日  録 10キロ、深夜の散歩  

 2002年10月1日(火)

 台風21号は猛烈な勢いで北上していった。豪雨も見た。風の唸り声も聞いた。あまりの速さに拍子抜けし、星が瞬きはじめた空を見上げながら帰宅の途についた。ところが、近くの市役所の前にさしかかると、8階建ての全館に灯りが点り、中で職員が立ち働いていたのである。河川の水位を徹夜で警戒する仕事が残っているのか、と思うと、“拍子抜け”などという言葉は不穏当であった。深夜のテレビでは各地での被害が報告されていた。

 10月2日(水)

  おや、泣いているのか? 昼過ぎ駅前を歩いているとOL風の若い女性が俯いて鼻をすすり上げるようにして歩いてきた。声こそ出ていなかったが白昼こんなところで泣くなんてよほど辛い、悲しいことがあったんだろうと同情を覚えながらすれ違った。こっそり顔を覗き込むと、泣いてはいなかった。真剣な面持ちで鼻をすすっていた。
  当方もついに風邪を引いてしまったようだ。葛根湯エキスを飲んで、早々に眠りに就いた。

 10月3日(木)

 約35キロの職場(高島平)までの道のりが自棄に遠く感じられた。途中、のどが渇き咳もひどくなってきたので飲み物を買うためにスーパーに立ち寄り、「1万円航空券」の振り込みのために信用金庫に立ち寄ったりした。とはいえ、普段なら1時間30分程度で着くはずが、倍近くかかってしまったのである。躯が弱っているから、心理的に遠いと思ってしまったのかも知れない。
「1万円航空券」というのは、全日空の「超割」というやつである。昨日、発売開始の9時半になるとすぐに配偶者は、新聞の全面広告に記載されていたフリーダイヤルに電話を掛けた。なかなか繋がらなかった。根気よくダイヤルしておればそのうちつながるだろうと言い、ときおり手伝ったりしていた。代わる代わる1時間も続けただろうか。いい加減腹も立ち、あきらめかけていた頃、義妹から電話があり、「ジャパンスカイサービス」という会社の電話番号を教えてくれた。こちらは一発で通じ、難なく往復の航空券が取れたのである。なんということだとぼくは思った。こんな抜け道があるなんて。配偶者は「うちの会社をどこでお知りになりましたか」と聞かれたそうである。インターネットで調べると、お申し込み時には「インターネットで知った」と書くように指示されていた。それが「呪文」のような効果を持つものかどうかは知らないが、こんなケースを“蛇の道は蛇”と言ってもいいのだろう。
 今夕に顆粒の薬を飲んで2,3時間眠気と闘っているうちに風邪はどこかへ行ってしまったようである。喉のいがらっぽさが少し残っているだけで、他はすこぶる良好。

 10月5日(土)

 朝からの仕事が入ったために、午前8時30分に出立。午後3時過ぎに仕事が終わると新人に後事を託して早々に退散した。帰り道、車を走らせながら何度も居眠りをした。数秒間意識が飛んで、ふと気が付くと中央線を越えていたり、前の車がすぐ目と鼻の先にあったりした。冷房をかけ、窓を開け放ち、煙草を吸っても、眠気は去っていかなかった。あと10キロほどのところで、さすがにこれはヤバイと観念して、スーパーの駐車場に入って仮眠。10分ほども眠っただろうか、そのあとはすっきりとした気分で無事辿り着くことができた。こんな経験ははじめてだが、「教則本」の記載(眠気対策)は本当だったんだ、と感心した。

 10月7日(月)

 夜来の雨も9時過ぎには止んでしまった。駅まで息子を送ったあと、70歳を越えた五木寛之の連載エッセー(朝日新聞)を読む。衰えを知らぬ好奇心とみずみずしい文章に感心する。『風に吹かれて』から40年以上が経っているが、センスはほとんど変わっていないと思えた。ひるがえって、近頃生活感覚が希薄になってきたような気がしている。自意識を透かしてみればどうも浮き上がっているとしか思えなくなる。これでは地に足の着いた文は書けない訳で、職場で求められる作文も、この日誌も難渋。“全日出勤”などと意気込んだのもいけない理由か。じっくり考え直さねばなるまい。

