日  録 おはぎと地震と

 2003年9月1日(月)

 出がけに届いた『midnight press 21号』を持ってさいたま市まで出かける。出先の駐車場で、目次をパラパラと覗き、家でゆっくりと読む心積もりで急いで帰宅するとすぐに「応援頼む」の電話が入った。また来た道を戻って、夕方職場に着いた。思いがけず、100キロ以上を走り抜ける日となった。
 その100キロの大半はまわりが水田の道だが、冷害が心配されている東北地方とちがってここらあたりは実を結んでいるようだった。その様を見て、《実るほど 頭を垂れる 稲穂かな》という句(または金言?)を思い出した。「同級生の実君」を戒める言葉として近くの寺の住職でもあった直山先生がみんなの前で言ったのである。小学校の5年生の時だった。いまならあまり可笑しくない駄洒落だろうが、当時はみなも我もまじめな顔で聞いていた。省みて、そうだそうだ、と思えたのにちがいない。いまだに覚えていること自体は“トリビアリズム”だなぁ、とは思いつつ、忘れられないのである。

 9月3日(水)

 夕立ち、雷、停電を職場で経験する。その頃、近くの高麗川の堤防では若い男性が雷に打たれて亡くなったという。直後、55歳の男性がジョギング中に見つけたと報じられていた。こんな時にジョギングとは、勇気があるものだ。彼と我の差は紙一重にも思えただろうか。

 9月5日(金)

 蚊に喰われた女子中学生が「いたい。うずく。熱を持っている」と人差し指の先を突き出した。なるほど赤く腫れている。「かゆい」は聞いたことがあるが、そう訴える以上は痛くて、疼くのだろう。そっと触ってみれば、心なしか熱くもある。さっき女子学生に手当てしてもらったが、まだ治らないと言う。その女子学生は数時間前に首筋を咬まれた。手が届かない患部に“キンカン”を塗ったのはちょうどその場に居合わせた小生だった。ともに色白な二人を見て、蚊が好むのは……という蘊蓄を思い出した。我は無傷だったが、残暑にほくそ笑む蚊の奴め、と憎かった。ヒトがバテ始めているというのに、蚊ばかりが元気であったからだ。

 9月6日(土)

 デジカメで撮った写真をパソコンに落とす作業を直人に依頼。何年か前にも同じようなことがあってあの時は難渋したが今回はUSB対応の読みとり機器があるというので早速近くの電気店に車で出かけた。首尾よく目当てのものが見つかり駐車場を出ようとするとボロボロの車がふいと前に出てきた。「レトロだなぁ」「味があるね」「あ、フィアットですよ」などと言い合った。はてどこかで聞いたことがあるぞ、と咄嗟に記憶を呼び戻そうとした。読みかけの『黄金を抱いて翔べ』(高村薫)の中の一節だったか、あるいは……。
 およそ5時間後の深夜になってついに思い出し、確かめた。『なんでも書いていいよ、僕、三枚目でありたいの−永遠の「少年」はそう笑うと、愛車フィアットで颯爽と家路についた。』(5日付朝日新聞夕刊) 谷川俊太郎のインタビュー記事の最後の一節だった。胸のつかえは降りたが、これは記憶力減衰の証左か、まだまだそうでもないということか、判断に迷った。

 9月8日(月)

 コンビニの駐車場で営業マンらしき中年男性に駅までの道を訊かれた。「踏切を超えて、道なりに行って、T字路を右折して……」などと説明をはじめたが煩わしくなって「そっち方向に行くので付いてきたら?」と言ってみた。「一件電話をしなきゃ」「待っていますよ」かくして、先導することとなった。途中信号ではぐれかけたが、分岐点まで無事辿り着いた。ここまっすぐですよ、と窓から合図を送って左折した。昼間の黄色い車は目立つ。いつかこういう日が来るのを待ち望んでいたような気がする。

 9月9日(火)

 中秋の名月まであと2日、少し欠けた月の右下に赤い火星を見つけた。小さい頃には火星人の想像図がしばしばマンガ雑誌などに掲載されていたように思う。皇族のひとりに「火星ちゃん」などというあだ名がついたこともあった。風貌、振る舞いを見るにつけ、おおいに納得したものだった。それほど身近な星が「大接近」というから、仰ぎ見ないわけにいかない。

 9月13日(土)

