日  録  銀の涙を  

 2004年1月3日(土)

 穏やかな日和の、正月3日目である。
 昨2日は渋滞にはまって、高速道路上に計14時間もいることになった。朝10時に出て、着いたのは日付が変わった午前1時だった。それでもさほどの疲れはない。大晦日から元日にかけて鎮守の手伝いをしながら「若い者にはまかせられん」と30数年前は働き盛りでいまも面影の残る故老たちに指図を受け、またたしなめられながら、自分が今年いくつになるのかを忘れ果てた。そのせいで若返ったとでもいうのか。昼前に起きて雑煮を食べたあと、古本屋を2軒廻り歩いた。これという収穫はなかったが、一軒は外観は今風でも品揃えは昔ながらの風情を感じさせて楽しかった。明るくはない店内で手にとってぱらぱらと捲ると紙魚の浮いたページからも昔の匂いがした。もう一軒はスーパーの3階のほとんど全部を使った「BOOK OFF」というお店で、ここは整頓されすぎているうえに何やら喧しくて、早々に退散したくなった。若返るというのも楽ではあるまい。

 1月5日(月)

  昨年に続いて一通も年賀状を書かなかった。ことしは去年の半分くらいしか来なかったが、返信代わりにパソコンを通じて新年のお祝いを書いた。メールの通じない人へはこれから葉書を買い求めて書かねばならない。数年前までは、どんなに忙しく、面倒に思っても、暮れの一日を賀状書きに費やしたものであった。それがここ2,3年は、喪中続きのせいもあるが、平気にやり過ごして新年を迎えるようになった。いただいた方には怠惰の誹りを受けて当然の体たらくである。ことは年賀状のみにあらず、ことしはシャキッとしよう、と反省す。

 1月10日(土)

 急かされるようにして大通りに出ると中央付近にコンクリートの台がこんもりと鎮座していて確かに路面電車の停留場らしいのである。はじめはほとんどいなかったのに数秒のうちに人がわんさと溢れ出ている。遙か向こうに都会(新宿のような)の賑わいさえ見通すことができる。人波を縫って停留所にたどり着くと連れ立って出たはずの女性が消えていた。似た人は何人かいるがみな別人である。 いい人にめぐり逢えた、と心地よい温もりを感じてついさっきその人の家から出てきたのだった。ストーリー性のある夢を久々に見た。醒めてから、地底めぐりの果ての甲賀三郎の述懐〈恋しい人にはついに逢わざりき〉という言葉を思い出していた。夢の中で女性は消えて、顔形も金輪際思い出せないが、目覚めは悪くなかった。むしろいい夢を見たと思った。この歳で期待したわけではないが、誰も祝ってくれなかった誕生日の唯一の贈り物だったのだろうか。
『すばる』2月号の「森敦との対話」(森富子)を興味津々のうちに読了。

 1月14日(水)

 ここ2,3日、“日本列島大荒れ”というも当地は日溜まりがあたたかいほどであった。夜はさすがに冷えて、躯が凍り付いたようで身震いも起こらない。これが真冬の有り様か、と納得する。

 1月17日(土)

 深夜近く小さな吹雪の中を走ってきた。フロントガラスめがけて水平にぶつかってくる。時にふわりと舞い上がる。なぜとなく気がはしゃいだ。子供の頃に戻るような心地になるせいだろうか。団地まわりの歩道や空き地に白いかたまりを見つけて、いよいよ明日の朝が楽しみ、とほくそ笑んで家の中に入った。十数分後「降っていた?」と聞かれ「すごいものだよ。吹雪だ」と答えた。半信半疑の配偶者はカーテンを開ける。窓越しに目を凝らして「ウソつき!」と一言。日付が変わってTVの天気予報は「今日は、曇りのち晴れ」と無情に告げる。明日が試験の受験生には雪なぞ降らない方がいいに決まっているが、さっきの吹雪がまるで“まぼろし”だったかのような落胆があるのも事実であった。

 1月20日(火)

 風邪が流行っている。学校を早退してきた、微熱が治まらない、などと欠席の連絡が次々と届く。空気も乾き切っているようだ。

 1月22日(木)

 出勤途上、すぐ前に入りこんできた高級乗用車がその前のワゴン車に異常に接近しているように思えた。こちらは車間距離を十分に取ってしばし観察を決めこんだ。煽っているのか、という懸念もあったからである。そうならば、粋がった若者の無謀運転、いっそ痛い目に遭えばいい、と呪っていた。家を出て30キロ近くいつもの道をノンストップで走ってきた身は退屈の極みに達している。ラジオは国会中継である。ひとつの質問の最後にきまって「総理の御所見を伺いたい」と付け加えるのが何とも耳障りであった。御所見? おきやがれ、という気持ちである。質問も答弁も内容は空疎そのもの、聞くに堪えないが、切るに切れない。そのうち信号で高級乗用車に追いつくと、まず運転者が振り返って笑いかける。つぎに助手席の女性が手を振る。二人の顔はよく見えない。知り合いには違いないと思って、頭を下げたが、車に見覚えもない、はて誰だろう? 国会中継どころではなくなった。こんどはぴったり付いて数キロ走ったところで正体が分かった。
 夕方から急に冷え込んだ。風も強かった。帰り道では、大寒波を実感した。

 1月26日(月)

 20年ほど前まではずっと80軒だったのにいまや60軒となってしまった、今年の新入生は2人だけで廃校が日程に上っている、などと正月にふるさとで聞きかじってきたことがときおり脳裏を掠める。過疎が進めば今年兄が務める「一年神主」の稀有な習俗も20年、30年後には廃れてしまうかも知れない。が、いまはまだまだ、しきたりは継承され鎮守を崇める心性も随所に健在であった。徹底して原形を守っていると思われるこの制度、修業期間の五年、神主の一年をあわせた六年間を密着して映像に残しておきたいほどであるが、元気な故老たちにまじって、ふるさとを離れた頃はほんの小さな子供だった40歳前後の男衆が数人懸命に手伝ってくれていた。2日も一緒にいれば、名乗りあわなくともこれは誰の子、どこそこの家の子と記憶が甦ってきたり顔付きで見当がついたりする。すべての男衆がその親、またその親と辿っていけばきっとどこかで血が交叉しているはずだと思えてしまうから不思議である。地縁と血縁が一緒くたで、都会生活にはない、これは感動みたいなものであった。

 1月31日(土)

 1月も今日で終わりである。小学6年生数名が明日の入学試験を前に最後の調整をしたいというので昼過ぎから夜7時頃まで付き合っていた。けっして易しくはない問題に真剣に立ち向かっている。軽口もほとんど飛び出さず、こちらの提示するメニューを黙々とこなす。その集中力たるや十一歳そこそこの子供のものとは思えない。
  眺めながら、そういえばみな、二、三年前は自分からはほとんど話さない、無口でシャイな子だったなぁ、とつい感慨に耽っていた。ここまで成長したのならばもう得点なんか問題じゃないという気にさえなった。
  ところが、最後のレッスンをする頃にひとりが涙ぐんでいるのを見てしまったのである。もちろん気にはなったが、気付いていない振りをしながらレッスンを続けた。かすれ声だが受け答えはしっかりしている。緊張と不安が昂まってつい泣けてきたというところだろうかと推測した。涙はいったん止まったようだったが、目に潤みを残したまま片づけを終えいざ退出の段になって再び溢れ出てきた。
  いざ荒海へ、という思いもあるにちがいない。やはり合格しなければ報われまい。十二の春に銀の涙を、と強く願った。                                


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