 10月10日(木)

 今回の風邪を甘く見たようだった。数日前に咳と鼻水がぶり返してきて、よくなったと思ったのは幻想だった。まわりの何人かも、ときおりゴホンゴホンとやって、もう1,2週間にもなる。彼らに較べてうんと年を喰っている身がそうたやすく治るはずはない。快復力も捨てたものじゃないなどと自分の躯を買いかぶっていたということになる。このたびは、自戒あるのみ。昼前“秘蔵”の信楽焼の茶碗を取り出して、 久々に抹茶を点ててもらった。当地で陶器製造に携わっている友人に選んでもらった煉瓦色の茶碗は思いの外軽かった。

 10月12日(土)

 赤い実が弾けたザクロを2個もらった。つまんでみると、とても甘くておいしい。小さい頃田舎で食べたものはもう少し酸っぱかったかと記憶の中で較べながら4分の1ほど食べて、あとは持ち帰って食卓に飾ってある。これもまた居ながらの秋が感じられて、嬉しいのである。
  毎年この季節になると一戸隔てたとなりの家の庭のザクロの木に実がなる。その木がベランダから見え、赤く色づくほどに羨ましくてしょうがなかった。もっと正直に言えば欲しくてたまらなかった。入居以来親しく付き合っている人だから、あるときこんな風に聞いてみたことがあった。「今年のザクロはどうですか。大きくなりましたよね」と。弾けたらひとつ分けてください、とはさすがに言えないでいる。毎年そんな思いを募らせていたところ昨日、子供同士の会話に「この間はザクロ、ありがとね」というのを聞きつけたのだった。仔細を訊ねると一方の子の家の広い庭にりっばなザクロの木があっていまや実が鈴なりに弾けているという。「欲しいなぁ」とこっちは遠慮も何もなく所望したところ、早速2個持ってきてくれたのだった。
 食べて見ろよ、と居合わせた子供たちに差し出すと「これ、何?」とおそるおそる口に入れる者がある。ザクロはじめて、というのが何人もいるのにはまったく驚かされた。

 10月13日(日)

 本棚の目に付くところ、とも言えないが、パソコンのカゲに半ば隠れて『幼年時代・青春変転』(ハンス・カロッサ、三修社)があったのでぱらぱらと『幼年時代』の方を読み始めた。20数年前黒井千次氏の薦めで買い求めたのだった。当時の感想はさっぱりと消えているが、とにかくこれは面白いのである。“文学”の原初に還るような気がする。おりしも、『図書』10月号で同氏は「(幼年時代は)自己形成以前の自己模索があるからこそ、そこに人間の本質が見出せる。」と書いている。いまになって薦めてくれた理由をやっと納得する。

 10月16日(水)

 中高一貫のさる私立学校が国語の先生をひとり募集したところ山ほどの応募があったという。「いまが花だよ」と若い知人に応募を勧めた関係で今日、その学校の理事から「1次は通しておきました。校長にも推薦しておきました。あとは実力で、突破してください」との電話があった。書類審査で27名まで絞って、筆記試験、面接、模擬授業とざっと4次の選考を経て1名を選ぶのだという。わかりやすい競争倍率だが、難関に挑む知人には是非決めてもらいたいと思っている。一方で、果たしてどうなるかという、野次馬的な関心もある。終わったあとで選考の経過を聞かせてもらうのも、いまから楽しみである。こんな気持ちは新人文学賞の下読みをやっていたときの感じと似ている。高い点数で戻した作品がどうなるか、不安と自信が交錯したのであった。候補作になり、賞を取ったりすると嬉しかった。もちろん今回彼が採用されれば大々的に祝賀の宴を張るつもりでいる。

 10月17日(木)

