日  録 みずぬるむとき 

 2003年4月1日(火)

 一昨日見た蕾の桜が今日は早、満開に近かった。午後、水上公園まで足を伸ばして陶器市に行った。全国各地から直送された陶器がコの字型に設営されたテントの下に数知れず並べられていた。有田、美濃、常滑、それに信楽と続きどれも目を愉しませてくれた。ぐるぐると4,5回まわるうちに、まったく同じ(と、素人には見えた)コーヒーカップが約千円の差で売られているのに気付いた。産地も違えば売り主も異なる店で、しかも山のような商品の中から、同じモノを見つけるなどは稀有のことだと思った。これも、公園内で豪勢に咲き揃った桜花の縁かと思い、買うのをいったん諦めた元の売り場に戻って安い方を買った。早速使ってみると、なかなかいい感じであった。陶器は“使ってなんぼ”ということだと改めて感じ入った。

 4月3日(木)

 夕方の休み時間に職場を抜け出して駅前の立ち食いそば屋へ走ったところ、更地に茶色い鉄の骨組みが突っ立っていて、跡形もない。オヤジとその息子はどうしただろう、と少し不安になった。近くに場所を移して営業していないものかと未練たらしくキョロキョロとしながら100メートルほど離れたところにあるもう一軒のそば屋に入った。あちらには椅子があったが、こちらは文字通り立ったまま食べるのである。店のおばさんに訊いてみるか、と思ったちょうどそのとき、となりの客が先に口を開いた。答えて曰く、「建て替えで、目下休業中ですよ」「お客さん増えたでしょ?」「いや、そうでもないわよ」 まさに流れてきた客のひとりである当方は、他人の会話に聞き耳を立てながら、新しいビルが出来たら再開するらしいという“消息”にほっと胸をなで下ろした。

 4月4日(金)

 ローマの「共和国家」でもこんな理不尽で残酷なことはやらなかったはずだ。まったくアメリカはどうかしている。国民の心を離れた国家の意志とはなんと無謀なものか。日本も、もちろん例外でないと思う。冷たい雨が、降り続いた。

 4月5日(土)

 システムの不備とやらで半年近くも作動しなかったブラウザ上での作業が一転首尾よく捗って、ここはさわやかな気分となった。システムエンジニアとして働いている卒業生のNが立ち寄った際に“修理”してくれたのが効いたのにちがいない。彼はマニュアルをさっと一読、ものの数分で解決した。聞けば、レジストリーから不必要なファイルを削除したのだという。往生した記憶は鮮やかなれど、当方には何のことかさっぱりわからなかった。あれからほぼ2ヵ月が経ってやっと試す機会が訪れたわけであった。改めてNに感謝する。プロはあらまほしきものなり、である。

 4月6日(日)

 午後、桜並木の伊勢原道は長い渋滞を来していた。ここ何日か寒い日が続いたせいで花が保ったのである。満開の桜の下では空気の色までピンク色に染まっていた。ほのかに匂いも感じられて、一瞬気が晴れた。近所の道路は両側にびっしりと車が停められていた。通りかかったのはちょうど入園式が終わった頃合いで両親に手を引かれた新入園生が桜の木の下からぞろぞろと出てきた。みんな一様に制服がぶかぶかであったのについ笑ってしまった。すぐに大きくなるので大きめを、と勧められたに違いない。文句も言わず、無邪気なものである。

 4月8日(火)

 学生時代の友人から転勤の挨拶状が届いた。年賀状により中國新聞東京支社にいることを知り、逢いに出かけなくてはとかねて気にかかっていたのだが、ついに機を逸してしまった。つい10日ほど前にも、2度3度と支社のある銀座へ行こうと思いはしたのである。広島の匂いを嗅ぐ絶好の機会だっただけに残念である。夜、当人に向けて、あれが虫の知らせだったかと“恋人”に対するかのようなメールを書いた。もちろん栄転を祝うことも忘れなかったが。

 4月9日(水)

 バグダッド陥落で戦争は終わるだろうけれどアメリカの帝国主義と日本の主権なき追随はより加速されるとなれば、安寧感などはひとつもない。こんな時に何とも意気の上がらない話題を書かねばならない。
  朝から“愛用の”コアレス・トイレットペーパーなるものを求めて電話を何件も掛けていた。近所のマツモトキヨシが「取り扱いを止めた」というので、製造元の信栄製紙(富士宮市)のHPに問い合わせのメールを出したが何日経っても返事が来ない。そこで工場から直接送ってもらおうと思ったのであった。
「送ることも出来ますが、営業は東京でやっておりますのでまずそちらに電話下さい」とつれない返事。ひとつの数字を聞き間違えたために違うところにかかりもう一度問い合わせたのは愛嬌だったが、「東京営業」はこんどは「ヤマトのなんとか」を紹介してくれる。配送サービスがあるというのである。教えられた番号に掛けるとまた別の番号をいう。一昔前のお役所じゃないかとこの頃からいい加減嫌気が差していた。が、これは「生活」に関わることと思い直して、辿り着いたところが、何回か利用したこともある4キロほど先の「ヤマト運輸」だった。ここでも数回のやりとりはあったが、やっと目当ての商品を探し当てることができた。「今日配達します」という返事にほっとしたものだった。
  これが朝方のことで、バクダッド陥落のニュースをラジオで知って帰宅すると、「やはり、なかった」という連絡があったという。一瞬、狐につままれたような気分になった。30分にも及んだ電話の作業は何だったのか。これをしも、オチというのであろうか。

