行を送って、そこで別れる。いきなり夏がやってきたような暑さ。伸びた髪が煩わしくなる。去年の12月から切っていない。根っからの不精者である。こんなことを書くと、まだ髪が残っているだけいいと、また一哉さんにからかわれそうだ。

 4月19日(木)

 昨夜の雨も、起き出した昼前には止んでいた。煙草を買いに数百メートルを往復したのみで、午後仮眠。7時に再び起きて、昔の原稿をいじる。頭の芯が、重い。通底奏音のように響いてくるのは、来し方への追想である。2日前、佐伯一麦さんのホームページ「麦蔵部」と出会う。新刊『マイ シーズンズ』の書評(読売新聞)がきっかけだった。「謙虚で誠実な品位をたたえた」文章と評されていた。夜中ツタヤに走り、早速買い求めた。いい文章に出会えば、頭の重さも消えるというものである。

 4月20日(金)

 駅前の自転車置き場が閉まっても乗って帰れるように外に出しておいたという学生の紀に、車に積み込んで運ぶことを提案すると「ちょっと、面白いね」と無邪気に喜ぶ。トランクの中には、自転車を縛り付ける紐も緩衝用の大きなシートも入っている。深夜のバイトにやむなく自転車で行った配偶者を早朝迎える時のためである。このところ、そういうこともなくなっていたが、慣れた作業である。トランクのふたとぶつかるカタンカタンという音さえなければ、ごく普通の走行。家の前でおろして、ひとしきり蘊蓄を傾けるから、我ながらおかし。昼間の陽気と打って変わって、肌寒い。旭川はこの日、寒が戻って、雪が降ったという。頓挫中の原稿に戻る時期に来ている。

 4月22日(日)

 終日、風、強し。『マイ シーズンズ』予想に違わずいい文章、いい小説であった。読後の気分は、さわやかである。構成もよく考え抜かれ、寄り添う妻の「早紀」の像が魅力的であった。「熊の敷石」で求められなかったものが、ここにはすべて備わっている。小説とはこういうものであるのだろうと思った。6年かかったという佐伯さんの渾身の筆遣いが聞こえてくる。
 トレンドというマイナーなレンタルビデオ店で「忍びの者」を借りてきた。高校時代グラウンドとして使っていた城跡でロケが行われたというのが動機である。肌寒い一日だった。

 4月24日(火)

 朝、快晴。窓越しにケヤキの若葉。この季節になると太宰治の短編を思い出す。五月若葉のようにさわやか、だったか、すがすがしだったか。標題は忘れた。庭のつるバラも、仰山の蕾を揃えて、開花の時期を測っている。以前の借家から持ち来たった木だから、もう20年来、ときには春と秋の年二回、花を咲かせてきたことになる。この木は、何度試みても、一度として接ぎ木が成功しないという、固陋な木でもある。がその一重の花は鮮やかで、今年も楽しみの一つだ。10年のキイロ、20年のバラなどと書き出すと、さながら自分のことを語っているように思えてくる。職場の人と「物忘れ談義」をする。何をする途中だったかを一瞬失念して、ややあって思い出すという他愛ない体験談である。思い出す力はまだ備わっているから大丈夫(?)かな、などと互いに慰め合っていた。あと一週間で4月が終わる。この月は時間の流れ方が早い。1月の倍、3月の1.5倍くらいである。もとより、根拠はない。

 4月25日(水)

 未明から、雨が降る。昼前に起きたときは、止んで薄日が差していたが、昼過ぎからまた雨。春雨というものだろうか、こまかい雨粒が落ちてくる。夕方から夜にかけては肌寒いくらいであった。いちばん大事なことは何かを常に考えていかねばならない。大事と非大事と、紙一重のところで、つい非大事の方に加担している自分に気付く。非大事とはすなわち些末事のことである。ときに大事に至る些末としても、捨てていかねば。『民俗学を学ぶ人のために』という大学の教科書に使われた本を息子の書棚から引っ張り出して読みはじめる。マルクス主義民俗学者の柳田批判も入っているらしい。柳田國男の著作から多くの着想を得、いろいろ教えてもらってきた(行逢坂も頭屋制度もそうだった)ものとしてはちょっと楽しみである。

 4月27日(金)

