日  録 雷鳴が聞こえた日々   


 2003年5月1日(木)

 5月1日のメーデーが戻ってきた。3年ぶりのことだという。組合運動などとは30年来“無縁”できたが、歴史あるお祭りがふたたび、と思えば多少なりとも気がはしゃぐ。右へ倣え、の世の中に楔を打つところまで行くかどうかわからないが、いまこそこんな風なまつりが必要なのだろう。日中は陽射しが強く汗が出たが、夜は肌寒かった。10度以上の差があったのではないか。

 5月4日(日)

  昼前、2日ぶりに水を取り替えてやるとキイロは早速水浴びを始めた。首を突っ込み、胸毛を濡らす程度だが、いつもよりも長い時間を掛けて水とたわむれる。暑い日になりそうだった。3連休の初日の昨日は、一歩も動けずにいた。カープは逆転負けを喫し、ネットには繋がらなくなるわで、いいところなし。娘の本棚から東野圭吾の“ミステリー”を取り出してぱらぱらと読み始めるとすぐに眠くなった。起きてみれば、少し頭痛がする。やはり、動かないからか。

 5月6日(火)

 日付が変わる直前に茨城南部で地震が発生したというラジオのニュースを聞きながら車を走らせていた。地震は、マグニチュード4.2程度で、津波もなし、幸い大きな被害はないと予報されていた。昨日の子供の日には、茨城産の菖蒲と蓬のセットをスーパーで買って風呂に入れた。男の子が元気にたくましく育ってくれるようにという“おまじない”だが、我はもとより、息子もはたちをとうに超えている。それでも、菖蒲湯に浸ってみたいと思ったのであった。こんな心理は退行現象だろうか。この日同時に、まっ赤な色艶のトマトを箱入りで買い求めている。見かけはよくなかったが昔ながらの酸っぱさと甘さをミックスしたような味がした。買って正解の部類にはいる。このハウス栽培のトマト、実は茨城産であった。もし三連休の間に笠間市の陶器芸術祭に行っておれば、縁はぐっと近くなるのだった。無念。

 5月7日(水)

 3月に結婚した甥の写真入り葉書と一緒に『宮内喜美子展〈怪獣ルネサンス〉』の案内状が届いた。作品のひとつ(写真)を見ると、ユーモラスでいて、どこか希望を秘めた顔つきの怪獣である。これぞ“未来からの記憶”かと感心、是非にも行かなくちゃ、と思った。最近請求書の類しか来ないだけに、嬉しい郵便だった。

 5月8日(木)

 雨もよいの一日、多少時間が余ったので、かねて見てみたいと思っていた“鷺の宿”に立ち寄った。田んぼの中にその一角だけ場違いな鬱蒼とした竹藪があり、中で数十羽の白鷺、黒鷺がうごめいていた。空に向けて飛び立つ優雅な動きと蛙のような声高な鳴き声のミスマッチをしばし愉しんだ。竹藪は古い農家の傍にあって、持ち主は鷺のために切らずに残しているのでは、と思われた。奇特で、有り難いことである。

 5月11日(日)

 今日が何曜日で、いまがどんな季節で、どこへ向かっているのかがふっと頭の先から遠のいて行った。例年は連休期間中に満開になるつるバラがこの2,3日でやっと咲き揃ったのを見て、ああ新緑の季節かと合点するような始末である。つるバラと言えば、20年間何度試みても根付かなかったさし木が10センチほどに育ち、親木に劣らずまっ赤な花を一個だけ咲かせている。ミニチュアなりに堂々とした風情を醸している。庭の片隅ではひともとのイチゴが数個の実を付けている。まだ青いとはいえ、こちらも立派なものだと思った。夫馬基彦氏の『風人日記』に「若い友人・知己がだんだん有難くなってきた」という“述懐”を見つけた。そろそろこちらにも実感として迫ってくる。

 5月14日(水)

 夜、久々に雨が降った。奄美や沖縄では早くも梅雨に入ったそうだ。ならばこちらは、そろそろ走り梅雨の季節となる。日中はやや蒸した。
  ゆうべからパソコンの「フォント」がおかしくなった。特定のフォントが表示できないのである。以前にも、右肩に出る「最小化」「最大化」「閉じる」のマークが数字で表されるなどという障害が起こり、このときは「フォントに起因している」と診断した息子に一切を任せた。こたびは、直人に「マイクロソフト サポート技術情報」から解決方法を探し出してもらい、指示通りに「ttfCashe」なるものを削除して再起動すると直ったのであった。なるほどな、といったんはほくそ笑んだ(?)が、「ttfCashe」とはそもそもなにものなのか、と考えさせられた。かつてどこかで聞いたことがあるような気もするのである。インターネットで調べ始めたが、関連記事を二,三読んだだけで根気が消え失せた。こんなことにかまけている場合ではなかった。それにしても、いろいろと学習させられる、と思った。
 
