日  録  『きれいなけむり』  

 2003年1月1日(水)

 深夜窓を開けると予報より一日遅れでみぞれに近い雪が降っている。こちらは一通も書かずに失礼した年賀状だったが、旧友からのものも含めて何通か届いていた。おいおい返事を書こうとは思っているものの、肉筆の短い通信を2度,3度と繰り返し読んでいると、今年こそあの人この人と逢っておきたいなどと、心躍る。向こう一年がどんな風に過ごせるのかはこっちの“動き”次第である。心地よい緊張がある。

 1月2日(木)

1日の続き)こちらは出さずにおいて賀状の効用などと言うのも烏滸がましいかぎりだが、文面に従ってインターネット上のデジタルギャラリーを開いてみると古くからの友人隈部滋子の作品が25点並んでいる。画像がややぼやけていて(作家保護のためにうすい線が入っているという)残念だが、3年前の“帰朝展”で公開されたものも多くあってなつかしかった。その中のひとつ『Blowing in the Stream-笛を吹く人』はわが家の玄関にその複製のまた複製が額に入れて飾ってある。横浜の本屋さんのカレンダーから切り取ったもので、両掌ぐらいの大きさである。80×60という実物からみれば、悲しいほど小さいが、躍動感・流露感がストレートに表現されていて大好きな作品である。(ここにも銅版画作品があった)
 宮崎の友人からのものには「インターネットをカットしました。「どうもヘンだ」と思ったでしょ?」などと茶目っ気たっぷりなメモが書き込まれていた。図星であった。メールの返事がずっとなかったからである。こんな時期にカットするなんて、天の邪鬼な奴だ、とつい苦笑が漏れる。
 広島の友人は「丸善」が“本通り”から撤退したことを教えてくれた。アルバイトの思い出だけでなく、その本屋にはいろんな記憶が詰まっている。その女性同様こちらも「ショック」を受ける。「東京支社に勤務しているので、都心に出たら立ち寄ってください」と書き添えていたのは中国新聞社に勤めている学生時代の友人だった。その他、あの人にもこの人にも、すぐにも逢いたいと思っている。明日、明後日は、帰郷して神前の行事“弓弾き”を手伝うことになっている。

 1月5日(日)

 大寒波が襲来しているという。団地内の道路は、日当たりが悪いわけではないのに、終日凍てついている。うっかりすると足元を掬われる。4日夜から5日未明にかけて高速道路上にいた。眠気を怺えきれずに1,2時間走っては仮眠を取るという長期戦だった。そうこうしているうちにUターンの大渋滞も解消したらしく、4時前には東京インターを出ることができた。実際に走っていた時間は、半分の6時間ぐらいだったと思われる。それにしても、夜間走行は味気ない。赤と白の人工の光がやたら目に眩しい。もう、(夜間走行は)懲り懲りだ。とはいえ、今回の目的だった弓弾きのビデオを再生しながら、価値ある帰省だったと感じ入る。

 1月7日(火)

 カルチャーショックはタイムショックであった。いや、その逆かも知れない。田舎の神前行事にわんさと集まった親戚筋の中で「とくちゃん」と呼ばれていた白髪の老婆の正体が今日になってやっと分かったのである。わかってみれば、40年近い前の顔だちも、皺の刻まれた現在の風貌のなかに見いだされる。従兄弟の嫁さんと紹介された人は「ふたつ下だった。小学生の時は可愛い顔してはったのに、歳を取るとこんなになるんだなぁ」と遠慮なく見つめてきた。悪い感じはしなかったが、こちらは記憶が結ばないので慌てた。これが、人間のたかだか3、40年の時の厚みなんだろうか。行事そのものは、100年、200年の単位で連綿と受け継がれてきたものである。矢が的に当たったのは24のうち4本だった。豊作と一年の幸福が当たり矢に込められている。一部始終を撮ったビデオを編集してVHSに転換することを息子に依頼する。

 1月10日(金)

 正月3日、しばらくの間、注連飾りを付けたまま東名を西に向かって車を走らせていた。箱根を過ぎたあたりで、付けている車が一台もないことに配偶者が気付いた。どのSAで探してもやはり、ない。つけているとよくないんじゃない? と配偶者が神かがりなことを言い出した。どの車も街中から高速に入ったはずだから一台ぐらい付けている(はずし忘れた?)車があってもおかしくはない。何か約束事でもあるのかと、推察せざるを得なかった。根拠があってもなくても、それに従うのが筋だと思えてきた。郷に入っては郷に従え、である。たしか、浜名湖あたりで、飾りをはずして荷台に隠した。不思議な経験をしたと、いまごろになって思い出した。あれよあれよという間に1月も10日が過ぎた。一年のうちでいちばん時の流れの遅い月だとずっと思ってきたが、今年はそうではないようだ。明日は、もう鏡開きである。