 いまでは滅多に通らなくなっていた川越街道ケヤキ並木を走った。車道よりも広い中央分離帯にケヤキやたまに巨大なマツの木が植わっている。ここ10年の間には、車道を拡張するために壊された区間もあるが、断続的に7,8キロは続くだろうか。区間毎に保存会ができており、歴史を感じさせる景観を保っている。変色する前の葉群が車道をすっぽりと被い、下を走る気分は実にのびやかである。車に乗る身には過ぎた贅沢であった。今日は街道を上ったわけだったが、あとで、下りの分岐点にある地蔵ほどの石碑に先日バイクが激突して女子高校生が死んだ、と聞かされた。なんでまたそんなところに、と驚かされた。道には、いろんな魔物が棲んでいるということか。

 10月19日(土)

 名古屋に住んでいる旧友から、一週間ほど前に出したメールの返事が葉書で届いた。葉書というところはいささか虚を衝かれた。メールを開ける度に、遅いなぁ、と舌打ちしてきたからだ。電子メールがなかった頃ならば、一週間はごく普通の時間だったのにせっかちすぎたと無言の“反省”を迫られた。さらに文面を読むと、亀山から鈴鹿峠を越えて田村神社の前まで歩いた、とあった。それも東海道400年の記念行事で湧いた昨年のことだという。そんなに音沙汰がなかったのかとまた驚かされると同時に、坂上田村麻呂を祀る田村神社と聞いて長い参道に出店がひしめいた祭礼の風景が思い出された。当日は隣接した中学校も短縮授業となって、みな勇んで駆けつけたものだった。なぜか、がまの油売りの口上が耳の底から甦ってくる。はるか昔の、佳き日のことを喚起する葉書であった。

 10月21日(月)

 先日娘のところに行ったら案の定村上春樹『海辺のカフカ』上下巻が机の上に置いてあった。案の定というのは、なぜ新作を書かないのかとここ5,6年ぷんぷん怒っていたからだ。同じ村上でも龍の方が数段いい、と言うこっちにまで矛先は及んできたものだった。実際、『世界の終わり…』以来ずっと敬遠してきたが、近頃娘の本棚から拝借して読んだ短篇集『神の子はみな踊る』はよかった。ほとぼりが冷めたら目下の大ベストセラーも読むかも知れない。いまは氾濫する書評に目を通すのみと決め込んでいる。

 10月22日(火)

 買ったばかりの百円ライター、炎の高さが5,6センチにもなり、着火の度にどきっとした。すわ、欠陥商品か、と近頃入ったばかりの岩国出身の若い男に相談を持ちかけた。彼は百円ライターの構造に精通しているらしく、炎の出る部分の金具を素手で取り外して中の調節弁を回し始めた。道具はいるかと聞くと「いえ大丈夫です」とひたすら爪先でいじっている。格闘すること十数分、「何とか直りましたよ」。戻されて点けてみると、かわいらしい炎が出た。「それ以上大きくならなくなってしまいましたが」と申し訳なさそうに付け加えた。毎回どきっとするよりはいい、それに用を足せばいいんだ、と感謝した。

 10月24日(木)

 本を読んでいるときと、たとえば明日の行動をあれこれ思案しているときとでは、α波だったかβ波だったか忘れたが、その波の動きが大きくちがうことが実験で確かめられたという。「ものを考えることの大切さ」というまとめが付されていた。現下のわれを戒めるものとしてその新聞記事を読んだ。実際、この頃鏡を見るのが怖いのである。目の下の隈が消えず、なんとも貧相な顔つきになっている。信号の手前で帰宅途中の中学生の教え子を見つけ、クラクションを鳴らした。向こうもすぐに気付いて車道に下りてでも近づいてくる気配だった。助手席側の窓を開けて手を振ると、満面の笑みを浮かべながら振り返してくれる。信号が青に変わって再び発進させながら、彼女ほどには澄んだ笑顔が出ないなぁ、と嘆息した。明日は学生時代からの友人ふたりと有楽町で逢うことになっている。1,2年ぶりに、近況を語り合うことになる。こちらはきっと、α波またはβ波を刺激するだろう。

