日 録
2025年10月24日(金)
旧友・Tさんが、リンゴ三つと玉ねぎ三個とともにことしもお米を送ってくれた。猛暑で野菜がいたむ一方、水に恵まれた安曇野のお米は豊作、去年よりも4俵(一俵は60キロ)多く収穫できたという。肉筆の手紙には「売ってくれという声が多いのですが先が見えず、主だった知人にだけ配ることにしました。先日息子一家が来て4俵車に積み込んで帰りました」と書かれていた。
ほぼ同年齢のTさんは「新しくできた周囲の友人たちとの付き合いに喜びを感じています」とも。さらに「心と身体に力があるうちに松本に」と誘ってくれる。行っておきたいところがまた一つ増えた。わが家にははじめての新米、とともに元気を届けてくれた。ありがとう。
2025年10月21日(火)
朝から嫌な一日となった。
先月末に軽乗用車と側面衝突した件で保険会社から電話があった。むこうの保険会社は「左方優先」だから「6対4」だと言ってますというのだった。いろいろ話していくうちにそれは道路幅が同じで優先道路表示がないときの「査定」だということが分かった。ここでぼくもちょっと向きになった。
相手が出てきた道路はふたつの道路をつなぐ10メートルほどの脇道である。道路幅は約半分の2メートル弱である。ぼくの走っていた道路は約4メートルである。ドライブレコーダーの映像だけで判断している。ぼくは言った。「現場を見てくださいよ」「そうですね、行って検証します。道路幅での勝負になりますね」「がんばって闘ってくださいよ。頼みます」。
さらに自民と維新の野合(?)により高市早苗が総理大臣になるという。安部政治の再来、極右の政策とくればこれ以上嫌なことはない。もしかして仏滅か。
2025年10月17日(金)
早朝鈴なりの柿の木を見上げていた。庭の道路に面して立っているので柿の実が突然落下して歩行者や車に当たらないともかぎらない。その危険性をはらむ何個かだけは採っておこうと思い立って納戸から高切りばさみを取り出した。
何個か採るうちに散歩中の近所の老婦人が通りかかった。渋いのですよ、と言うと干し柿というのもいいんじゃないの。名も知らないその人は教えてくれる。続いて登校する小学生と親たちが通りかかる。行ってらっしゃいと大声で言うと行ってきますと返事が返ってくる。どこの家の子かは知らないが声の大きな子も小さい子もいる。朝の光景はいいものだ。
見た目は立派な柿を何個も採るうちにこれは干し柿にするべきだと思うようになった。合わせて15個、皮をむいて熱湯消毒を施していざ吊るすとなったとき「駒糸」がない。百円ショップ大創でこまいとこまいとと呟きながら探していると「タコ糸」の表示で売っていた。駒ではなく凧であった。ともに正月の風物詩とはいえ駒を回して遊ぶ子供はもういないのかも知れない。凧だって同じだろうが、残した枝にタコ糸をかけて物干しざおにつるし終えた。夜もそのままでいいのかという疑問は残るが、はじめての干し柿作りの第一歩は完了した。
2025年10月10日(金)
何か月かぶりに『新潮』を買った。お目当ては新人賞を受賞した内田ミチルの「赤いベスト」である。編集長のメッセージ「広島が舞台の内田作品は(中略)豊かな方言と共に地方都市の現実を活写した」に瞠目し「書く自分のいま」とシンクロしたからだった。著者は受賞者インタビューの中で「自分がこの年齢(主人公のような高齢)になったときどういうことを考えているだろうと考えたとき、やっぱりべたべたの広島弁が私のなかで一番自然だったんです。」と語っている。広島出身ではないけれどこれにもぼくは共振した。
このところ深作欣二の『仁義なき戦い』や『県警対組織暴力』などをネトフリで観て「べたべたの広島弁」に触れ、暴力のリアリズムに「えっと、おっとろしいもんよのう」と夢にまで見る始末であった。
「赤いベスト」はまだ一行も読んでいないが楽しみにとってある。余談ながら真っ先に読んだのは角田光代と小川洋子の対談「小説の神様に会いにいく」である。寺田博さんや大槻慎二さんのエピソードがいきなり飛び出して引き込まれた。この人たちこそが神様の使いではないかと思われてならないからだ。「今は昔」の話になってしまったようだ。
2025年10月3日(金)
先月30日(仏滅の日)にわき道から飛び出してきた車と「衝突」してから一寸先に何が待ち構えているかわからない、不可抗力な偶然の前には予測などは役に立たない、したがっていつでも停止できるほどのスピードで走ることが肝要だ、とより慎重になりながらハンドルを握っている。
今回は「ぶつけられた方」だが、23年前の11月には一時停止を見落として新車同然のワンボックスカーに側面から「ぶつかった」経験がある。攻守ところを変えたわけである。あのときは、はじめての住宅街、深夜に近い時刻であった。優先道路を走ってくるヘッドライトを点けた車がわからないなんてどうかしている、と駆け付けた警官に呆れられたものだった。当時53歳だった。慎重さには欠けていたが生きることへの勢いはあったとでもいうべきか。
日録によれば、1か月ほど後に保険会社から「9対1」になったという連絡があり、書類にハンコを押して返送している。