日  録 峠で鷹に出逢った

 2003年8月2日(土)

 ようやく梅雨が明けた日、板橋の花火大会に遭遇した。まわりの商店も道路にせり出して商品を並べ、1キロほど先の荒川土手に向かう大勢の人に呼び掛けていた。うちわ片手の浴衣姿が目に付いた。まだ明るいうちからお祭りのようである。高島平勤務がいまよりも頻繁だった頃は、毎年のように、大地をも揺るがすような轟音と建物の隙間からとはいえごく間近に原色の大輪を堪能することができたのだった。日常とはちがうハレの気分も味わえたのだった。
 休み時間に裏の非常階段に登って続けざまに打ち上げられる花火を5,6発見た。もちろんなつかしかったが、それだけで妙に納得した。「混みますよ」という忠言を聞いて夜は早々と引き上げてきた。

 8月6日(水)

 曜日の感覚が飛んでしまうような生活に入っている。今日はおりしも“中休み”となるが、何曜日だったかを、時を措いて何度も確認するような仕儀に至る。もちろん『ヒロシマの日』であることは知っていた。中國新聞web版に「燃えた鶴には一つ一つ込められた思いがあり、代わりのものを作れるわけではありませんが、持ってきた鶴にも私たちの平和への思いを込めました」という関西学院大生のコメントを見つけた。式典に間に合わせるために糸を通した折り鶴9万1000羽を折り鶴台に掛けたという記事である。同大に届けられた30万羽の一部とも書かれていた。私生活の腹いせに燃やしたのも若者なら、こんなにしっかりしたコメントを言えるのも若者である。われを省みても、“青”の時代は右へ左へ、振れ幅が大きすぎる。それが生の原動力だったかという気もするが、ともあれ年を経たいまは、ただ祈るのみ!

 8月8日(金)

 朝、ビデオテープレコーダーを買いに走った。故障したまま、直すか買い換えるかでうだうだと一ヵ月以上を過ごしてきた。なくても別に困らない代物だったが、どうしても録画しなければならない番組がついに今夜に迫って、走らざるを得なかったわけである。修理代プラスなにがしかの値段で、つまり一番安いものを買った。「この間の雷で忙しくて伺えないけど、自分でできるでしょ? ひとつずつ外しながら前のと同じようにつないでいけばいいから」と旧知の女主人が言った。「来てもらうよ。おれにはできない」と引導を渡して家を出たが、ここで気が変わった。ところが、言われた通りやって、説明書を読んでみても、これがまるで“呪文”である。文法が掴めない。映像、とりわけテレビをバカにしてきた報いかとも思った。いっこうに作動しないばかりか、BSが映らなくなってしまった。出かける時間も迫ってきて、ついに匙を投げた。電話で経過を話すと「そこまでくると、わたしにもわからないわ。番組は夜だと言っていましたね。帰ってきたらすぐに行ってもらうから」
 駆けつけてくれた人は、このメーカー(ビクター)のものは、無駄で、余計な接続が多く、店員泣かせ、安いのだけが取り柄、と言っていたそうである。癇癪が、やっと治まったような次第。

 8月9日(土)

 台風10号が当地を掠め過ぎて行ったあとの夕刻、東の空に二重の虹が見えた。「虹ですね」という声に授業を中断して生徒ともども階段の踊り場に出た。「見るのは生まれてはじめてです。家に電話してもいいですか」と小学生が言った。また別の生徒は、「写真撮っていいですか」と教室に慌てて戻っていった。「いいな、写真付き携帯は」「いつ消えるの? 消えるまで見ていよ」などの声を聞きながら虹を見るのは何年ぶりだろうかと考えていた。立派な虹だった。
(「メインページ」下段に直人&新人の撮った写真をUPした)

 8月12日(火)

 小さな川のそばの住宅街で助手席から上半身を乗り出してハンカチを振る人を目撃した。車はこっちに向かって走ってきた。咄嗟に知事選がらみかと考えたのはまったく早とちりだった。また、想像力の乏しいことだと反省した。その婦人はいまさっきまでいたと思われるマンションの一室をめがけてひたすらに振っているのであった。運転中故に、探せども相手を確かめることはできなかった。日中のささやかな情景といってしまえば身もフタもないが、はっと覚醒させられるものがあった。今日からお盆休みに入った。

 8月14日(木)

 終日、雨。止む気配はない。15キロ先のアパートに娘を送る途中ホームセンターに立ち寄る。熱帯魚を飼いたいと突然言い出したからである。世話が大変だからやめとけ、と言いながらも見るだけは見てみようと思った。熱帯魚コーナーにはメダカを少し大きくしたようなものが何種類も展示されている。傍らには飼育に必要なものが揃えられていて、飼いやすくなっているようだった。掌にはいるくらいの小さな水槽もあって、これなら狭い部屋でも邪魔にはなるまい。もう反対はしなかった。店員のアドバイス通り、その大きさに見合う数(5匹!)の熱帯魚と水草、敷石などを娘は買っていた。水槽にポンプなどを取り付けて、とりあえずテーブルの上に置いてみると、これがなかなかいい感じなのであった。ひとり暮らしの無聊は十分に癒されるだろうと思った。

 8月15日(金)

