日 録 アンニュイと赤い花

 2001年5月1日(火)
 
 昨日の昼FM放送から童謡が流れていた。そのなかに「あの子はたぁれ」の唄があった。
「なんなんなつめのきのしたで」という文句に誘われて、一度作詞者の細川雄太郎氏に照会の葉書を出したことがあった。もう30年近く前である。生まれた家の隣に大きな棗の木があり、そのまわりでよく遊んだことを覚えている。もちろん棗の実を拾っては、食べた。「みよちゃん」には心当たりはなかったが、もしかしてその木がモデルですか、と聞いてみたかった。「たしかに、あなたの村にも、ダム工事のために長い期間滞在したが、この歌を作ったのは群馬です」と返事が来た。童謡を作っている人がかつてこの村にいたことがあるというのは叔母から聞かされていて、そのあとに生まれたか、物心ついたかしたぼくらなどには一種の伝説だったのである。
 ちょっとがっかりはしたが、この唄を聞くと、いまだにほっと、こころが和む。氏は先年亡くなられたが、住まいのあった近江・日野町には「ちんから弁当」があるらしい。もう一つの代表作「ちんから峠」にちなんだ命名であるにちがいない。なぜなら「ちんから峠」は実在しないのだから。

 5月2日(水)

 閉め切った窓のむこうで雨音がする。時ならぬ寒さを感じる。明日から3連休。出かける予定はないが、毎年この時期になると、益子にもう一度行きたいと思う。ちょうど陶器市が開かれるせいでもあるのだろう。信楽焼に似た朴訥とした感じが好きである。実用向きで、使いこんで初めて味わいが出るのもいい。
 あのときは関東平野のだだっ広さを思い知らされる旅であった。片側が田圃の道をてくてくと歩いた。ときおり道を逸れて高台にある窯元を訪ね、制作中の職人の姿にみとれた。思川にかかる橋を渡ったとき、難渋していた結末が、すいすいと浮かんできたのを覚えている。
 もう一度、などと考えるは、若かったころの、冴えていなくもなかった想像力を取り戻したいからかも知れない。すると「柳の下のどじょう」の類か。

 5月3日(木)

 昨夜来の雨も昼過ぎには止んだ。晴れ間は覗くが、いい天気とは言い難し。夕方、駅前の中国料理店「飛燕」へ行く。入り口で燕が飛び交う。庇の内壁に作りかけの巣を発見。開店以来十数年通い詰めてきたが、燕を見るのははじめてであった。名の通りになったことを喜び、職人肌の主人と話す。「このあたりも餌が少なくなったが、何年か前の一年を除いて、あとは毎年やってくるね」「どっちが先?」「燕が戻ってくるように、お客さんも、また来てくれることを期待して、付けたんだよ」もちろん店名の方が先だったのである。「いい名前ですよ」とお世辞抜きに言う。

 5月4日(金)

 JA直売センターに行く。春と秋に二回咲く萩の木があった。配偶者は欲しがったが、高くて手が出ず。キュウリとトマトの苗をそれぞれ数株買う。去年のいま頃も同じような行動をした。近くのホームセンターで土と肥料を求める。同じ売り場に富良野のラベンダーがあり、これも買って帰る。十年ほど前に義母がわざわざ送ってくれたのに、去年の秋、突然枯れてしまったのである。これが萩の代わりとはいえ、ことしもどうやら「花より団子」となったようだ。もっとも、キュウリ、トマトが首尾よく食卓にのぼればの話だが。
 雑然とした小さな庭に、いかにも関東ローム層から掘り出したとみえる土を入れ、苗を植え付ける。水を吸うと一見コンクリートのように黒々と固まった土を見て、大丈夫? 健康上の深刻な打撃を受けたら大変だ、と配偶者は懸念する。心配無用、と言いたかったが、残念ながら根拠はない。去年のように「エセ百姓」とからかわれるのが関の山だ。田舎にいた頃、畑仕事は一度も手伝わなかったのは事実である。いまじゃ、自慢にもならないか。

 5月5日(土)