 4月12日(土)

  4時に授業が終わったあとは、なんとも静かな土曜日となった。ひとりでいるところに時を同じくして二人の来客があったが、それぞれ用を済ませると帰ってしまい、またひとりぽっち。外は、時には煙のような雨が降っていた。パソコンでの作業も根が続かず、一階のパリーミキがシャッターを下ろす音を聞いてこちらも早々と退散することにした。家に帰り着くとティッシュペーバー50箱が届いていた。伝票は2日前に直接電話注文をしたコアレス・トイレットペーパーになっているから工場の出荷ミスにちがいないが、憂鬱の種が増えた。うまくいかないときは、すべからくこんなものなのだろうか。「ティッシュペーバー、いるか」と訊けば配偶者は「ちょうど切れたからあってもいいけど」という。しかし、50箱は多すぎる! ほんとうの探し物にはつくづく“縁”がないということか。

 4月14日(月)

 ある日女子学生が、池袋のお店で買ったたこ焼きを差し入れてくれた。一辺が6,7センチの立方体の箱におにぎりと見紛う、まん丸のたこ焼きが入っている。行列ができるというだけあって、味はなかなかのものだった。大きいだけに具が豊富、たこ焼きというよりもお好み焼きに近かった。専用の鉄板で焼くのだそうだが、ちょっとしたアイデア商品なのである。
「爆弾という名前なんです」と聞かされて、味に比べて何とも物騒な! と思っていると、「かやく(火薬)に引っかけているんですよ。ほら、加薬御飯のかやく」。すると、ものものしさが消えて、妙に安穏な気分に浸っていった。大好物の「田舎のかやく御飯」が思い出されたからである。こちらは何年かおきにきまって「もう一度食べたい」と郷愁のように思い続けるのみである。ただ、見事に願いが叶ったことが一度あった。七年前甥の結婚式で金沢に親族が寄ったとき、嫂が夜食用にと重箱に詰めて持ってきてくれたのだった。こっちの思いを知っていたかのようなタイミングのよさだった。おにぎりになっていて、あのときも、絶妙の味を堪能した。

 4月16日(水)

 数日前から庭の十数本のチューリップが満開になっている。一本の茎にピンクや橙色の大ぶりの花をつけて屹っと立っている。なかなかに逞しく、目を愉しませてくれる。ほったらかしにしていた地下の球根が芽吹いたのかとずっと思っていたが、さにあらず、「新しく植えました」とたしなめられた。卒業旅行にハワイに行った女性がお土産を携えて訪ねてくれた。夜、彼女を囲んだ飲み会に同席。久々に若者らの英気に触れて、よかった。  

 4月18日(金)

 水道の水を庭に撒き散らしていて“みずぬるむ”という言葉を思い出した。土の上の水溜まりも強い陽射しを浴びて、輝きが冬のそれとはちがっていた。水を取り替えようとするとキイロは待ちかねるというように入り口までやって来て容器に首を突っ込んでくる。やがて、へたくそな水浴びを始めた。川遊びがしたくなった、とこちらまでそんな子供じみたことを考えたあと、車を走らせていると、レンゲ草の咲き誇る水田にさしかかった。これもなつかしい風景である。“うまごやし”というのはまた別の草だったか、などと思いはあちこちに飛んでいく。春雷を聞くとあなたのことを思い出す、と旧友からの最新のメールに書いてあった。真意はともあれ、郷愁に浸っている“いま”は幻かうつつか、と考えさせられた。

 4月20日(日)

 朝9時頃車を走らせているとあちこちで選挙用掲示板にポスターを貼り付ける運動員の姿をみかけた。統一地方選後半戦がはじまる、とついため息が出る。以降一週間にわたって“名前の連呼”を聞かねばならない。たまに“演説”を聞かされるが耳を澄ませてもよくは聞き取れない。敵もそれを承知していて、ひたすら名前、となるのであろう。飛行機の爆音と重なった日には……ああ、憂鬱だ。

 4月21日(月)

 寒暖の定まらない日が続く。喉をやられ鼻水をすすり上げている人がまわりに何人かいる。痛々しい様に同情を禁じ得ないでいたら、こちらもそんな風になってきた。もっとも、頑健な我には春の“はしか”みたいなものである。ほんものの麻疹に苦しめられた人たちには申し訳ない言い草だが。