 5月15日(木)

 自転車で帰宅途中、自宅を目の前にして転倒、下頬の骨を折って一ヵ月の入院生活を余儀なくされた女子生徒を見舞うために埼玉医大総合医療センター(川越)へ行った。事前の報告では、どんな痛々しい顔になっているのか、傷跡が残らなければいいがなどと、あれこれ案じられたが、いざ会ってみれば口の中に金具を入れているために口を開くのに難儀するがあとは内も外も元気そのもの、退屈を持て余しているようにさえ思えた。病室を出るときには、こちらが制するのもかまわずベッドの上からぴょこんと飛び降りて、エレベーターの前まで送りに来てくれた。まずは一安心。

 5月17日(土)

 終日左肩が痛んだ。毎年この季節はこんな風だったかと、痛みを飼い慣らし、やり過ごす。ひと通り仕事はこなせたから良しとしなければならない。帰宅後は、大手銀行に公的資金投入のニュースを新聞やテレビで丹念に追って庶民にも徳政令があればいいなどと思うがすぐに飽いて、軽い短篇小説を手に早々とベッドに潜り込んだ。痛みに妨げられて“現の記憶”は間遠になるが、眠っている間は快適である。普通に“夢”も見られる。歯痛、腹痛とはここが違う、などと負け惜しみめいて呟く。

 5月20日(火)

 夕刻、雷鳴がとどろいた。雷の音などは久々のこと、ほどなく、激しい夕立が襲ってきた。おりしも、今日は鬼門だ、と洋平が駆け込んでくる。聞けば、改札口で投入した定期券が出てこない、もしや前の人のものと一緒に出たのではないかと急いで駆け寄って「もしもし」と声を掛けたがこれが飛んだ濡れ衣となった。定期券は後から出てきたらしく女子生徒が「あなたのですか」と差し出してくれて事なきを得た。次に自販機でいつもの飲み物を買おうとすると「健康上の嫌疑が出てきたので販売中止」との張り紙がある。いままで愛飲していた自分は何だったのかといよいよ落ち込んでいるところに、この雷と夕立であった、と言うのだ。
 近所に不思議な一角がある。神社の森から、高圧線の下を通って線路を潜るまでのおよそ七,八百メートルの道路。まわりは畑と住宅が点在する。鉄塔が一本建っているほかは変哲もない新興住宅地の風情である。ここだけに雨が降るのを何度も体験した。いわゆる局地的というやつだが、それにしても狭く、シャワーを浴びるように通り過ぎて、妙な気分に陥るのであった。この一帯だけひどい霧がかかることもある。秩父の山巓から降りてくる雲がこの上空で“変異”するとでもいうのだろうか。明日は、晴れるか。

 5月22日(木)

  日の経つのが早く感じられる。曜日で動いているから、はや週末などとため息のひとつも出てくる。いまの皇太子が生まれたときに田舎では「このお方が成人して、天皇になる頃には大変なことが起こる」という“予言”が流布されていた。大人たちはどこで聞いてきたのか寄るとこの話をしていた。具体的に何が起こるかまでは話されていなかったように思う。いずれにしても、こちらは十何歳で、はるかに遠い未来のことなど想像だにできなかった。
  いま、そのときが近づいてみれば一抹の不安はある。それは“予言”の呪縛かも知れないが、中世に逆戻りしたような現在と誰かが言っていたことにまったく同感なのである。魑魅魍魎が跋扈し、人のわざには思えない不思議なことが起こる。もっと歴史を勉強しなければ、と唐突に思った。

 5月24日(土)

 食卓に枇杷があったので食べた。もうそういう季節なのか、と思ったが、このステレオタイプな反応が何を意味しているのか、自分の呟きなのに判然としなかった。その連想から、坂上弘氏の『枇杷の季節』(文庫版)を取り出して読んでみた。戦後すぐの頃、新制中学一年生の鹿児島での一年間を綴っている。思春期の感受性が惻々と伝わり、当方にも身に覚えがあると感じ入ったが、中に「サクラが過ぎ、野山が青くなり、枇杷だった。こういう季節の書割りが私にもわかるようになった。雨の中を売りにくる桜島枇杷はきれいに色づいていた。」との一節があった。当方の枇杷、包装紙にはJA大長崎と書かれていた。南国ではもっと早いのか。

 5月25日(日)