 なぜか分からないが、昨日からイチジクについて考えていた。無花果(花のない果物だって!)と書かれるのもそうだが、あの有名な「器具」によってずいぶん割を食っているのではないかと思ったのである。
 こどもの頃は、柚子や柘榴や木苺や虎杖、新しもの好きの祖父が植えたポポー(pawpaw 北アメリカ中部原産、らしい)という珍しい果物などとならんで、大好物だった。イチジクの味は、それらのどれと比べても断然引けを取らなかった。埃の舞う道路にはみ出して、薄いピンクに色づいて、いまにもはじけんばかりの実をもぎとると、洗いも拭きもせず、頬ばったものだった。甘酸っぱさが、よかった。昨秋、イチジクを口にする機会があった。味に深みがなかった。歯ごたえは乾いたチーズのようで、たよりなかった。幻滅だった。似た経験は通草(あけび)でもあった。こちらも、ぱさぱさして、甘みがない。都会で手にするものは「出自」が異なるから、こっちの期待通りにはいかないということだろうか。あるいは食べる側の、「年を経た舌」に問題があるのだろうか。どちらにしても、本物はこんなのではないという思いが、イチジクに加担する気持ちとなって、不意に出たのかも知れない。無花果よ、通草よ、いつかまた本当の君たちと出逢いたい、と。
 菖蒲(アヤメ)で有名な智光山公園(狭山市)には、木苺が群生している。この味は本物だった。小学生までの恣意的な記憶ではあるが、アルミの弁当箱にぎっしり詰めて、塩水に浸して食べてみたい、と思わせた。
 今日は、端午の節句。菖蒲の葉をお風呂に入れよう。

 5月6日(日)

 HPにカウンターをつけようと思い立った。マニュアル、オンラインサービス、ホームページを作るソフトのヘルプと渡り歩いてようやく仕組みが分かり、その通り設定してみた。サービスセンターからもメールでアドバイスをもらい、アップロードを何度かし直したが、いずれも失敗。3日がかりの作業も、いったん断念。うまくいかないものである。HPを開設するときも内容を制作するよりも、アップロードまでの手順に多くの時間が割かれた。今回は、「不人気の証明」になるからそんなものつけるな、ということかも知れない。いやその証明のためにこそつけておきたいのである、などと、一人で対話。衞慧(ウェイ ホェイ)「上海ベイビー」を読み始める。「おのずから生滅する、活力に満ちた野生の植物」(25p)か。こういう調子ならば、惹かれながら、読めそうである。

 5月8日(火)

 車の前方、西の空に暈をまとった満月あり。昨7日は、生活実感の希薄な一日だった。そのくせ、時間は確実に流れていく。旅行会社に就職した元学生、半年ぶりに来訪。仕事上の用件もあったようだが、帰り際に「家を出て、友達と一緒に住んでいるのです」こっそり教えてくれる。「Mに、遊びに来るように言っておいてください」と伝言を頼まれた。「おれはだめだよなぁ」と軽口一つ。それしも、空虚。BS23(国際ニュース)の女性キャスターを見るたびに、よく似ている、と思ってきた。どうでもいいことだが、そのことを、また言い忘れた。
 午前4時、家に着くと、「麦蔵部」のトップページ、佐伯一麦さんの生原稿(200〜400字のエッセー)を、ふと思い立ってプリントアウト(カラー印刷)。なかなかいい企画で、毎回楽しみなページである。友人の版画家・隈部滋子なら「コラージュに使いたい」というかも知れない。海燕新人賞を受賞した作品「木を接ぐ」の原稿は墨字(毛筆)で書かれていたという。「文化」を伝えるのは、こういう「人の営み」であって、パソコンやインターネットではないのだ、と、生活感いささか戻る。(未明)
 夜、「ボーロ」一袋、ウイスキーのつまみにして、平らげる。南蛮渡来のこの菓子は、商品名だと思うが「衛生ボーロ」で通用する。かつて誰かに話したか、手紙に書いて送った記憶がある。次に逢ったとき、真似してみましたよ、と複雑な表情でその人は言ったものだ。衛生ボーロとウイスキー、独創だが、人に勧めるモノではないのかも知れない。自身の固有の記憶とのみ結んでいる。同じ20代の頃に覚えたものに「ニコラシカ」というのがある。輪切りにしたレモンにたっぷり砂糖を振りかけて口に含み、シングルサイズのブランデーを流し込む。広島の場末の酒場で、マダムと本気でケンカばかりしていたバーテンが作ってくれると、抜群の酔い覚ましとなった。こちらは、お勧め、である。

