日  録  爆弾花と   


 2003年3月1日(土)

 未明から雨が降り続き、夜は大雨の様相を呈した。冷たい雨だった。遠くで雷の音が聞こえたと思ったが、どうやら幻聴だったらしい。この日録を始めた2年前の記述を数日分読み返してみた。雨、みぞれまじりの雨、翌日はからっと晴れ渡る、と書き連ねている。5月の陽気などというのもあった。古くからの友人が「あっちの天気はどんなだろうと確かめるためにHPを開く」と揶揄するのも頷けた。季節のめぐりは繰り返しに過ぎないが、3年目に入る日録は新機軸を打ち出すべきだと思った。
 故郷の神事『弓弾き』のビデオを今日やっとVHSに変換した。ADの仕事が舞い込んで忙しくなった息子に代わっていったんはパソコンでの編集に挑戦してみようとしたが、素人の身には無理と判明、教えられた通りに機械的な作業をやったまでである。ピンぼけも、カメラのぶれもそのままになったが、機械的とはいえこれはこれで“重労働”であった。

 3月3日(月)

  春一番が吹いたという。雛祭りの日に風速十数メートルを超える南風とは随分早い気がする。いまでは待ち遠しい春の第一歩みたいに使われるがもともとは漁師言葉で「春一が吹くときは漁に出るな」という戒めだったらしい。ニュースによれば昨日今日と台風なみの強風によって、木や家が倒れ人が怪我をするなどの被害が出た。春風恐るべし! 深夜を過ぎた今も、ときおりすさまじい唸り声が聞こえてくる。
 カストロ議長が広島の原爆資料館を訪れたという記事に“歴史”を感じた。他の例に漏れず当方も、権力の座を自ら下りて、志半ばで倒れたゲバラ贔屓には違いないが、こんな風に報道されるとつい手を合わせたくなる。以下引用。
『カストロ議長は平和記念公園の原爆慰霊碑に花を手向け、静かに目を閉じた。続いて資料館では畑口実館長の案内で被爆直後の写真やパノラマ模型を見学。「ここにいた人はみんな死んだのか」などと熱心に質問した。見学後、「このような野蛮な行為を決して犯すことがないように」と記帳した。(中略)「あの日の昼ごろ、ヒロシマに新型の爆弾が落ちたとラジオニュースで聴いた」「絶対にここに来たいと思っていた」。旧ソ連のミサイル配備に端を発したキューバ・ミサイル危機にも触れた。「人類はこの(ヒロシマの)苦しんだ経験を繰り返してはならない」』(中國新聞web版)

 3月4日(火)

「田舎から届きましたので」と屋久島産・タンカンが一箱職場に届いた。はじめての果物だったからその場で食べたうえにお裾分けとして家に2個持ち帰った。現地発信のHPによれば「スイートオレンジとポンカンの自然交雑で出来たといわれており、中国原産の果実です。屋久島では昭和29年頃から栽培が始まっており特徴としては風味が良く、皮のむきやすいオレンジとして東洋の名果といわれております。ビタミンCが温州みかんの2倍と豊富に含まれ果汁たっぷりのおいしい果実です」とあった。その通りだと思ったが、それにしてもいままで名前だけで、はるか遠くの見知らぬ島だった屋久島がグーンと近くなったのが嬉しい。そこで生まれ育った人の子供の中にも、血は流れ、明るい笑顔がそう言えば……などと勝手な想像もしてみたくなった。

 3月6日(木)

 昼頃から冷たい雨が降り続き、夜にはみぞれになり、深夜過ぎて家に着く頃はすごい吹雪だった。だんだん奥地に入っていくせいもあるのだろうが、長い一日を反芻しながら、この日の気持ちになんと似合っていることかと自嘲が洩れた。朝、受験番号の書かれた紙を手に近辺の高校を巡った。合格掲示板の前に立って合否を確かめるためである。昼前に戻ってメールを開くと、合否情報がいくつか入っていた。今年度最後の試験だけにひとつも落とせないという意気込みでいるが、毎年のことながら、何人かは不首尾におわる。当人以上に(たぶん)悔しさが募る。これは一種の“職業病”だろうか。そういえば夕刻、受験を終えた小学生がわざわざ教室にやって来て「これ、あげる。探したんですよ」と差し出したのが百円ライターであった。着火のために押す部分だけが鮮やかな黄色だった。車の色と全く同じであることに驚く。「よく探してくれたね」とお礼を言う。一日の終わりに思い起こせば、これぞ一条の光明、ヒットだった。

 3月9日(日)

 職場の3人が代わりばんこに「眠い、眠い」と声を発した。こちらもそのひとりで、仕事の合間を縫って十数分仮眠せざるを得なかった。前日が祝賀会で、いつもよりは早めに家を出たうえに、夜は様子がヘンになったパソコン相手に差し迫った仕事をして、午前2時頃3次会に駆けつけた。残っていた若者7,8名と2時間ほど話し込んで、帰宅したのは午前五時を過ぎていた。すぐに眠りに就いたが、この日また朝には出動となったわけである。他の二人も始発電車が動くまで飲み明かした者らであった。「長い一日」というのが実感であったが、2日に渡っているのだ。風呂に入りたいと思った。