 4月22日(火)

 一哉さんが取材で日本一人口の多い村に出かけたらしい。その村の名前は「岩手県滝沢村」で、5万2000人の人口を擁するという。早速インターネットで検索してみると、たくさんの関連記事が引っかかった。中のひとつには、岩手山をバックにした村の全景写真があった。メールには「村に近づくに連れて岩手山がどんどん大きくなってびっくりした」とあったが、写真を見て納得した。ここはずっと村のままでいるにちがいない。そして“都会”に出たわれらは、見渡せば四囲すべてが大きな山、つまり山懐に抱かれて暮らすならばいかばかり心が休まるだろうか、と思うのである。日帰りの、しかも仕事であったとしても、北国の春に相見えた一哉さんが羨ましい。写真だけではつまらない、ということだ。

 4月24日(木)

 となりに坐っていた男の頭を灰皿でカウンター越しに叩いたのが新宿ゴールデン街「ナベさん」の店主だった。8年ほど前のことである。近くに宿舎をとっていたひとりと別れてから、始発電車が動くまでの3時間あまりをその店で過ごした。店主はかなり酔っていたが、我ら二人の前ではきわめてまともだった。東南アジア産の劇辛の唐芥子やカウンターの向こうに並んで立つ奥さん特製の料理をつぎつぎと振る舞ってくれた。共通の知人の名前なども出て、上機嫌でもあった。
  そこに男が入ってきて、一杯の水割りを飲むか飲まないかのうちになにやらぶつぶつと呟きはじめたのである。こちらは旧友との話に再び興が乗った頃で、はじめは気にも掛けずにいたが、そのうち男が何を言っているのかがいやでもわかるようになった。女性の容貌を忖度しているのだった。こっちまで気分が悪くなっていった。なんて場違いな奴だ、と鼻白んだ。そのとき、灰皿、であった。
  叩かれて男は「損害賠償を要求する」といった意味のことを言い出した。いよいよ興醒めだった。「出ていってください、お代は要りませんから」と奥さんに2回ほど促されて男は帰っていった。片や店主は無言で男を見つめるだけだった。言葉がないというのか、相手にするのも剣呑だとでもいうのか、いま思い出すとなかなかいい態度だった。たんに酔いが極まっていただけかも知れない。その渡邊英綱さんが亡くなった、という。その後2,3回行ったが、いわば一期一会みたいなものである。ご冥福を祈りたい。

 4月26日(土)

 赤いのや白いのが、緑の葉の間から顔を覗かせている。道ばたのツツジの植え込みのことである。桜、チューリップのあとを次いで、しばらくすると、白一色、赤一色に変わっていくのであろう。愉しみなことである。7日以降一日も休まずにきたが、今日は寝不足が祟ったのか、躯の芯に力が入らなくてさすがにまいった。ゆるやかな頭痛にも苦しめられた。職場で十数分仮眠しても治らなかった。こんな時は、皿洗いでもして気分を変えるといいのかも知れない。単純労働によって末梢から中枢へエネルギーを送り込む、という意味のことを島田雅彦氏が新聞のコラム(25日付『朝日Be』)に書いていた。その通りだと、共感できた。

 4月27日(日)

 出勤前に市議選の投票に行った。先回落選した知人の女性(正確には配偶者のPTA仲間)に投じてきた。有権者が5万人いて、投票率が50パーセントとして2万5千票、定数プラス1の25で割ると1000票である。最低1001票取れば当選か、などと“算数”の知識を頭の中で反芻していた。たくさん票を取る人気者が一人、二人いればもっと少なくても当選となる。深夜インターネットでわが市議選の確定得票数をみると、彼女は847票を得ていた。少ない方から数えて10番目くらいだった。選管発表はまだなされていなかったが、5人が落選となる選挙だから、ゆうゆう当選となる。よかった。

 4月29日(火)

 このところ誰も書いてくれない掲示板に自分で書き込みをした直後からアクセスが不能になった。無料レンタルだから、突然サービスを切られても文句は言えない、ならば別のを探すか、と今日一日は新しい掲示板づくりに費やした。なかなか思い通りのデザイン(カスタマイズ)はできないがなんとか稼働するところまでいった。そのあとに、いままで書き込んでくれた少数の奇特な人に申し訳ないと思いながら“旧掲示板”を運営している会社のHPを覗くと「サーバがハードウェアトラブルのため停止」との障害情報が出ていた。ちと早まったか、と反省。復旧すればいままでの文章が戻ってくる、と思えば、これはうれしいことに違いない。(その後の情報で、復旧不可とわかったので、旧掲示板を復元しておきました。)
 善光寺のご開帳を見てきた義妹一家が高速を途中で下りて横川の釜飯を届けてくれた。鶏と山菜と果物(杏、栗)が炊き込まれていておいしかった。      


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