日  録 わが罪と、罰の形  

 2002年11月1日(金)

  ついさっき午前0時を回った。ということは11月に突入したところである。天気は西から崩れてきているという。昨夜帰宅途中にもところどころで雨に出合った。いまはどうかと戸を開けると雨は止んでいたが、網戸にカマキリが逆さまになってしがみついているのが目に留まった。卵を産む場所を探しているのか。あるいは、卵を産んだあとじっと余命を怺えているのか。毎年この季節になると、ここに何日も張り付いていつしかいなくなる、と配偶者は言う。生まれた川を遡る鮭のようだ、と。そうだったっけ、とこちらは途切れた記憶を懸命に結ぼうとする。カマキリの一生を考えた、晩秋のはじまりであった。

 11月2日(土)

「木枯らし一号」が吹いた朝、沼に向かって広がる畑のすぐ先に、秩父の山々の稜線がくっきりと浮かび上がっているのが見えた。黄葉前の、まだ緑を残す山肌の佇いだった。空の青、雲の白との鮮やかな彩色に感嘆した。この青も、この白も、しばらく見なかった空の色ではないかと思った。富士山こそは見えなかったが、もはや死語同然の“日本晴れ”という言葉が浮かんだ。
  昨日カマキリの一生と書いた手前、気になってインターネットで検索してみた。飼い方を指南したHPまであってびっくりした。木の枝の卵を枝ごと切り取ってプラスチックの箱に入れておくと、春先に何十、何百と孵って、そのうちの2,3,匹を選ぶとよい、生きた昆虫のエサには苦労するだろう、などと書いてある。あなたも太く短いカマキリの一生に触れてみませんか、との誘い文句も見つけた。どこに、どんな好事家がいるかわからないものだ。ところでわが家のカマキリは、つい最近まで“地域猫”のねぐらになっていたベランダの元金魚の水槽に入り込んで、やはりじっと動かずにいる。もちろん、生きている。

 11月4日(月)

 6年ぶりの早稲田祭に「アカペラ」を聞きに行ってきたという女子大生に、それは何の略だい、と訊いて笑われてしまった。とんちんかんな質問を重ねるうちに音楽ジャンルのひとつかな、と徐々に焦点が結ばれてきた。最初はグループの名前かとも思ったのであった。「ゴスペラーズ」という名前が出てくるから黒人霊歌と関係があるのか、ならば当方も多少は知っている、などと思っていると、心優しい学生は何も知らないオヤジを軽んじることなく詳しく中身を教えてくれた。それでも、一度目に見耳に聞くまでは、完全に納得がいったわけではない。横文字を触れるとまず意味を詮索するのは旧世代の人間の証拠だろうか。最近では「セッチャリ、ニケツ」と聞かされてはてなと首を傾げた。中高生あたりが使うこちらは日本語の変形だったが、「正しくは、セッチャ、ニケツですよ」と訂正されていよいよ参ったものだった。

 11月6日(水)

 地下のファストフード店の脇を通りかかったとき若い男が目の前の席を立って頭を下げた。顔には見覚えがあったが名前は思い出せない。大学生の頃に一度道で擦れちがったことがあるのを覚えていた。それからもう何年も経っている。近づいて「誰だったっけ」と聞くと苗字を教えてくれた。下の名前も自ずと思い出されて、この教え子の中学生の頃の様子が甦った。「もう大きくなったんだよね」と“実感”を口にすると「29歳です。アルバイトの延長で、そのまま正社員になりました」と教えてくれた。それから「これは妻です」と連れの女性を紹介した。ふくらみかけたお腹をかばうようにして席を立つと、にっこりと笑った。あどけなさの残る、しかし理知的な顔立ちの女性だった。15年はあっという間だったが、この新しい家族は新たな歴史をゆっくりと刻んでいくのだろう、と考えた。

 11月7日(木)

 今日は立冬だったという。暦に恥じぬ北風に、コート、マフラーが欲しいとはじめて思った。まわりを見渡せば多くの人が真冬のような出立ちである。いつもより早い寒さにもやがて順応するのだろうか。教材用に持っていた網野善彦『東と西の語る 日本の歴史』(講談社学術文庫)を女子大生から借り受けて半ばまで読んだ。20年ほど前の著作のようだが、それだけに「道々の輩(みちみちのともがら)」に視点を移したと言われる網野史学の真髄がよく現れているように思われた。ふと、これも7,8年前の当時話題になった本『全国アホ・バカ分布考』(松本修)を思い出した。東と西の言葉のちがいを綿密に辿った真面目な本であった。

  11月9日(土)

 朝煙草を買うために外に出ると、すさまじい風が吹いていた。散りはじめたケヤキの葉と土埃が目の前で乱舞している。なぜか虞れをなし、往復600メートルのお使いを車に切り替えた。この秩父おろし、救急車のサイレンをかき消すほどに、午前中いっぱい吹き荒れた。

 11月11日(月)