 5月10日(木)

 昼過ぎに起きて、「上海ベイビー」読了。最終章がなかなか、いかしている。「この作品」と思しき執筆と同時進行の構成も、ぐいぐい惹かれるところである。確かに、“現代の凄い”小説である。朝日夕刊(9日付)で奥泉光氏が「いったい誰に向かって自分は書いているのか。これは難問である。」と書いていた。「上海ベイビー」の作者にも同じ悩みがのしかかっていたことが、ひしひしと伝わってくる。この小説、上海の、いや全世界の若い女性に迎えられているというが、それで答えが見つかったわけでないところが、難問たる所以なのだろう。夕刻、浅草の短大生殺人事件の犯人が捕まったというニュースが流れた。「小さい頃から動物が好きだった」と供述しているという。一番知りたい「動機」と、どう関係があるのか、はなはだ不条理な感じがする。馬鹿者、と怒鳴りつけたい心境だが、そのあとで観た「憎しみよりも、いまは娘を失った悲しみが」という父親の、目に涙をためた姿と対比され、やりきれない思いが募る。

 5月11日(金)

 昼前から、雨が降り出す。本格化するかと思えば一時間後には晴れ間が覗く。まったく、気まぐれである。アンニュイの季節。外来語辞典(角川書店)にあたると、「倦怠・退屈・つれづれ・ものうさ」とあり、1911年夏目漱石が、1912年萩原朔太郎が、それぞれ自身の著作に使っている(初出?)という。この言葉、久々に使ったが、いまは適語ではないかも知れない。夏に向かって、確実に慌ただしさが増している。逃げるか、攻めるか、どちらかだとすれば、攻める。禁欲か、快楽かといえば、前者。身に備わった属性はそう簡単に変えられない。アンニュイを「愉しむ」余地はほんとうはなかったのだ。いや、だからこそ、禁忌のようなその気分が襞々に潜り込んできたのだろう。まったく、言葉ってものは、鏡に映した自分の顔のようだと思う。

 5月12日(土)

 午前5時前、左折と同時に昇ったばかりの太陽が、目線の高さに現れた。大きかった。真っ赤だった。東西に延びた道路に乗っかっていた。そのままこちらに向かって転がって来るような気がした。数百メートル進んだところで、残念ながら街路樹に隠れてしまった。クリスマスの日に、デルタの街の湾内の小山から、水平線に顔を出す太陽を見たことがあった。こんなに大きくて赤いのはそれ以来かも知れない。夕陽もいいが、朝陽もまた、いいものだった。

 5月13日(日)

 東奔西走とはよく言ったものである。本来の意味とはちがうが、ここ数日、夜明けには、東(昇ったばかりの朝陽)に向かって走り、西(沈みかける満月)に向かって走ってきた。南へ、とか、北へ、とかの記憶がない。方位としては、東西がよほどメジャーなのか。日本列島は南北に長いというのに。と、どうでもいいようなことを、考えていた。北の母にも、西の母にも、今年は何も、贈れなかった。

 5月14日(月)

