日  録 雪は残っているか  

 2002年12月1日(日)

 早朝、ぽつぽつと滴のような雨が降っていた。3週連続雨の日曜日だという。わくわくしないでもなかったが、当地では昼頃にはおおむね止んでいて、残念だった。勤め先では静かすぎる一日をずっとパソコンに向かって“文集づくり”にいそしんだ。年々へたくそになっていく今どきの中学生(と言って大過ないだろう)の作文を40数編読んだ。漢字が使えない、語彙が乏しいなどなどこちらの方は挙げていけば切りがないが、ありきたりの感受性が多く、つまり独創性に乏しい。あまつさえ「硫黄臭い温泉で一日の疲れをとった」というのがいくつも出てきて、これは何だ、と考えさせられた。今は昔の“綴り方教室”などを復活したい気持ちだ。

 12月3日(火)

 椅子の角に思いっ切り額をぶつけて目が覚めた。輾転反側としていたに違いない。眠りの中にいたから確証はない。ドメスチックな用件が次々と浮かんで、身の置き所がない、と覚めてから冷たい感慨に浸った。

 12月4日(水)

 あるところの景品で「ぶかぶかまんぼう」という名前のお風呂の温度計が届いた。早速使っているようだった。40度を境に1度上が「あつい」1度下が「ぬるい」と表示しているだけの簡単なものだが、まんぼうはさすが、である。湯船の中を所狭しとばかりに、対流にまかせて悠然と行ったり来たりしていた。子供が小さい頃だったか、あるいは自身が幼い頃だったか、いろんなものを浮かべて遊んでいた記憶が甦った。赤い金魚なんてものもあった。湯を押し分けて動く船もあった。あれは愉しかった。なぜなんだろう。『midnight press18号』が届いた。“円熟”の誌面は、精読を強いてくる。愉しみが、またひとつ。

 12月7日(土)

 2週間ぶりの休日となった。午後になって冷たい雨が降り始め、暗くなっても止まなかった。新しい車が届いた。あの独特の匂いが躯にしみこんだのか、いまも匂い立ってくる。昨日は職場の駐車場に車を入れるとビルの清掃を担当している初老の婦人が駆け寄ってきた。「ああ、あなたでしたか。てっきりよその車かと思って、注意するところでした」と言う。ちょっと照れくさそうにしていると、黄色いデミオをつくづくと眺めて「かわいくていいんじゃないですか」と慰めてくれる。黄色は注意信号の色である。11歳になったインコの色(名前はキイロ)でもあり、『幸福の黄色いハンカチ』という映画もあった。こちらにはなんの不満もない。ただ、昼日中に走っていると、恥ずかしい気もあるのだった。それしも、匂いと同じで、何日かすれば慣れるだろうと自分に言い聞かせているが、駐車している車を早速目撃した新人に「なんで黄色にしたんですか。あれは若者の車ですよぉ」とからかわれてしまった。今日は、雨が降り始めた頃、その車を駆って「BOOKS GORO」に行く。店内はすっかり模様替えされていた。文庫コーナーがぐっと前にせり出してきて、文芸書は品がうすくなっていた。奥に入り込んで、発売されたばかりの『新潮』を買った。島田雅彦「エトロフの恋」に惹きつけられたのである。

 12月8日(日)

 初雪の予報を聞いて、心躍らせながら出勤。来る人毎にその受け売りを吹聴するも、この日のうちにはついに降らず。夜半の帰り道では、みぞれ模様になっていた。明日こそは、と期待が持てそうである。たまっている仕事を片づける心積もりでいたところ、立て続けに来客があった。このところの、静かな日曜日は、外れてしまった。が、旧知の人と話していれば気は充実する。うれしい誤算だった。
 午前2時、窓の外を見ると、地面がうっすらと白におおわれていた。日付が代わった頃、雪に変わったか。1時間ほど前に帰った息子の友人は、バイクで走行中にこの初雪に遭遇したかも知れない。

 12月9日(月)

 路上に5,6センチは積もっていた。車で行くことをいったんは諦めたが「帰り、お願いします」という新人からのメールで、気が変わった。途轍もなく寒い一日だった。この夜もまた降るようなことを言っていたが、降らず、夜半路面の凍りつく前に無事帰宅する。

 12月11日(水)

 旭川から飛行機で帰ってきた配偶者が「1万円のタクシー券」を当てた。羽田から職場に「どうすればいい?」と電話してきた。一瞬困り果てた。自宅まではもっとかかるだろうし、かといってどの辺まで行けるものか見当もつかない。それに車となれば渋滞もあるだろうから時間がかかる。せっかくだけど、持ち帰るしかないと結論を出した。それが昨日のことで、件のタクシー券を仔細に見てみれば、羽田発着に限る、利用できるのは三社のみ、しかも14日以内、となっていた。まわりに近々羽田まで行く人がいれば進呈するが、でなければふたりで飛行機でも見に行くしかない。娘にそんな話をしたら「あんまり面白くないね」と言われてしまった。これはANAの企画らしいが、徹底さを欠いている分使えない代物だと思った。それでも、あたらないよりはよかったのだろうか。