 昼間は小春日和を楽しめたが、日が落ちてからは、真冬のように冷えて、さすがに薄着が悔やまれた。庭の片隅の日もろくに当たらないところに今年は万両の青い実をみつけた。あと1ヵ月ほどかけて赤く色づいていくのかと思うとほほえましくなった。その万両と互いに寄り添うようにして去年みつけた白いツバキが蕾を揃えている。モミジの葉も日一日と真紅に近づき、ムラサキシキブの実はたわわである。なぜこんな研究(植物遺伝学)を、と不躾に訊くと「木や花は、裏切らないからな」ケレン味もなく答えたナベさんのことを思い出した。言外に、人間とはちがう、という意味が隠されていた。それぐらいは当時生意気盛りの高校生にも見当はついたが、実感できるまでにはあと何十年とかかるのだった。

 11月12日(火)

 季節はずれの黄砂、一足早い冬の落雷被害など、北日本の街々では異変が続いているらしい。といってもそれぞれに、それなりの理由があるという。たとえば黄砂は「発達した低気圧の影響で寒冷前線が通過し、大陸から飛来した」、落雷は「ことしは大陸からの寒気の流入が早かったうえに、次々と入り込んだ」と。西の大地から異変は運ばれてくる。翻ってこちらでは小さな異常をついつい見過ごして日々を送る。もとより理由のない世界である。

 11月16日(土)

 子供の成績をその母親は“モグラたたきみたいだ”と言った。ひとつが上がったと思えば他の教科が下がる。それの繰り返しでいっこうに安心できない、との意味だった。うまい形容だと感心した。たとえば、次々と押し寄せてくる難題だってそれらに向かっているかぎりはモグラたたきと言い得るだろう。このところ見かけなくなったが、あの遊具は「人生に打ち勝とう」という発想から生まれたものかも知れないなどと、ふと思った。
  近くのコンビニに煙草を買いに行くとレジの奥にもう半年以上も顔を見なかった人を見つけた。この人の前ではVサインよろしく指を2本立てるだけで用が足りたのである。「ハイライト2個」と言うのが決して面倒なのではないが、辞めてしまったか、病気でもしたか、と気に掛かっていた。向こうも同じように感じていたのにちがいない。「ああ、よかった。やはり2個ずつ買ってくれていたんですね」奥から出てきて言った。なつかしい人に再会したような気分で、少し気を張り直した。些細なことが、やはり大事だと思った。

 11月17日(日)

 YAHOO!BB(正確にはその代理店エムティーアイ)から「お試しセット」なるものが送られてきた。箱の表には「このたびはご承諾いただきありがとうございます」と張り紙に書いてあった。一週間ほど前の電話では、はっきりと断ったはずであった。なぜだろう。若い女性の声で、妙に無機的な口調が印象に残っている。マニュアルを棒読みするように抑揚がなかった。人として本来備わっているはずの感情がないように思えた。「いや、けっこう」と言って電話を切ろうとするとぶつぶつとまた何ごとかを話し続ける。切るきっかけがなかなかつかめないのだった。最後には「送らなくていいです」と確かに言ったがその女性はさかんに無料であることを強調して「電話番号を控えて置いてください。気が変わったら、電話下さい。いいですか」とメモを促した。こっちは、いい加減面倒になって「はいはいどうぞ」と鉛筆を動かす真似をした。そうしてやっと電話が切れた。そんな当方の欺瞞が勘違いの元だったのか。いやそんなはずはない。彼女には、こっちの言うことなど聞く耳持たぬといったような雰囲気があった。実害はないとはいえ、言葉の通じなかったことが、ただむなしいのである。

 11月19日(火)

 ついに無事故の記録が消えた。深夜近い時間に住宅街の交叉点で側面衝突をしてしまったのである。車は90度回転して右前部を住宅(本当はぶどう園だそうである)の鉄格子にぶつけて停まった。相手の車を見るとバンパー付近から白い煙がたちのぼっているようにみえた。これはまずいと、一瞬青ざめたが、運転手が悠然と降りてきたのでほっとした。メガネがふっ飛んだだけで、こちらも怪我はなかった。警察は「お互いに灯りが見えなかったんですかな」と呆れていた。すべてはあとの祭りである。なんせ一瞬のことだったのだ。まんが悪かったとしか言いようがない。改めて見ると、中央よりもやや後ろ側が大きくへこんでいた。コンマ何秒かの差で、助手席も運転席も救われたのだと思った。

 11月20日(水)