 3月11日(火)

 何か物足りない一日だったなぁと漠然と考えた。仕事は順調だった。とりわけ職場のパソコンは、2日前に「不正な処理云々」の強制終了マークが頻繁に出て往生したソフトのアップデート版を再インストールしてからは、きわめて快適に動いてくれる。推理が的中し、対処法が適切だったにちがいないとひそかに自慢したい気持ちすらある。それなのにこの欠落感は何だろう、と思ったのだった。夜遅くになって、月曜朝の愉しみ、五木寛之の連載エッセイを読んでいないことに気付いた。昨日が新聞休刊日であることを忘れてしばらく新聞を探していた。これだけとは言えないが“原因”のひとつにはちがいない。

 3月12日(水)

 大きなマスクをした若者が訪ねてきた。マスクを取りながら名前を名乗った。二年間ほど在籍して何年か前に中学受験を終えると卒業していった生徒だった。背も高くなり、顔つきも精悍にはなっていたが面影は残っている。やんちゃ盛りでこの男をというのではなくクラス全員を何度か叱りつけた記憶も戻ってきた。「一浪して東大理Uに受かりましたので報告に来ました」と当時の様子からは思いもつかぬ神妙な物言いである。「将来はどうするの?」と訊くと「農学部に進んで、環境問題を研究します。会社に勤める気はないので、北欧に行って環境先進国の実状も調べたいです」なかなかしっかりしたビジョンを持っているのだった。小一時間ほどいろいろなことを話した。「もう何年になるのだろう」と自問めいて口に出すと、当方がカープファンであることも覚えていて「江藤がホームラン王になった年ですよ」などと嬉しいことを言ってくれた。ちょうど七年が経ったのである。帰りがけにもう一度「よく来てくれた」と握手を求めると「お元気そうで安心しました。また」と爽やかに帰っていった。こういう若者は、いい、と思った。
 また、こちらは女子だが、かねて要請していたアルバイトの件について格調高い断りのメールが届いていた。いわば白羽の矢を立てて、期待も強かったのだが、18歳で、こんな文章も書けるんだ、と感心したのだった。礼をわきまえた“手紙”に、もちろんこれ以上の説得は諦めることにした。若者、侮りがたし。

 3月15日(土)

 休みを返上して出勤。途中、白いYシャツを買うために「しまむら」に立ち寄った。首まわりと裄を測ってくれた店の人は「ワゴン台」をあさる姿を見かねたのか「今日はこっちがお買い得ですよ」と手を取らんばかりに奥へと誘ってくれる。「ああ、ちょうどのがあった」と自分のことのように喜んで差し出してくれた。なぜか素直になって、なんの迷いもなく買うことに決めていた。するとその人は「お父さんと一緒のサイズです。いや、あなたの方が、すこし痩せているかな」と言うではないか。お父さんというのはこの場合、ご主人のことである。こちらもはじめての人のような気がしなくなって「礼服用のネクタイはおいている?」と訊いて売り場への案内を乞うた。明日の結婚式のための買い物が一度に済んで気分がずいぶんと楽になった。早速報告をと思って電話すれど、配偶者は日比谷の反戦集会に出かけた後なのか、ついに出なかった。夜、話すと「よほど珍しがられたんでしょ、男のお客さんが」と評した。そうかも知れない。

 3月17日(月)

 昨日は早朝車を駆ってはじめて「さいたま新都心」へ行った。この先には何があるのだろうと思いつついつもは右折していた道をまっすぐに進んだ。ほどなく荒川に架かる治水橋にさしかかる。橋は新しく建て替えられているが、見覚えのある風景だった。15年前、まだここにあった運転免許試験場に来たことがある。偶然一緒になった若い知人と、合格発表を待つ間、橋詰めの食堂でお昼御飯を食べたことも思い出された。試験場が移転してお客も激減したにちがいないのにその食堂は健在だった。当時学生だった知人もいまや40を間近にした働き盛り、どんな男になっているだろうか。変わるものと、変わらぬもの。その対比に思いを馳せた。バイパスを横切ってしばらく走ると17号線に突き当たった。そこを右折、南下すること数分で左手に銀色に輝く中高層のビル群が現れ出た。ここはまちがいなく一気に変わった街である。以前は何だったのかがしきりに気にかかった。

 3月19日(水)

 桜が芽吹いてきた。あと一週間もすれば咲き始めるのだろうか。日中は暖かいが、夜はまだ冷える。朝、といっても昼近い時刻だったが、躯がヤケに火照るなぁと思って目覚めると電気毛布のスイッチが入っているのだった。はてな、と首を傾げた。つけた覚えはなかった。この記憶は信じられる。なぜならスイッチはベッドの足元にあり、点けるためにはいったん身を起こさなければならないからだ。不思議なこともある。早春の椿事とでも言うべきか。

 3月20日(木)