 12月12日(木)

 田んぼの中の高校で所用を済ませて、一度も通ったことのない道を行くとすぐに荒川の土手に突き当たった。この川に沿って下っていけば次の目的地に着くはずだという“カン”が働いて地面よりも数メートル高い土手道に入った。ガードレールのない、車には危うい道で、堂々と走るのがためらわれた。踏み外せば斜面をコロコロ転げながら落ちていくだろうと想像した。それでも眺望は素晴らしく、河川敷にゴルフ場もあれば水面には遊覧船がゆるりと浮かんでもいた。ずっと河口に向かって、つまり左岸を走っているとばかり思っていた。間違いに気付いたのは国道16号にぶつかった時だった。実は右岸を10数分遡っていたのであった。1時間前に通った同じ道に出て、時間まで遡ったような不思議な気分に陥った。あとで地図に当たってみると土手に出るときに右折すべきところを左折して、結局、このあたりでは希少な田園地帯を楕円状にぐるりと一周したことになるのだった。この日のカンはたいしたことはなかった。自動車教習所で教官から右に曲がれと言われ左のウインカーを出したことが何度かあったのを思い出した。天の邪鬼だからではなかった。本質的に左右の観念に恵まれていないのだ。

 12月14日(土)

 保険の代理人委せにしていた示談が成立したようであとは印鑑を押して投函するだけとなった。補償割合9対1、ほとんど一方的な過失を“認められた”ということである。是非もなし。事故から一ヵ月近く経って“交差点恐怖症”がいよいよ亢進していく。車にかぎらず歩行者、自転車もいるわけだからその方がかえっていいのだろう。ディーラーに渡った昔の車が保管されている場所を知っている。通りかかると、ついフェンス越しに覗いてしまう。過去数回はなつかしいものに出逢うようなトキメキがあった。しかしこの夜、居場所が変わっていて、ついに見ることができなかった。車の列の一番奥に隠れてしまったのだろうか。ボンネットに雪は残っているか、それだけは知りたいと一瞬思う。

 12月16日(月)

  駅前を歩いているとまっ赤なジャンバーを着て手にビラを抱えた女性と目があった。いつもは宝くじ売り場に坐っている人であった。「ぐるっと宣伝して歩いているんですよ。もう、恥ずかしくて」と言う。いろんなことをするものだと感心した。売り場毎に競うような仕組みにでもなっているのだろうか。「最近どうですか」と訊かれたから「車が当たりました」と答えて「まぁ、それはすごい!」と眼を剥くほどに驚かせてしまった。詳しく説明する間もなくすれ違った。

 12月17日(火)

 いそがしい一日だった。教材その他使ったものを片づける気にもならず、散らかしたままにして帰ってきた。ふだんそんなことはしない性質(たち)だけに、そうすることで、多少気が散じた。留守中に、田舎の兄から、脇神主(一年神主を勤める前年をこう呼ぶならいとなっている)就任の儀式を1月3日に行うから帰ってこい、という電話が入っていた。

 12月21日(土)

 早朝、田舎の母から電話。正月の帰省のことであわただしい日程を憂慮していた。「4日夕方の“弓弾き”もみられないのか? 来年11月にも大きな行事があるから、そのときに帰ってくればいい。こんどは、御免してもらえ」と言う。弓弾きというのは、このたびのメイン行事で、実家の庭に弓場を作り、神主修行中の6人の人が筵に書いた的をねらって次々と矢を放っていく伝統行事である。何十年も前に見た記憶を呼び起こしながら、是非それを見たいものだと思い、こんなことでもないと帰れないから、と答えた。2年半ぶり、となる。母の声もほぼ1年くらい聞いていなかったのである。「雪が降ったら、かなんなぁ。また、(雪のことは)教えてやるから」とこんどは車には大敵の雪のことを心配して電話を切った。再び眠りについて昼過ぎに起きると、ことし二度目の雪が降っていた。牡丹雪で、夕方にはみぞれから雨に変わった。雨の中を、こちらは半年ぶりに床屋へ行った。「久しぶりですね。どうします?」「ばっさりとやってください」旧知の店長が直々に切ってくれた。首の回りがちと寒々しいが、気分は悪くない。

 12月22日(日)

 西に広がる秩父の山並み、その山頂が白く雪をいただいている。地上から仰ぎ見るなごり雪かと、しばしみとれていた。先日、高島平から成増まで人を送り届ける用向きがあって、20年前に住んでいた四葉あたりを走った。隣の建材店は同じ場所で営業していたが、道路が一変していて風景に昔の面影はなかった。6年間住んだ借家ももちろん取り壊されていた。それでも、昔の記憶を頼りに建材店の脇をすり抜けて坂を上っていった。記憶がちらっとでも甦るかと思ったが、さにあらず、防音壁を張り巡らせた高速なみの大きな道路にいつしか紛れ込み、立ち往生同然の身となった。標識を頼りに、いったん高島平に戻らざるを得なかった。ちがうルートで何とか成増駅前まで行って人を降ろした帰り道では、さすがに記憶も戻ってきた。その大きな道路こそ、立ち退きを拒んでいた一軒の家の前でぷつりと途絶えていたものである。すると、ついに明け渡したのか、と少々哀しい気分になった。当時は、その見識を大いに讃えたものだった。配偶者に報告すると、「実はここ数日来、あのお家どうなったのかと、気になっていた」と打ち明けた。奇しくも同じ“夢”を見たことになる。