 1月11日(土)

 早朝、何人かに年賀状の返事を書いた。Eメールでは書けなかった10通を認めるのに1時間かかった。万年筆を取り出して、インクを付けて、葉書全面を埋めるのがこんなに厄介だとは! 退化したものである。漢字が出てこなくて難渋したのも特筆に値する。明らかにワープロ病である。今年はこまめに万年筆を使おう、そうすべきではないか、と思った。

 1月12日(日)

 5時頃まで、まったく静かな日曜日だった。急ぐ仕事もなく、読みさしの文庫本を取り出した。たまにはこうやって英気を養うのも、赦してもらえるだろう、などと弁解じみたことを呟きながら。合間に、教室を掃除して、満杯になったゴミ袋を片づけた。これしも弁解に似た行為であった。それほど読書に熱中した。『罪と罰』は凄い“エンターテインメント”だ。

 1月14日(火)

 教室に入るやいなや「あぁ、かわいくなっている」(発言のママ)と小学生のひとりに言われてしまった。髪の毛のことを言っているのである。長髪をもてあまし(たのしみ?)ながら、長い間彼らと接していた。それをばっさりと切り落として目の前に現れたから、彼もびっくりして、ことばに窮したと見える。まわりの大人から自分が言われるようなことばしか咄嗟には思いつかなかったのだろう。かわいい、とはまたなんと“かわいい”ことばだろう。それにしても、彼らとは一ヵ月近く顔を合わせていなかった。こっちにはその方が驚きであった。水ぬるむ日、躯もなんとはなし軽かった。

 1月15日(水)

 外気に触れた途端に大きなくしゃみが続けざまに数回出た。秋がなくていきなり冬がやって来たような去年の10月頃に引いたきり風邪とも縁がなかった。いよいよ来る頃か、と危ぶんだが、さにあらず、今冬一番の寒気に、躯の芯が居住まいを正したのであった。深夜には気温も、氷点下だったにちがいない。

 1月17日(金)

 文字のカタチがその人の“人となり(為人)”をあらわすのではないかという話になって、それは大いに頷けることであり、ことわざにもあると誰かが言った。
「『字は体を表す』じゃなかったですか?」
「うーん。それもいいけど、ちょっとちがう感じがするな。『文は人なり』とは、言ったはずだが」
 その場ではそこまでで、終わった。「〜は体を表す」ということわざの「〜」の部分が喉に引っかかった小骨のようになっていた。出発点からは逸れていたがそういうことが気になる習癖を持っている。夜遅くなって突然「名」であることを思い出した。広辞苑を引いてみると確かに出ている。ほっとすると同時に、文字のカタチにまつわることわざは? というはじめの地点に還っていった。丸い字、角張った字、右上がりの字、人それぞれにさまざまの字を書く。筆跡でその人を特定できるほど固有のものと考えられる。ならば、ことわざの一つや二つあってもいいのにと思ったが、ついに見つけられなかった。

 1月18日(土)

 予定していた板橋行を明日朝に繰り延べたおかげで、本来の休日となった。読書に切りをつけ、再放送分も含めてクイズ番組3つほどを見て過ごす。こたつからほとんど動かず、ゆるりとした時間の経過を愉しんだ。オヤジの休暇そのもので、いまになっていささか呵責の念あり。今夜はそろそろ満月か。

 1月20日(月)

 昨日は都営三田線に乗って高島平から新板橋まで行った。ホームの落下防止のための壁をはじめて見た。いやそんなことよりも、地下に潜る直前、志村三丁目あたりで2年前に死んだ義弟のことを思い出したのであった。義弟は電車からいまも見える美容室の二階に一時住んでいた。乳母車に冷蔵庫(洗濯機だったかも知れない)を乗せて幹線道路沿いをここまで歩いたことがあった。子供ふたりをひき連れていた。片道2時間以上の道のりも苦にならなかった。若かった。大学を出て専門学校を目指していた義弟はもっと若かった。ときおり遊びに来て甥や姪のためにいろんな独創を発揮した。今日未明、その妻が逝ったという報せを受けた。東京で知り合って、義弟は真っ先に報告に来た。「いい人に巡り会った」と満面の笑みを湛えていた。2年前義妹は、丘の上の火葬場で寒風に吹かれながらずっと煙突を見上げていた。中に入ったらと気遣われても、「見ててあげないと、寂しがるから。ああ、きれいなけむりで、よかった」と呟いていた。なんてことだ。これ以上、言葉は続かない。

 1月23日(木)