 これから書くことは、タイトルをつけるならば「スターバックスコーヒーと火事と坂道」となるだろう。三題噺ではないが、たかだか30分足らずの間に、これだけの話題が出来したわけだから賀とせねばならない。
 帰りがけに、近くに「スターバックスコーヒー」のお店があると誰かが言った。それが発端だった。3月にイギリスを旅したK女史のメールを思い出したのである。「ロンドンも、あちこちにスターバックスコーヒー、紅茶の国はどこへやら?」と報告を寄せてくれた。実はこのときスターバックスコーヒーなるものをはじめて知ったのである。娘に一応聞きはしたが、例によって、コーヒー店の一つだよぐらいしか教えてくれない。「固有名詞」で通用するのだから、相当有名な店にちがいない。しかし「勉強」することなくそのままにしていたのである。
 途中まで同乗する学生に、早速質問した。
 アメリカ資本で、都内中心だったのに最近埼玉県にも三店が進出してきたこと、そのひとつ、職場の近くの店は2月末頃にできたこと、「スタバ」(こう略すらしい)でバイトすることが学生のあこがれであるほどエプロンが格好いいこと、注文方法が変わっていて、いろいろトッピングをしてコーヒーが楽しめること、などを実の娘とちがって、詳しく、親切に教えてくれる。熱いコーヒーの中にアイスクリームを入れて飲ませる店が広島にあlり、当時通い詰めたものだった。幸いこの店は、都心の店ほど混んではいないという。なつかしの味に再会できるかも知れない。明日にも行ってみよう、と思ううちに、車が詰まって、動きが途絶えた。前方の道路際で火災が発生し、通行止めになっていたのである。10分ほど待ったが、意を決して道を逸れた。交通整理に当たる若い消防士の進言もあった。しかし、すいすい迂回できるほど地理に詳しくない。そのうち記憶のある道にでくわすだろうと思っただけだ。住宅街をくねくねと縫って走った。行けども行けども記憶にぶつからないどころか、前方に、傾斜30度もあろうかという坂道が現れたのである。大きな河の土手か、いやこんなところに河は流れていないはずだ、と冷や汗ものではあったが、ここは坂道を駆け上って向こう側を見届けるしかなかった。
 あとは、右に左に進んで、折良く見えてきたファミレスの看板を目印に、もとの道に出ることができた。さっき停まっていたところから、100メートルと離れていない地点だった。いつか、この坂道も再訪しよう、と思った。これは、負け惜しみだろうか。

 5月16日(水)

 午前、小雨に煙る。午後、職場に着く頃になって激しい驟雨 。着いてからもなお降り続き、ズボンの裾と袖口が、びしょ濡れになる。ほどなく止んで、からりと晴れたから,よほど運が悪かった。
「言葉の無償性に至るための扉を隠している。」というのは先日、「詩歌時評」に平出隆氏が書き留めた一節である。前後の文脈を離れての引用だから、著者の本意から逸れるかも知れないが、恣意的に使いたくなる部分であった。人の言葉なんかを、という「天の声」が聞こえてきそうだが、ここは敢えて、と考える。すなわちこの日録はその扉でありたいと、おこがましくも、思うからだ。
 人の言葉と言えば、「海亀通信」(宮内勝典さんのホームページ)の日記にこんな一節を見つけた。「煙草を買いに出かけ、赤い郵便ポストに百円玉を入れようとしている自分に気づいて、はっとした。」肉声の届く、ユーモラスな文章だと思った。『グリニッジの光りを離れて』を読み直してみようという気にさせる。これを「言葉の無償性」というのだろう。それにしても、ポストのあの口は、つい何かを入れてみたくなるから不思議だ。

 5月17日(木)

 陽射しの熱い日だった。ぐんぐん伸びてくるキュウリに副え木を施す。ホームセンターに寄ったついでにサルビア、小茄子、モロヘイアなどの苗木を買う。それぞれ、じか植え、鉢植えにしていると、6時近くになった。まだ、真昼のような明るさである。陽にあたり、土にまみれたせいか、頭に羽が生えたようにふわふわして、眩暈に似た感じを覚える。植物とは反対に、少し病的な休日とはなった。『記憶』(港千尋)をところどころ再読。日々の生活の中で、記憶は生滅を繰り返すというのは、実感として分かる気がする。

 5月19日(土)

 3時半から約1時間、公園脇に車を停めて、配偶者を待っていた。終了時刻が延びたおかげで、昧爽を体験。この時期は、夜と朝の境に、一切の曖昧さがないことを知る。「いきなり、あさー」というギャグが評判の漫画があったような気がするが、眠ることもできず、新聞もあらかた読んだ身には、新緑の木々と明るんだ空を見るしかなかった。車の中の自身もまた、白日の下にさらけ出されて、無防備このうえなし。昧爽と言えば、朝靄のかかった草原のイメージが強かったが、こんな朝もあったのだと、再発見。爽はさわやかとも訓まれる。

 5月20日(日)

 団地のクリーンデーに遅れて参加する。側溝にたまった枯れ葉や汚泥を取り除き、のびざかりの雑草を毟る作業。周回道路の側溝掃除は、幸か不幸か、今回なかった。この作業は、側溝が深いうえに、大量の汚泥がたまっていて相当の力仕事である。専用のスコップを地下2メートルぐらいまで降ろして、全身を使って引き上げる。腰にくるから、いつもは、比較的若い男たちの仕事となる。もちろん、3、40代の人にまじって毎回奮闘してきた。それが今回ないのだから、拍子抜け。と同時に、寝不足の身には、多少の安堵もある。北に向いた窓の下に潜り込んで、苔の間から芽生えた幼い雑草を引き抜き、迷った末にシダもあらかた取り除き、シャガだけは残して、作業を終える。奥さん連の会話に、ちょこっと口を挟んだりして、こういうことはけっして嫌いではなく、むしろ似合っているのかなぁ、と苦笑。日曜日、出勤前のエピソードであった。