「事故」を公言していたらあちこちから無事で何よりと慰められた。みんな無傷でよかったと自分でも思うから素直にありがたいことだと頭を下げた。それとは別に対物賠償の問題は残っている。早速保険の代理店の人に来てもらい状況を説明して今後の作業の指南を受けた。全部お委せにするというのが基本線でも、何かとタッチせざるを得ない。6対4とか7対3とかが攻防ラインになると言う。これもいままで聞きかじっていたことだが今回詳しく説明を聞いて納得した。昨夜現場で「6対4ぐらいになるでしょうがお互い保険の人に任せましょう」と相手が切り出したから意味も分からずそんなものかと別れたのだった。「言質じゃないけど、その線でやってみましょうか」と保険の人は言った。早速攻防が始まったらしく、夕方には「相手はそんなことを言った覚えはないと言っているようです」とこれも相手の代理人を介した情報が配偶者にあった。「言った言わないでやり合うつもりはない。お互いの非は非としてちゃんと認めてくれれば、仮に7対3になってもいい、と答えたけどそれでいいでしょ」とこっちには電話で事後報告があった。もちろん異存なし、と答えて、あの一瞬の記憶は是非とも、すぐにでも忘れたいと思う自分に気付いた。

 11月22日(金)

 ここ3日間は電車で勤め先に通った。駅までの往復には自転車、バス、それに徒歩と形態を変えてみた。自転車を使ったときは、ゆるい坂道でさえ足の筋肉が喘ぎ声を出した。力を込めても思うようには動いてくれないのである。降りて、押しながら上ろうかと何度か弱気に襲われた。明らかに日頃の運動不足が祟っている。徒歩は、まだましだった。1ヵ月ほど前に10キロを歩いた経験が生きている。たった2キロか、とちょっと物足りないほどだった。決して負け惜しみで言うのではない。電車通勤はおおむね新鮮で愉しかったのである。
「大丈夫でしたか!」突然来訪した生徒の母親に気遣われて一瞬キョトンとしたが、そういえばこの人は現場近くで目撃した人と知り合い同士であった。こういう風にもニュースは走る。「次の日には、近所で大騒ぎだったようですよ」とも教えられて苦笑せざるを得なかった。まったく面目のないことであり、あの記憶はなかなか消えてくれないわけだ。

 11月23日(土)

 江川卓の〈謎ときシリーズ〉第1弾《謎とき『罪と罰』》(1986年刊行)を読んでいると無性に“原典”にあたりたくなった。そこで本棚を探したが、これだけがない。他の主な小説は文庫版で一応揃っている。これらは30歳前後に再読しているということである。とすると、『罪と罰』だけは何らかの理由で忌避したのかも知れない。調べると岩波文庫から数年前に他ならぬ江川卓の訳で新版が出ていることがわかったので、インターネットを通じて注文を出した。ほんとうは書店を歩き回って探せばいいのについ“ずぼら”をしてしまう。この『本屋さん』は月に一回程度「私の本棚、○○様への推薦商品」というメールを送ってくる。かつて買った本から推測して、○○様(この場合は小生)が好みそうな本をリストアップしている。これが当たった試しがないのである。今朝も届いたのだが、押しつけがましさにもなぜか腹が立って「配信停止」にした。修業時代にはドストエフスキーの小説を懸命に写し取ったとかつて話してくれた宮内勝典さんが『金色の虎』を上梓した。『罪と罰』同様に文明と生存に真っ向勝負を挑む小説とみた。これは街中の書店で心弾ませながら探そうと思った。

 11月25日(月)

 朝から久々に本格的な雨であった。時季はずれの台風25号の恵みなのか。未明、公園脇で配偶者を待ちながら約1時間熟睡した。いつもは仮に寝付いても10分ほどで起こされてしまうのだが、仕事が長引いた由にて、当方には長時間の“野宿もどき”となってしまった。車の窓をほぼ全開にしていたのである。それで寒いとは感じなかった。暖房が利いていたとはいえ、むしろ春風のような心地よい風が通り抜けていた。こんなこともその何時間かあとの雨の前兆だったのだろう。

 11月28日(木)

 さるところから菌の株分けを受けて「カスピ海ヨーグルト」というのを配偶者が作り始めた。出されるままに一日一回食べている。健康上の効能はまだ現れていないが、悪い味ではない。マスメディアでも取り上げられて、目下全国に広まっていることだろうと思っていたら、昨日の夕刊(朝日新聞)で三谷幸喜が「留守番の悩みはヨーグルト」のタイトルでこの菌の育て方に触れていた。「ネズミ講、ただし無償の」とは言い得て妙だと思った。それにしても、奥さんの留守中に菌をダメにしてしまった顛末は他人事ではない。近々帰省する配偶者に代わって誰が「育てる」のか。われは、できない。

 11月30日(土)

 広告ビラ作成のために出勤。その前に代車交換のために自動車ディーラーに立ち寄る。この代車が来る前のつなぎとしてセールスマンの自家用車を8日間にわたって借りていたのだった。車の中にちょこんと置かれた小さな靴を見つけて、ほっと心が和んだものだった。歩き始めたばかりか、と思いめぐらしながら見も知らぬその子の表情が彷彿とした。『罪と罰』岩波文庫版全3冊に挑みはじめた。表題だけからは、ついに事故を起こしてしまった無念さを想起する。つまり、存在や思念に対する、どこからかの罰かと思う。              


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