 月齢20.3,あと少しで半月となる、その月が暈をかぶっていた。大昔の人はこれであしたの天気を占った。こちらはテレビの天気予報で「明日、雨」を、あらかた知っていて、確認するが如く見上げるのだった。我と彼の差は何だろうか、と思った。それが昨日の深夜に近い時刻だった。朝起きてみれば、窓の外は一面真っ白。ぼたん雪がまっすぐ、間断なく落ちている。積雪5,6センチである。ここまでは予想できなかった。こんな日は降り積む雪を眺めながら家で寝そべっていたいものである。

 1月25日(土)

 昨夜12時を過ぎてから卒業生の同級会から発展した集まりに合流した。途中改札口の前で帰るメンバー数人とバッタリ出会うほどの遅い時刻だったが、座はまだまだこれからという趣にて、ほんの少しのつもりが3時近くまで同席することとなった。こういう場でもないと会えないようななつかしい者らに会えてよかった。運転を控えていたので、酒抜きというのが唯一の瑕疵か。やはり味気ないものであった。昼前に起きるとすぐにインターネットを開き高校の合格発表をのぞく。資料によれば1301名受験して合格者1256名とある。不合格者はたったの55名である。そのなかに、受験番号をあらかじめ聞いていた4人のうちの2人が入っている。倍率1.04倍の時に、こちらだけがなぜ2倍になるのか、釈然としなかった。公明正大であるべき入学試験まで「藪の中」に入っていく。午後いっとき、滑り防止のために路面の氷をスコップの先で割った。2,30分で、力尽きた。

 1月27日(月)

 深夜から夜明けにかけて雪が降っていた。朝方には雨に変わり今日一日降り続いた。「夕方は日中よりも気温が上がるでしょう」という昼の予報を奇異なものとして聞き流しながら仕事に出かけた。夕方になり、夜になる頃には、そんな予報などすっかり忘れ果てていた。薄着のせいや教室と廊下の温度差のせいで、ぶるぶると震えっぱなしの一日だった。そのことをいま思い出して昼の予報までがふと甦ってきたのであった。残念ながら、個人的には気温が上がったという気はしなかった。あと4日で1月が終わる。去年よりも、嬉しいことも悲しいことも、うんと多いのに、心はなぜか静謐である。どちらにも狎れてしまったのだろうか。怖ろしいことである。なんと総括しようか。

 1月28日(火)

 お昼頃に東京電力の営業所へ行くと奥の事務室の灯りがすべて消えていた。「真っ暗ですね」と応対する生真面目そうな若者に訊くと「省エネでして」と言う。もちろん予想できた答えだったが、遭遇するのははじめてだからしばし衝立の向こうに広がる事務室を眺め回していた。椅子に座ったままの職員が散見され、昼食後のひとときを静かに過ごしている風である。なかなかつつましい。感心半分に「率先してやっているわけですね」と言うと「ええ、畏まりました」という返答があった。意が通じなかったかと少し危ぶんだが、それ以上物言わず退散した。夜には、いつもの帰り道が工事のために通行止めになっていた。赤い誘導灯をぐるぐる振り回しながら迂回しろと合図する。脇道にはまったく不案内、困ったことになったと思った。案の定、ついさっき走ってきたバイパスに突き当たったり、住宅を縫って狭い道を当てずっぽに走り回ったり、川の土手に上ったりと、散々な目にあった。見慣れた景色に出合うまでに10数分を要した。こちらは省エネどころではなかった。こういうとき小さな車はいいよな、と呟くのがせいぜいのところであった。

 1月29日(水)

 寒い一日だった。連れ立って職場を出ても話す言葉は「寒い、寒い」と半ばは自分に言い聞かせるような呟きだけだった。夕刻、推薦入試で小論文を書かねばならないので見て欲しいと女子中学生がやって来た。その場でテーマが出されて、60分間で600字から800字、というからこれは本格的である。友情、社会的関心事、中学生活の思い出の3つのテーマについて、それぞれ一時間ほどかけて練習させた。はじめは構成が悪くていくつか注意したものの、あとの2本は、いい出来で、いまどきの中学生も捨てがたいと思わせられた。殊に2本目は、前半で自信過剰ともいえる言辞を畳みかけて辟易したが後半でひっくり返して見事に自省に入り、前半部分をかえって活かしている。巧まざる技術だろうが、ちょっと唸ってしまった。

 1月30日(木)

 このところ「天声人語」がつまらない。投書や本を引用してありきたりのことを書き連ねている。つまり凡庸すぎる。以前は、毎回ではないにしろ、新しい発見があり、筆者の感性にはっとさせられた。どんな経験をし、どんな考えを持っている人だろうという興味も湧いた。それが最近ないのである。どうしたんだろう。これでは新聞を開く愉しみが「本の広告」だけになってしまう。

                              


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