 信号の手前に車を停めて、例によって自転車を積み込んでいると、信号待ちのためにとなりにバンが一台停まった。なにかの工事の帰りと思しい若者が4人乗っていた。運転手が振り返るようにして見るので、こちらも作業を続けながら見るともなく見ていた。すると助手席側の窓があいて、「大丈夫?」と声をかけるではないか。若い女性がそばにいるので、たちの悪いからかいかも知れないと思いつつ、手伝い無用の意味を込めて「大丈夫だよ」と大声で返答した。即座に車の中で4人が笑う。何やかやと言い合っているが、意味は判然としない。
 大げさに言えば、一瞬ぼくは凍り付いた。確かにトランクに積み込む姿を案ずる風だったが、だとすればこの嘲笑めいた響きは何か、と。
 まさに些末事ではあるが、こういうときの対話は、困難を極める。特に、世代や属性が違うということは決定的である。
 いま、トラックの助手のバイトをしたときのことを思い出した。下町の工場に紙管を運び終えて埼玉の会社に帰る道で、運転手が向こうから歩いてくる若い女性に向けて突然、卑猥な言葉を投げつけたのである。運転手は、学生のぼくよりもいくつか上であった。言ったあとで、助手席で唖然とするぼくを見て、おまえそこにいたのか、とでもいうように気まずそうに笑った。その人は、見るからに気の弱そうな、いわゆる善人にはちがいなかった。そのあとも何回か一緒に仕事をしたが、そういうことはもうなかった。おそらく一回切りのあの言葉は(ここには書き写すことはできないが)いったい何だったのだろう。こんなことを言うつもりではなかったのに、と自身も悔やんだにちがいない。でも言ってしまった。なぜだろうと悩んだかも知れない。30年以上前のことだが、是非そうであって欲しいと、ぼくは思う。と、他人事のように書いているが、実は、その種の後悔は、数え切れないほど、ある。結局いまなお成熟を知らない自分のことでもある。 

 4月28日(土)

 隣に鬼さんが棲んでいる、と書くとおどろおどろしいが、雅号「百鬼丸」、切り絵作家と背中合わせである。ほぼ同時期に入居したから、15,6年来の隣人である。雑誌の挿し絵や本のカバー絵を手がける。地域で最近切り絵教室を開いていて、4,5日前にNHKテレビで「授業風景」が紹介された。独学で技を磨き、いまや高い評価を得ている、その百鬼丸さんが「もうすぐ50になるので、そろそろ弟子を持ってもいいかな」と飄々と語っていた。それはとても自然な、いい口調で、人柄がよく出ている、と思った。一緒に観ていた配偶者によると息子も、小学生の頃習ったことがあって、それもふいに呼ばれて、根っから絵を描くことが好きな人と感じさせる熱心さだったという。また、言い方ばかりではなく、こういう発想もぼくには新鮮だった。次の世代へリレーしていく、こんなごく当たり前のことが口に出せなくなっている。よほど世の中は世知辛いのか。50を越えた者としては、まだ反省の日々は続く。

 4月29日(日)

 明け方にヘンな夢を見た。連載物の夢とでも言えばいいのか、「あの人」の住んでいる家が出てくる。大通りを逸れてゆるやかな坂を下りきったすぐの左手に家がある。場所は毎回同じでも、造りは、鉄筋コンクリートの3階建てだったり、平面的に広がった昔ながらの奥深いお屋敷であったりする。これまでは、通りがかっても、「あの人」どころか誰にも逢うことがなかった。こちらは、偶然の出逢いを期待しているわけである。近くに用事があったんですよ。うまく逢えたときの言い訳まで用意している。それでも逢えなかった。目が覚める方が早かったのだ。
 ところが今回は、その家の前に、正確には内庭に入って、物干し竿を潜るように歩いていると「あの人」のこどもらしき男に呼び止められた。もう中年の顔つきで、「これっきりにしようぜ」と何かを手渡すのだった。見ると、引き出物か内祝いに使われるような四角い箱。せめて「あの人」と一言なりと話したいとあたりをきょろきょろ見回すが、見あたらず。そこで突然場面が変わって、大型バスの天井の座席(そんなバスは見たことがない)、すなわち吹きさらしの場所に坐っているのだった。動けば、振り落とされるぞ、やばいな、と思いつつ覚醒。
「あの人」とは誰なのか。もちろん現し身の自分には大体の見当は付いている。初恋の「イキ」か、あこがれの人だった「チエ」か、いずれにしても、見えざる記憶そのものなり、暗澹。
 昼過ぎから雨。夜中、仕事先に配偶者を届けて、寄り道をして戻るとすぐに電話が鳴る。今夜は非番だったという。近くのデニーズに待たせて、迎えに走る。こういうまちがいは、ここ3年ではじめてである。雨、止まず、ときおり激しく降る。明日も終日雨の予報。

 4月30日(月)

 何を書くかよりも、何を書かないか、が大事なんだよ、と十数年前寺田さんは言った。その真意に気付いたのは、残念ながらずっとあとのことだった。おそらくだが、これはモノを書く姿勢と関わっている、と思った。書くことで消えてしまう映像がある。比喩的に言えば、想像力の源であり、モチーフである。言葉には、常にしわ(吝)くあれ、ということだった。
 つい最近までスーパーのレジにいた女性が、その二、三十メートル先の眼鏡店に転職した。道でバッタリ会う。めがね売るんですか、などととんまな質問をすると「まだ一週間、勉強中なんですよ。なにもわからなくて。今度買いに来て下さい」と笑った。
  


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