 国道沿いの土手に彼岸花が2本咲いているのを見た。去年や、一昨年や、そのまた前のように、斜面いっぱいに赤い大輪の花が咲き揃うのはもう少し先だろう。ここ数日生半可でない暑さに閉口している身にはなんとも皮肉な秋のおとづれである。続いて目に飛び込んできたのは雑草の合間からひょっこりと顔を覗かせている山吹の花。見慣れた風景のなかに残像の如く飛び退いていくたったひとつの黄色い花だったが可憐とはまだ形容できない。
  そして最後は、白いススキの穂の群れだった。揺れもせず、ただまっすぐに立っている。どんな秋がやってくるのだろう、とここに来て少々感傷的にはなった。
 というのは、昨日は、訪ねてきた人を別人と勘違いして長々と話し、今日は同姓の別人と思い込んで電話でとんちんかんな応対をしてしまったのだ。ともに途中で気付いてあやまることもできたが、無思慮を大いに恥じた。

 9月17日(水)

 神奈川の養護学校に勤める若い友人からメールが届いた。高校から派遣されてもう4年目になる、まだしばらくは戻れそうにないなどと、近況が綴られていた。誠実な人柄が行間からにじみ出るようでちょっと嬉しくなった。2,3年前にひょっこり職場に現れて児童・生徒との交流の日々を楽しそうに話してくれたことも思い出された。
 メールには、医療ケアを施したり、不登校児の訪問指導もやると書かれていた。根気のいる地道な仕事に思わず頭が下がった。尋ねられたことについては早速返信したが、こちらなどは、喩えて言えば《なぜできないんだ》と怒鳴ることでしか成就しないような“仕事”をしているのだった。彼に鑑みて方針を変えねばならない、と反省、しばし。

 9月18日(木)

 まったく季節はずれなことに、夾竹桃が咲いている。庭の花はピンク、今日国道沿いで見かけたものは白だった。こちらは数えるほどしかなかったが、わがピンクは7月に続いて二度目の“満艦飾”である。強い木だとつくづく感心する。見ている方は終わらない夏にため息をつきつつも花を愉しむ。

 9月21日(日)

 雨の日。いつもの習慣通り庭にキイロの餌の残りを撒いた。しばらくすると、鬱蒼とした木々のなかで山から下りてきた数十羽のメジロの群れがざわめき始めた。なぜわかるのだろう、と野生の勘(嗅覚? 視覚?)に感嘆した。しかし、メジロのねらいは違った。彼らは夾竹桃の花にくちばしを突っ込んでいるのだった。花に辿り着く前に濡れた葉から滑り落ちるものもいて、笑いを誘われる。まあ、そう慌てなさんな、花は逃げていかないよ。
 昨日の昼過ぎ、千葉東方沖を震源とする地震あり。小さな揺れが長く続き不気味だったので、机の下に潜れ、と小学生に命じると、慌てたひとりは頭をぶつけてその衝撃で机の上のものが床に転げ落ちた。直後にかなり大きな揺れが来たのだった。震度4だったという。

 9月22日(月)

 車の暖房を入れて笑われてしまったが、それほど急激に気温が下がっていた。最低気温が14,5度と言えば10月の中旬頃か。寒い、寒いと思わず口走っては おや? と自身首を傾げる。躯にはまだまだ不完全だった夏の記憶が残っているのだ。

 9月23日(火)

 近くのコンビニではレジ台の前にいろんな種類のおはぎが並べられていた。今日は秋分の日。この日が誕生日であるばかりに小さい頃はケーキになかなかありつけなかったという女子学生の話を思い出した。この日、洋菓子と和菓子の両方を売る地方のお店にはケーキが消えておはぎばかりが並ぶ。「今年も、売ってなかったよぁ。誕生おはぎでがまんしな」と母親の無情の声が聞こえる。いかにもありそうな話で、それはさぞ口惜しかったろう、と同情するが、相手が彼岸の中日では勝てない。死も誕生も所詮同じことか、と。
  食べてみたいなぁと思いながらコンビニから戻ると、朝からなにやら忙しげだった配偶者はおはぎづくりにいそしんでいるのだった。できたてを何個かほおばってから、仕事に出かけた。

 9月26日(金)

 夜明け前、北海道でM8.0の大地震が発生。9時頃に起きてテレビのニュースで知った。発生時のビデオや被害の映像を見るにつけ、大地の鳴動のすさまじさを思う。時間が少しずれていれば大惨事となっていたことだろう。身の毛がよだつ。「偶然」に助けられて生きていると、これは地上の生活のあやうさに通じる。「2003年(平成15年)十勝沖地震」と命名されたらしい。

 9月29日(月)

 深夜から未明にかけて強風が吹いた。東よりから北よりに変わっていった。台風の影響と思われるが、心なしか冷たい風に「木枯らし」を想った。9月もあと一日で終わる。としても、気の早い連想であった。    


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