 なにげなく国語の問題を見ていると「夏にでも○○○ください。○の中に〈来る〉を表す敬語表現をいれよ」というのにぶつかった。解答中の生徒が苦労しているのを見かねて、「いまやこれは、赤ちゃんにも使うなぁ」とヒントをあげると、瞬時に“見破られて”しまった。厳粛なテストなのに大失敗であった。ここは生徒の勘をほめるべきかも知れない。尊敬語が格下げになったケースは数多あるが、「おいで」が主にこども向けに使われるようになったきっかけは何だったのだろうか。やはり「子は宝」ということか。

 5月27日(火)

 昨夕宮城沖で大きな地震が発生した。こちらでも震度3か4程度の揺れを感じた。長い時間揺れていて、いやにしつこいなぁとは思ったがそれっきり頭の中からは消えていた。深夜近くに大地震の報道に触れてそのときの揺れを思い出したのだった。そして、去年ある大学の水産学部に入った卒業生二人のことを考えた。この4月からは気仙沼のさらに北にある三陸キャンパスで勉強しているのである。怪我などなかったと信じるが、さぞやびっくりしただろうと、ともに幼さを残した男女二人の顔が交互に浮かんできた。

 5月28日(水)

 体調必ずしも芳しからず、9時半にいったん目覚めてまた寝入ると、こんどは出勤時刻の30分前になっていた。ただし熟睡したとは言い難く、よろよろと家を出た。かつての卒業生のメール「無理し過ぎて倒れるとか、そんなの絶対に! なしですからね」というなんとも率直な“進言”が身に沁みた。6日以来休まずにいることを彼女は知らないはずである。当方にしても、それはちっとも苦ではないのだが、ただ躯がへばっているのは事実のようであった。
 夕方、休み時間に近くのコンビニへ行こうと外に出ると入り口でにこやかに笑いかける女性がいた。最初は別人と勘違いして、なんとおしとやかになったか、と思い、そのようなことを口に出して言いもした。すると向こうから「最近結婚しました」と言う。はて、まだ大学二,三年生のはずだが、と傍にいた母親の顔を見てやっと勘違いに気付いた。「いまは水戸に住んでいるんですが、里帰り中でして」それならば落ち着きぶりも納得がいく。同級生数名の消息を教えてくれたので、うんと昔の卒業生であるとわかった。ただしこの時点では、目の前の女性の名前はどうしても思い出せなかった。
  そのうち母親がバッグから写真の束を取り出し、「これが兄です」と教えてくれる。兄も教えたことがあるのだった。やけに老けた顔をしていて、「こんなにオジさんになりましたか。写真がおかしいのではないですか」と意見を述べた。実はかつての面影がどうしても浮かんでこなかったのである。せめて名前でも、と念じたがダメであった。いまさら聞くわけにも行かずにいると「ちょっとこれはね。でももう三十ですから」と母親は言う。介護ロボットの研究に携わっていることも教えてくれる。活躍ぶりは嬉しいが、さて誰だったか? 
  結局コンビニには行かず職場に戻った。○瀬ではないか、と苗字の下の字が思い出されてきた。しかし、この体調ではそこまでだった。古い資料を取り出して確かめた。下の字は合っていた。最初四,五歳年下の、彼女の従姉妹とまちがえたこともわかった。
  たそがれ時とはいえ、冷や汗ものの出逢いであった。心身共に、健康が一番である。

 5月29日(木)

 治水橋、笹目橋を渡って高島平に入った。ビルの建て替えのために休業中だった駅前の立ち喰いそば屋が営業を再開していた。間取りはほぼ前のままだったが、ピカピカになったカウンターの椅子に坐って、いつものようにそばに天ぷらを載せてもらった。新しい使用人が「300円!」ちょっと驚いて「おや、値段は変わっていませんね」と言うと、後ろ向きになって天ぷらを揚げていたオヤジが振り向いて「なぁに、40円安くしたのよ。牛丼やなんかで、ここらあたりも競争が激しくてね」とたいして困った風もなく答えた。「そうだったっけ。すごいですね、勉強しますね」 こちらにはありがたく、また、元気なオヤジに会えて良かったのである。

 5月31日(土)

 25日ぶりに休みが取れたので『宮内喜美子展〈怪獣ルネサンス〉』に行った。道に迷って、駿河台の明大のまわりをぐるぐると歩き回った。30分ほどの“散策”だったが、新しいシンボル「リバティタワー」を仰ぎ見ることもできた。緑がいっぱいで、蔦の絡まった木造校舎にむさ苦しい学生らが出たり入ったりしていた20数年前の記憶が甦ってきた。それはいまや幻影であった。上品なサロン風と言えば言えるか。展覧会の方は、予想通り愉しい作品が20数点並んでいて、気持ちも和んだ。無垢の詩心がないとこういう造形はできないといよいよ感心した。宮内さん夫妻とも本当に久々に逢えて生き返った気がする。休みは、やはりいいものである。        
           


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