 5月21日(月)

 かねて友人から勧められていた「運動靴と赤い金魚」(97年イラン映画)をビデオで観る。20日の昼の放映だった。夜に番組表を見て気付いたのだったが、幸い配偶者が録画していた。良質の短編小説(それは絶対「純文学!」)を読む感じがあった。貧しい家庭のこども(兄と妹)の世界が描かれていて、自身も似たような環境の中で育ったが、それらのことからくる「感情移入」というのではない。なつかしい「人の心」を思い出させてくれた。説明を一切省いたせりふも映像もよかったが、生きるということのけなげさ、あたたかさに感動したのだ。

 5月22日(火)

 街道が二股に分かれる、いわゆる三角地帯に屋台風のラーメン屋がある。通りがかるのはいつも夜中だが、きまって行列をなしている。岐れ道の路上は、お客の車でふさがれている。10年来そういう光景を見てきた。よほど旨いにちがいない。そのうちにと思いながら、ほかならぬその行列におそれをなしてきた。昨夜、客が3人いるだけで、いつになく空いていた。他の、いろいろな条件(まずは空腹、次に急いで帰る必要なし、など)が整い、絶好の機会だったのに、「もう少しお客がいた方がおいしく食べられるかも知れない」と、ついと通り過ぎてしまう。つまり、これからも、次の機縁を探りながら、毎夜毎夜、脇の街道を走り抜けることになるのである。すぐに次の10年が経ってしまうのだろうか、と自嘲。 
 夢などいうものは、もはや人前では話すこともあるまいと思っていたのに今日、話の接ぎ穂に「夢は捨てていませんが」と言ってしまった。聞いている人も心なしか冷笑を浮かべた気がする。ところで、最近眠りながら見たほんとうの夢は、氷の貯蔵室が満杯になるというものだった。12月に冷媒装置が壊れて、勧められるままに買った新品の冷蔵庫は、タンクに水を入れておくと下の貯蔵室に氷が落ちる仕組みになっている。深夜などは、がらがらと大きな音を立てるから、何ごとかとつい聞き耳を立てることもある。その貯蔵室に、どんどん氷がたまっていく様を、夢に見たわけである。これは、最低の夢か。いやいや、逆かもしれんぞ、と分析をしつつも、虚しさに変わりなし。

 5月24日(木)

 終日、雨。三日間にわたって降り続いている。雨はきらいではない、だからついこうやって記してしまうのだろう。二夜続けて、一つの傘にふたりで入ることとなった。ほんの短い距離だったが、傍で自転車を押していた新人が、それじゃささないのと同じですよ、と忠告してくれる。実際こちらには遠慮があり、相手が濡れるくらいなら自分が、という、その程度の思いやりもある。それに雨に打たれることは、ちっとも苦ではない。ずぶぬれになりながら走る若者を見ると、ふいに感動を覚える。応援したくもなる。昨夜は、「いいです、たった五分ですから濡れていきます」と固辞する高校生に半ば強制的に傘を貸してしまったのである。貸さなければそいつも、見えないところで、感動的な走りを見せてくれたかも知れない。

 5月25日(金)

 行きはツツジ、帰りはカエル、と書くと、だじゃれみたいだが、躑躅がその名のごとく歩道際にうずくまって赤い列をなして華やかに見送ってくれ、闇夜を貫く、田圃のなかの一本道では蛙の鳴き声が「いきろ、いきろ」の大合唱に聞こえたのである。久々の晴天も、まんざら捨てたものではない。
「彼は延ばした手に、続いて全身に、焼けつくような熱と刺すような痛みを感じた、それは、まるで何かえたいの知れぬ力の流れが赤い花弁から放射されて、からだ全体に滲透して行くかのようだった」(福武文庫、中村融訳)と描写されるガルシンの「赤い花」は罌粟の花で、憎むべき権力の象徴だが、この時期、ツツジやバラやサルビアなどの赤、とりわけくすんだその色合いは、なににもまさっている、と思う。

