日  録 時の蜃気楼    


 2004年2月1日(日)

 冬の夜食卓に煮魚が出るときまってあの味を思い出す。だし汁が寒天状に凍ったもので、口の中でとろけていくような、何とも優しい味がした。翌日には、自然に、つまり偶然に凍っていた印象があったので、何度かねだったことがあった。しかし、田舎の時のようにはできなかった。つまり、それを煮こごりというと知ってからは一度も口にしていないのである。余計になつかしく感じる理由だが、久しくその話題を出さなくなっているのもまた事実で、諦めたわけではないが、目下のところは“まぼろしの味”である。

 2月3日(火)

 1日、2日と2回不合格となった私立中学校の第3回目(最後)の入学試験を11歳になったばかりの小学6年生が受けることになった。これはなんとも凄いパワーではないか。もうひとたびの挑戦を勧めるひとりのくせに、もしその少女の立場ならば、やはり2回が限度だろうと思うのだった。こちらが俗にいう「けつをまくる」ところを少女はその学校に行きたい一心であえて難行に立ち向かおうとしている。けなげである。
 試験場に入る前に“激励”しない法はないと夜半近くになって思いついた。5時に家を出て、40キロほど先の学校に着いたのは7時前である。正門で待つこと40分、母親に連れられてやって来た。握手をするこちらの方が、今夕には発表される未知の結果を忖度して緊張していった。いつになくあたたかい朝なのに顔がこわばっているのがわかる。受験生の方が、屈託もなく、よほど元気であった。「じゃぁね、行って来るよ」と手を振りながら会場に向かっていった。
 大切な「勉強」をさせてもらったのはこちらの方ではないのかと思った。

 2月9日(月)
 
 一昨日、そろそろ欲しいと思う頃に、ほぼ1ヵ月ぶりの休みがとれた。こたびは躯よりも心が疲れている、と思ったものだが、心も躯もあるものか、もともとは精神の問題である、といまなら考えられる。心を鼓舞する何かがあれば、なまじの疲れなどは吹っ飛んで行くにちがいない。

 2月10日(火)

 東京へ遊びに行った小学生が帰り道にふらりと訪れ“味付き卵”をひとつ置いていってくれた。2個入りパックから取り出して「ひとつはお母さんのお土産」と言う。早速剥いて食べると、ちょっとしょっぱいような味がする。確かに味付きだ。こんな東京みやげもあったのか、と感嘆する。

 2月12日(木)

 昨日に続いて日中はあたたかい日和だった。出勤途上、踏切りの手前にあるコンビニに立ち寄って、煙草などを買う。外に出るといつもはレジにいるオーナー店長らしき婦人がゴミ袋を片づけている。ふと思いついて、捨てさせてください、と言うと「ええ、どうぞ」か細い声で袋の口を差し向けてくれた。30代前半と思しきこの婦人は元来が無口な性格である。色白で、品がある。“コンビニのおかみ”には不似合いではと忖度していた。お店のなかで度々見かけるその母親(二人の話っぷりから推察)の方は、恰幅もよくて、いかにもと思わせる。もちろんこんな井戸端評定は余計なお世話の類にちがいないが、ともあれ車の中はすっきりしたのであった。

 2月14日(土)

 春一番も、宵の口からの春雨も知らずにずっとパソコンの前に坐っていた。職場のそのパソコンの調子がこのところよろしくないのである。
 はじめの3.4時間は順調に動いてくれたが、夜7時を過ぎてからは不正処理云々と強制終了のマークが出るようになった。緊急の仕事ゆえ再起動しては作業を続けた。騙し、騙し使っていたと言うべきかも知れない。あらかた終わって細かいところを直す段になると、ほとんど十数秒おきにそのマークが出るようになったからである。こちらにも知恵がついて小刻みに保存するようにしていたが、それでも間に合わないことが多かった。なにしろ、突然現れるのである。口惜しい、今度こそ、とまた同じ作業に取りかかる。匙を投げる気にはならない。何度も同じ過ちを繰り返した。そのうち、麓から山頂へその都度転がり落ちる石を運び上げ続けるシジフォスの気持ちもかくやと思えてきた。
 10時を過ぎると『強制終了−閉じる』が数秒おきに出るようになってついに直人に電話をした。明日解決のための秘策をひっさげて参上してくれるという。ここで、諦め、いや踏ん切りがやっとついて電源を切った。シジフォスにならずに済むか、と思った。

 2月16日(月)

 昨夜は職場からは15キロ離れた川越まで車を飛ばし、閉店間際のPC専門店に駆け込んだ。あれこれ試みたすえに、マザーボードが壊れている、という診断が下ったからである。もちろん直人も一緒だった。大急ぎで戻って付け替えたが、うんともすんとも言わない。「CPU、おまえもか」と直人は呟いた。これは今日に持ち越しとなり、夜にやってきて作業を続けてくれた。その結果PCは“動き”を取り戻したが、いまひとつ問題が発生して、これは明日の課題となってしまった。しかもこんどはひとりでやらねばならない。気が重いことではある。
 それにしても3日かがりの憂鬱、これがないとすべての仕事がストップするとは、何とも厄介な世の中になったものである。

 2月17日(火)