 12月24日(火)

 街の中がきらびやかなイルミネーションで飾られていた。帰路、去年よりも一日早く立教大学(新座)正門前のツリーを仰ぎ見る。さらにいま流行だというふつうの民家のイルミネーションを目撃する。半端でなく、大がかりな飾り付けだった。玄関ではサンタさんが飛びはね、庭と壁一面に豪勢な光りの列。ともに一瞬の光景だったのが惜しまれる。ともあれ、これが今年のクリスマスイブだった。“一年一日”の如しかと自嘲も出た。

 12月25日(水)

 22日に義理の叔母が亡くなり今日通夜、明日葬儀のため配偶者は連日の田無通いとなる。1月に死んだ札幌の叔父の姉に当たる人で、この叔父ほどには親交はなかったが、2,3度は顔を合わせている。その子ども、つまり従兄弟が、新人の家の前に目下建設中の“湯の郷”の現場責任者という因縁もある。何回か顔を合わせる機会もあった。仕事のためにどちらにも参列できないが、年が明けたら現場に立ち寄ってお悔やみを言おうと思っている。母をなくすことは、きっと辛いことだろう。賀状の遣り取りだけになった何人かの友人から喪中葉書が届いている。父や母の喪に服しているのだ。当方も、腹違いの姉が死んだから、二年続きで賀状は遠慮することとなる。終日、久々に左肩が痛んだ。

 12月27日(金)

 午前2時頃、義妹の容態がよくないという報せを受けて急遽富良野に行くことになった配偶者を関越経由で都心に近い駅に送ろうと川越駅前から国道16号にはいると真っ白の富士が路面にどっかりと坐り込んでいた。この辺りに住んで20年近くになるがこんな圧倒的な富士ははじめてだった。だだっ広い関東平野と“地続き”だと改めて思った。同じような病気で死線を彷徨いながら見事生還した一哉さんのことを引き合いに出して、若いからきっとよくなると言うと、今月になって2度目の北海道行きとなる配偶者もそうだそうだというように頷いた。数分後「きっとよくなる、そのために行くのだ」と電話に向かって話しかけるのを聞きながら、こんどはこっちが頷く番となった。2年前に実弟が逝ってその妻までとなればあまりにも理不尽ではないか、と。

 12月29日(日)

 あの本多勝一が『一冊の本』で「中学生のための作文技術」という文章を書いていたので、なにごとならんと真っ先に読んでみた。「書くことによって意思の疎通をはかるためには、そのための技術を習得しなければならない」という発想から生まれた連載企画のようだが、例によってと言うべきか、「人類の使っているあらゆる言語は論理的であって、非論理的な言語などは世界にひとつもありません」などといささか大げさな出だしであった。ところで、携帯メールがいまや全盛だが、先日ある女子大生が話してくれたところによると、多くの友人は話しかけるように書いてくる、当然方言まじりである、という。改まって文章にするとよそよそしくなるからというのがその理由らしい。これは、メールと仮称されているだけであって実態は対話の場(手段ではなく)なのか、と感じ入ったものだった。旧世代にはメール=手紙となれば多少なりとも構えて、つまり目の前にいない人と“意思の疎通”をはかるために「文章」を作る性癖がある。話すように書く、見たまま、思ったままを書く、これはこれで羨ましい“技術”ではあるが。

 12月31日(火)

 机のまわりを片づけにかかるとこれが予想以上に手間がかかった。一年に数回使うだけとなった旧型のNECのパソコンを片隅に追いやり、DM、請求書の類を捨て、近辺の本・雑誌を整理し終えたのが5時間後の午後2時だった。途中でついに我慢できずマスクを掛けるほどに埃が舞い立った。まちがいなく何年か分のものだった。それから部屋から出たゴミをベランダにとりあえず保管して、仰せつかっていた庭の掃除に取りかかろうとした。ところが熊手が壊れていて用をなさない。車で買い物に出たついでに新しいものを買い求めたが、すでに真っ暗となっていた。万両の実をふた茎切り取っただけで、掃き掃除は断念した。疲れる大晦日となった。家庭向きのことにはやはり向いていないのだと思った。
  昨30日は、羽田まで配偶者とその妹を迎えに行った行き帰りに、図らずもレインボーブリッジを渡ることとなった。古い地図で“予習”した道は首都高速池袋線(5号線)経由羽田線(1号線)だったが、そこは迷路のような首都高である、あれよあれよという間に湾岸線に入っていたのだ。帰りもしかりだった。おかげで“虹”に喩えられたにちがいない東京の夜景をじっくりと堪能できた。今宵は、積雪の予報も出ている。楽しみなことである。明日からの新しい年が虹のごときかがやきを持てばいいのに!(読んでいただいたみなさん、よいお年をお迎え下さい。)              


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