 昼寝から目が覚めた午後7時、まだ、降っている! 思わずそんな呟きが洩れる。昼前に、画面が真っ白になった配偶者の携帯電話を持って『ドコモショップ』に行った。ロビーには人が溢れ、順番待ちの番号札を渡された。ここには若者から若い夫婦、われらのような年配者まで、多くの人が集っている。
不況どこ吹く風か、と思う。「安くて、字の大きいやつ」「カメラは付いていてもいなくてもどちらでもいい」「色は紺がいい」などと注文を出すと、不機嫌そうな女子店員は在庫のある何機かを持ってきた。いろいろ遣り取りはあって、こちらはごく普通のお客のつもりで心当たりは皆目なかったが、彼女の応対はさらにぞんざいなものになっていった。席を外した隙に「別のとこへ行くか」と配偶者に言うと同じ思いだったらしく、頷く。心からお客を歓迎していないというのがわかる笑いほど醜いものはない。不機嫌な顔のまま売ってくれた方が人間味があってまだしもである。と言い条、最後に出されたカメラ付きが一応希望に叶って、結局他の店には行かなかったのである。

 8月16日(土)

 明日から志賀高原にて4日間の勉強合宿である。今年は高校3年生のひとりが「小論文の練習をしたい」という希望を持って参加するので、読ませたい本を
何冊か持っていかなければならない。前に練習として書かせたものを読んだかぎりでは、あまりにも表現が拙いうえに、素養がまるでない(スポーツ少年だから当然か?)。みなで相談した結果、ここはまず本を読ませることだという結論に達したのである。さまざまな題材のものを深く読み込ませて、まず文章とは何かを感得させ、そこから自分の考えを創っていってもらおうと思っている。
  本棚を物色して、村上春樹『辺境・近境』、14年前54歳の若さで突然亡くなった阿部昭の『エッセーの楽しみ』など数冊を取り出した。バッグに詰める前に、ぱらぱらとページを繰っているとつい時間が過ぎていった。

 8月20日(水)

 この日早朝、志賀高原・熊の湯でほぼ10日ぶりに青空を見た。
峰々を掠めて広がる青い空を標高2000メートルの地点から眺めているとなにかなつかしいものに出逢ったような気がした。それもしかし束の間のことだった。帰路、“下界”に降りるにしたがってまた雨もよいの曇り空になっていったのである。期間中は高校野球以外一切のニュースに触れずにいたが、自爆テロ、三角関係にともなう理不尽な殺人と、暗澹とさせられる事件が目に、耳に飛び込んできた。高原生活が夢のように思える。

 8月22日(金)

  暑い一日だった。一昨年や去年のような猛暑を覚悟しながら迎えた8月もはや下旬にさしかかって、やっと夏の天気にめぐり逢うということか。食卓の上の茹でたトオモロコシにも手が伸びた。かぶりついていると記憶の中の夏が甦ってくる。夜中、トイレに起きて真っ暗闇の部屋に戻ったとき、籠にけつまずいて転んだ。方向感覚がきっと狂っていたのだと思われる。臑の痛みを怺えながら
また眠りに就いた。年に一、二度はこんな夢遊病に捕らわれる。きまって、寝苦しい夜に。

 8月26日(火)

 
パラパラと雨が落ちていた。夕方になれば雷でも来そうな天候だった。午後、気分転換を兼ねて、26キロほど先の和紙の里・小川町の伝統工芸会館に行った。藍染めの生地や和紙の小物、それに「ゆべし」などを買ったあと、迫り来る山に向かって車を走らせた。どこへという当てがあったわけではないが、誘われるように山懐に深く入り込んでいた。ほどなく、標識を見て秩父に抜けようと決めた。
 つづら折りの定峰峠は対向車にも、ハイカーにもほとんど出逢わず、深閑としていた。
窓を開けると空気もさわやかであった。頂上付近は一面真っ白の霧におおわれていて幽玄な気分にさせてくれた。
 
下りにさしかかって民家が2,3軒見え始めたとき、道の真ん中で一羽の鷹が遊んでいた。スピードを緩めたが、車の気配に飛び立ち、沢の上を低く旋回している。「こういうときのカメラだ」と言うと、配偶者は慌てて携帯電話を取り出した。車も停めたが時すでに遅く、山腹に沿って上空に消えていった。さっき見た鋭い眼が甦り、その悠然な立ち居振る舞いに感じ入った。鷹に肖りたいと思う。
 対岸の中腹を西武秩父線が走る渓谷沿いの国道に出て、正丸トンネルをくぐり抜けて、戻ってきた。走行距離108キロ、たった4時間のドライブだったが、緑の山から元気をもらってきた。

 8月29日(金)

 あと2日で8月が終わる。この夏は、アンダーシャツを身につけることをやめた。梅雨入り前後からだったように思うが、直接のきっかけは、もちろん暑さしのぎであった。ワイシャツを素肌(?)のうえに着るのは、この歳ではかなり勇気が要る。2,3年前に「シャツが透けているよ。ダサイよ」と中学生から言われたことがあった。なんのことか皆目分からず、女子学生に訊いたものだった。「いまどき、着ないようですね」とこっそり教えてくれたが意に介さず、「亀シャツ」(いまもこんな名称が通用するのだろうか)を愛用してきた。そういう習慣だったからである。
 ことし、梅雨が明けてもいっこうに暑くはならず、本来ならば、身につけるべき期間も「なし」で過ごした。生来の天の邪鬼のせいではない。これがなんとも快適なのである。職場の若い者を注意して見ると彼らはやはりノー・アンダーシャツである。「見てみろよ。オレもだぜ」と言いたいのを我慢して、歳まで若くなるわけではないが、せめて気持ちだけでも、と思っている。
  この夏の“異変”はいつまで続くか。秋風が吹いて、寒さが怺えきれずになれば、臆面もなく元に戻るのであろうか。

 8月31日(日)

 夕立と雷のあと、俄然涼しくなっていた。深夜近く職場を出るときは寒いくらいだった。冷夏にふさわしい晦日だった。世界陸上を見るともなく見ていたが途中で躯がふわふわとしてきた。ベッドに潜り込んで、夢も見ずに、眠ってしまったらしい。   
    
   


メインページ
行逢坂に戻る