 10月26日(土)

 午前8時に目覚まし時計に起こされて30分後に出立。朝からのコマを買って出たためである。昨夜帰り着いたのは午前3時前、去年のようにならないためにと気遣われて、2軒はしごしただけでなごり惜しく畏友らとは別れたのに、また終電に乗り遅れ、10キロの道のりを歩くことになった。タクシー待ちの長蛇の列には最初から並ぶつもりはなかった。深夜の散歩、また愉しからずや、であった。そんな話を職場でしていると小5の男子が会話に割り込んできて「おいらなんか、野辺山で16キロ歩いたよ。4時間かかった」と自慢げに言った。そうか、彼らはお天道さんの下を仲のいい友達と駄洒落でも言い合いながら歩くのだろう、と思った。まだまだ何年もそういう時を過ごす“特権”を持っている。こちらの“時”は、スピードを緩めもせずに追い抜いていく車に激しい敵意を感じる体のものだった。ここまでは入り込んでこないだろうと思った畑の中の細い一本道、約600メートルを歩く間に、5台もの車に遭遇した。これには、まいった。

 10月27日(日)

 どこかの誰かのエッセイで数十年という言い方に触れて「四より上で七より下の数(かず)を“数(すう)”という」と断定していたのでずっと気にかかっていた。こちらはもう長い間「二,三」のつもりで使っている。これでは使い方が間違っていることになるからだった。広辞苑に当たってみると「三,四、または五,六の不確定数を示すのに用いる」とあって、かろうじて「三」をカバーしている。ところで、なぜ「二,三」と思い込んできたのだったか。きっとそれなりの理由があるはずだが、いまとなっては思い出せない。かすかに思い当たるのは…。手元の英和辞書を引いてみた。「a few」と「several」である。はるか昔に受験英語だけは熱心に勉強した記憶があるから、ここらあたりが淵源かも知れない。ところがどちらの項にも「具体的な数は文脈に従う」とあった。なるほどそういうことか、と一応は納得した。いま流行の言い方を借りれば、ことばは生き物である。少なくとも断定は避けた方がよさそうであった。

 10月29日(火)

 夜、通りに出て驚いた。途轍もなく寒いのである。木枯らし一号が吹いたとは思えなかったが、いよいよほんものの寒さを予見させた。毎年この季節になると、来るべき1、2ヵ月後を想像して、これしきで音を上げてどうする、と言い聞かせることにしている。それでどうなるものでもないが、体感から言えば真冬の記憶よりも今夜は寒かったのであった。予報では明日以降「寒さはゆるむ」と言っていた。こんな言い方にも、冬の足音を感じる。友人から、富山の水、正確には立山連峰の清水「星のしずく(ステラ・ロッセ)」2リットルのペットボトル半ダースが送られてきた。風邪気味だと言っていたが、出張にでも行ったのだろうか。こちらは、早速コップ2杯を飲み干した。甘みのある水は、臓腑に沁みた。

 10月31日(木)

 いつものGSに立ち寄ると見慣れない若者が3人もいた。早速駆け寄ってきて窓を拭いてくれた。古くからいる人に聞くと近くの中学校から派遣された「実習生」だという。社会勉強を兼ねて、ほんの一、二時間働いてレポートでも書くのだろうと思ったら、朝9時から夕方4時までびっしり詰めて、それが3日間続くらしい。受け入れる方も「一年生なんですよ。気を遣います」と当惑顔で言っていた。何らかの職業に触れて「社会意識」を持つのは悪いことではないが、時間の長さ(念の入れよう)には恐れ入った。学生の本分を全うした方が長じてうんと役立つと思うが、現代の社会はそんな悠長なことでは立ち行かなくなっているのだろうか。ついに“懲役・更正”などということばを思い浮かべた。そう言えば中教審の答申にボランティアの名を借りた、徴兵制を連想させるようなものがあったと記憶している。その流れでこんな実習生が出てきたのだとすれば、この世の中、すさみも極まれりと、断じざるを得ない。           


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