 上唇が荒れて、しきりに乾き、鼻水が出る。今冬はじめて風邪に見舞われたようである。パソコンの故障に“送迎窶れ”が加わったせいであるか。とはいえ、いまだ葛根湯も飲まず、寝込むには到らない。
 10時には開いているだろうと見当をつけて一昨夜のPC専門店に急いだのに、11時開店という。朝一番の躓きだった。逸る気持ちを抑えながら30分以上を無為に過ごす。シャッターが上がると同時に駆け込んで目当てのソフトを探した。棚にはない。訊けば店員は手元のパソコンで検索をはじめた。その間キョロキョロしているとレジの奥の棚に収まっているではないか。「あれ、あれ、あれです」と叫んだ。目の前に差し出されたものは、他のソフトと抱き合わせた商品だった。値段も倍近くになる。もうひとつは必要ないので、「切り離せないの?」と言うと店員は苦笑している。そんなことができるもんか、という顔である。これがないと午後期限の仕事がこなせない当方には買うしかなかったのである。
 ソフトが再び動くようになったパソコンは、いままでよりもはるかに快適であった。

 2月19日(木)

 バファリン2錠をベストのポケットに忍ばせて出勤したが、あたふたと過ごすうちに頭痛は消えた。鼻水は相変わらず出て、奥に詰まるようになった。気が付けば、口をぽかんと開けたままにしている。まるで、豆鉄砲を喰らった鳩である。いや、こころの内は烏に近いか。深夜、もっとも若き友より早く治してくださいとのメールが届く。
 PC問題はインターネットにも無事接続できて、昨日実に4日ぶりに解決した。何回やってもつながらなかったのは、接続先の電話番号が間違っていたというオチがついた。ひとり奮闘した直人も苦笑していた。

 2月23日(月)

 昨夜は遅くなってから雨が降り、風が吹いた。心ざわめく春の嵐も、しかし長くは続かずいっときの夢のようであった。
 二連休の二日目の今日は、うららかな天候に誘われて都幾川・慈光寺までドライブした。あてどもなく出発して、越生を抜けたあたりで行き先が決まった。中腹に車を停めて、200段もあろうかという急な(傾斜50度ほどの)階段を登った。途中2,3回息切れがして休まねばならなかった。二十数年前にはこんなことはなかった。連れて行った生徒達と競うように走り登った記憶が甦ってくる。
 辿り着いた山頂の観音堂にお参りして、唯一開けた東の方角を見渡すと、さいたま新都心の高層ビル群が真っ青な空に突き刺さるようである。蜃気楼みたいだと呟いたのは、やはり階段をハァハァ言いながら登っていた配偶者であった。
 こちらは寝不足、われは日頃の不摂生、とついさっき階段上で休みながら確認し合ったこともまた“時の蜃気楼”みたいに思える一瞬であった。

 2月27日(金)

 昨26日は県立高校の入学試験が行われた。かねての手筈通り、4人の生徒が受験する東松山市にある高校に応援にでかけた。正門に立って出迎え、少し話して、握手をして会場に送り出すというシナリオだった。
 7時すぎに到着、集合時刻の8時45分にはまだ時間があった。中に入り込んで校庭をぶらぶら散策していた。すると、100メートルほど先で校舎を背に「おはようございます」と大きな声で挨拶する先生がいるではないか。誘われるように近づいて事情を話すと「まだまだ(受験生は)やってきませんので、どうぞお入り下さい」と校長室に招かれた。お茶までご馳走になって気が付くと8時を過ぎている。40分間も聞き入っていたのだった。戻ってみれば、正門脇の体育館には、かなりの数の受験生がすでに集まっている。わが生徒らはまだ来ていないことを祈りながら正門に立った。体育館からマイクの声が聞こえはじめて、ついにシナリオが崩れた。校長に面会に来たわけではないのにと長話を悔やんだ。が、ここで諦めるわけにはいかない。
 体育館から出て試験会場の各教室に移動するときがいまひとつのチャンスではないか。いずれも神妙な顔付きの受験生の列に進み出て、さすがにキットカットは憚られるが、同行の女子学生が持ってきた星マークのついた鉛筆を手渡すくらいは許されるだろう。
 居合わせた用務員に訊くと「横の扉が開いてあの渡り廊下を通ります」と一番いい場所を指差して教えてくれる。先導役の先生に了解を取り付けるとすぐに4人の生徒が出てきた。連れが“駆け込み訴え”よろしく走り寄る。生徒らは、緊張の面持ちだが笑みも洩れた。こちらは少し離れたところから「がんばれ」と声を掛け、手を振った。
 今日、あの話し好きな校長先生に電話をした。自己採点も終わっているので、お礼にかこつけて合格の可能性を探りたかった。そんなことは無理に決まっているが、相変わらず元気な大声は受話器をはみ出して聞こえてきた。昨日の朝の顛末はもちろん言わなかった。言えば、恨み節になるからだ。

 2月28日(土)

 仙台への旅から戻ってきた学生が笹かまぼこをお土産に置いていってくれた。実は事前にリクエストしておいたのだが、彼女はそれを覚えていて律義にも買ってきてくれたというわけである。これは格別に旨い。何がこんなに旨いのだろうと思いながらいくつか食べた。“無味の味”とでも言えばいいのか。
 網野善彦氏が亡くなった。『無縁・公界・楽』以来いくつかの本を読んで触発されることも多かった身には案外とお歳だったんだという思いと、学者としては早すぎるのではという悔しさが交錯した。大学で日本史を専攻している笹かまぼこの学生に、お礼を兼ねて左記のような感想を送った。

 2月29日(日)

 四年に一度の閏日が休日となったが、半ば居眠りしながら過ごした。その名の通り余分な一日を生きたという感じで忸怩たる思いはある。
 この日録をはじめて丸三年となった。日数で言えば、今日を入れて1096日である。そのうち何日分の記録が記されているのか数えてみたい誘惑を覚えた。しかし、はじめの2ヵ月ばかりを調べたところで、止めた。貴重なこの日に、韜晦を重ねることもあるまい、と。               
             


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