 学生時代の友人何人かと新宿を飲み歩いた顛末を「イラクの友人」と題して職場の機関紙に書いた覚えがある。そのうちのひとりがイラクに赴任する直前だった。遠いところへでも行かないといたたまれないよ、とそんな風にシニカルな口調で言ったので、半ば志願したのだなぁ、と直観して壮行の気持ちを込めて書いたと記憶している。あれから二十数年が経った。その男とは逢う機会が一度もないが、向こうで見初めた女性と結婚、自身もムスリムとなって五,六年前に帰国、いまは日本に住んでいる。イラクと聞けば古都バクダッドと、なつかしい友人のことが思い浮かぶ。そのイラクへ爆弾がいくつも落とされていく。愚かで、悲しいことである。

 3月22日(土)

 左腕の付け根が久々に疼いている。これは宿痾となった痛みで、
数日すると消えていくのである。それよりも、肉がそげ落ちて躯が縮んでいくという妄想に駆られて閉口した。いったんきつくなったものが着られるようになったのはいいがいま穿いているズボンが尻のあたりでスカスカとなるのは心身ともに貧相に思える。腰に力を入れて、せめて背筋だけはシャキっとすべきだ。

 3月24日(月)

 去年のちょうどいまごろ「あいつはこんなところに住んでいたんだと、確かめておいてください」という“名文句”を吐いて引き払う直前のアパートに招待してくれた学生が、横浜の実家からわざわざ来てくれた。明日卒業はするが、フリーの仕事を続けながらもう一度就職試験に挑戦するつもりだと言った。ほぼ一年ぶりに逢ったが、なかなか精悍な顔つきになっていてこちらまで誇らかな気持ちになった。今年の正月に最東端・根室のノシャップ岬で撮った日の出の写真を2枚見せてくれた。よく撮れていてこちらにも感心していると「どうぞ」と置いていった。裏にサインをしてもらい、一枚を職員室の壁に飾ってもう一枚を私用にするために鞄に入れた。帰りがけには、
崎陽軒の月餅を取り出して「みんなでどうぞ」
 深夜近く、外に出るとこまかい雨が降っていた。春雨か、と気がざわめいたが、十数分後には大粒に変わっていた。

 3月26日(水)

 今月に入ってから2回目の休日らしきものとなった。慌ただしく日々が過ぎて、もう月末に近づいている。
私的な用事もあったが、2日以降ずっと“働いてきた”という感じがする。それでも午後、武蔵浦和に用事を思い出して、3時間かけて往復した。今回は、行きも帰りも羽根倉橋を渡った。家に戻って夕刊を開くと『ブリキの太鼓』のギュンター・グラスのエッセーが載っていた。「強者の不正」と題されたそれは共鳴するところが多かった。翻ってわが日本(小泉首相の政府)は「主権国家」ではないんだなぁと改めて思った。イラク大使館閉鎖要請を拒否するのがやっとである。

 3月 28日(金)

 夕刻、高島平のスーパーの一階、というよりも、
建物の壁に張り付いて(つまり庇を借りて)営業している“鍵屋さん”に出向いた。鍵の複製だけでなく傘や靴の修理も請け負っているらしい。近辺に住んでいた二十数年前からあったような気がするが、一度も利用したことはなかった。男の職人がいるに違いないという先入観でいたから婦人が振り向いたときにはちょっとびっくりした。1分ほどあとに、出来上がった鍵を渡しながら「不具合があったら直しますから、持ってきて下さい。元が複製ですから、これは、孫か曾孫かになりますよ」と同年代と思しきその婦人は言った。はっとした。男ならこんな言い方はしないだろうし、また、無骨な職人には似合わないセリフだろう。合うかどうか明日にならないと確かめられないのが残念だった。

 3月30日(日)

“日本一の売り場面積”を喧伝しているホームセンターに行くと開店してまだ20分も経っていないのに広い駐車場はすでに満杯状態だった。店の中にも大勢の人がひしめいている。みんな開店時間を待ち兼ねるようにしてやって来たのだろう。
これが日曜日の光景かと感嘆する。駅まで息子を送り届ける用があったからついでに立ち寄ったのだと弁解してみても、われもまたそのひとりであるにちがいない。かねてしまりの悪かった風呂場の給水栓がいよいよ“バカ”になって常時出っぱなしの水量が我慢の限界を超えてしまった。昨夜は元栓を閉めて対処していたが、ついに取り替えねばならないと決断したのだった。1時間かけて“工事”を完了。直ってみれば、しまりのない状態を何年間も続けてきたことに、いささかの自己嫌悪を催す。いびつな生活感覚の現れかと思えたのである。
 伊勢原の桜並木は蕾が出揃っている。中には7,8分咲きの木もあった。池の畔では、気の早い花見客も散見された。ここもまた、日曜日の光景であったが、イラクの人たちは爆弾の下で暮らしているのか、と何ともやりきれない気持ちになった。

 3月31日(月)

 庭の“大木”夾竹桃に椋鳥らしきものがやってきた。下の方の枝に止まってか細い声で鳴く。誰かを探しているように聞こえるのが、可笑しかった。そんな日が何日も続いた。雛
の時に親に見守られながら網戸まですり寄ってきた鳥かも知れない。すると、親にはぐれた子の悲鳴か、と思い遣る。巣立ちの季節であった。   
             


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