 5月27日(日)

 7時起床。雨やや激し。毎年経験しているはずなのに、去年やおととしの記憶はなく、これが走り梅雨だと言われれば、また新たな感興が湧く。新聞に目を通したあと、顔を洗う。ここ数年の調子のバロメーターがこれである。運動選手は躯の切れがいいなどと表現されることがあるが、その日一日の好悪はこの毎朝の習慣にかかっている(人みな、そうなんだろう。運動不足の権化たる者がこんなことを言うのもおこがましいか)。この朝も、眠気、惰気、鬱気が、水とともに流れてくれる。5月最後の日曜日、雨音やゴスペル(FM放送)とともに、いい気分である。

 5月28日(月)

 移動性高気圧が元気を盛り返したのか、一転、爽やかな五月晴れとなる。練馬のアパートから戻ってきた昨夜遅くにも、ときおり雨が降っていたのが嘘のようである。月が地球のまわりを回転すると太陽は反対方向に動いて見える。地球から見た月の形を位相図で表せ、などという地学の問題を教えていると、その子は突然立ち上がって、何枚もの要らない紙をくしゃくしゃに丸め始める。目の前に突き出すから、考えるのに飽きてキャッチボールでもしたいのかねと目で問えば、おもむろに首を振る。まだ完全な球にはなっていないが、実は月を造っていたのだった。合点したあとはもっと大きな月に仕上げるよう指示する。説明のために球状のもの(出来合いの!)を探していたのをその子なりに気の毒がったのだろう。すぐに気付かなかったこちらの方が、一本取られたことになる。要は、発想の柔軟性か。

 5月29日(火)

 昼過ぎに、一、二度雷鳴あり。前後して、驟雨。それもいっときのものであった。深夜、テレビで「けんかえれじい」(昭和41年、鈴木清順監督)を観る。三度目だが、はっきり覚えていたのは北一輝が登場する場面くらいで、あとははじめて観る感じが強く、もちろんいまも新鮮。いい映画である。北一輝役が誰かだと松本健一氏の著作で読んだが、これも忘れている。「恋か、小さし」という言葉は、北のものか。いずれも調べなければと思い本を探すが、本棚の奥に隠れて、なかなか見つからない。

 5月30日(水)

 深夜、土砂降りの中、300メートル先のコンビニに煙草を買いに行く。入り口の電話ボックスで若い女の子が電話をしていた。声が外まで漏れてくる。もちろん内容は分からないが、ある程度の雰囲気は想像できた。携帯の全盛期に公衆電話というのも珍しい。数分後、店を出るとほぼ同時にその子は話し終わったようだった。出てくれば顔でも見てやれと、ゆっくり交差点に向かったが、少女はボックスのなかでくの字に折れ(つまりガラスに凭れかかって)煙草を吸い始めた。出てくる気配はなかった。やがて背中からずり落ちるようにして、うずくまってしまった。信号が青になって、歩み始めると、向こうから金髪の若者が傘も差さずに駈けてきた。すわ、電話の相手? の疑問に決着をつけたがっている自分を感じなからも、振り向きもせずおもむろに家に向かう。

 5月31日(木)

 晦日。早起きをして、朝から世俗的な用事を済まそうと決めていた。それでも起きたのは11時である。夕方、本屋を覗く。そこはGOROというチェーン店だが、入り口の自動扉が開くと、本屋さんの匂い(新刊の香り)がつーんと鼻にきた。なぜか、なつかしかった。広島の丸善で2年間ほどアルバイトをしたことがあった。家族的ないい職場で、ずいぶんと心が癒されたものだった。売り場の本はどれも、カバーさえ付ければ、すなわち汚さなければ貸し出し自由だった。これは重宝した。従業員用の図書室もあった。蔵書印の押された梅崎春生『狂い凧』が、十数度の引っ越しにも散逸せず、もちろん古本屋にもいかず、いまなお手元にある。返しそびれたというよりは、一種の確信犯である。これからも、大事に保管することと引き換えに「罪」を赦してもらおう、か。ちなみに今日買った本は、『第三の眼』(港千尋)と、文庫版『日本人の神』(大野晋)である。




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