日  録 キイロ、逝く。


 2004年3月3日(水)

 夜半から雪との予報が出ていたので気を昂ぶらせていたが、ついに降らざりき、であった。この日は、桃の節句である、白い雪はさぞ似合ったことだろうといまだに無念である。『詩の雑誌 midnight press』第23号が到着。このほど中原中也賞を受賞した久谷雉氏のインタビュー記事を真っ先に読んだ。日芸の一年生、一九歳というから、いま話題の芥川賞のことも頭に浮かんだ。また「1月1日午前0時0分00秒をねらったが01秒ずれてしまった」という掲示板への彼の投稿記事を覚えている。こういう偏執さは好ましい。「蹴りたい背中」よりも先に、この幸運な第一詩集を読んでみたいと思った。

 3月5日(金)

 たった一時間少々の移動中になつかしい女性二人と偶然逢った。ひとりは、合格発表を見た帰り、母校であるその女子高校を訪ねてきたところで際会した。桜並木の正門の前で、渡りに船とばかりに、差し迫った連絡に携帯電話を貸してもらった。もうひとりは渋滞の対向車線でみつけた。こちらは一児の母親で、その子はこの春中学受験をしている。窓越しに、短い挨拶を交わし、結果を問うた。「M学院(自身の母校)に受かりましたよ!」朗らかな声が響いた。車が動き始めてそれっきりとなるが、十分満足した。二人の共通点は、ともに教え子であることだった。こんなこともあるのだ、と気のはしゃぐ一日となった。

 3月7日(日)

 広島風お好み焼きを食する機会があった。“教則本”を見ながら自分で焼くのだった。生地をうすく引いて、その上にキャベツ、もやし、肉をのせ、その肉の上に残りの生地をかけ、思いっきりよくひっくり返す。ここまでが行程の半分。これを別に味付けを施した焼きそばのうえに乗せ、さらに固まりかけた卵のうえに乗せ、と実に8段階にもわたるのであった。
 作る愉しさも味わえたが、食べて見れば、30数年前の味や形が思い出されるようであった。昼の顔・本通りと夜の流川に挟まれた吹き溜まりのような町・新天地には「お好み焼き村」と称する二階建ての建物があった。階段がぎしぎしと鳴るほど古ぼけた木造建築だった。その中に何十軒ものお店が犇めいていた。
  酒を飲んでそろそろ帰る頃にお腹も空いて、「おかみ、焼いてよ」と言えば素早い手付きでこさえてくれた。逆スローモーションでもまわしてみればたしかに今夜のような8つほどの行程が思い浮かぶのである。

 3月8日(月)

 深夜近くになって、あっと気付いた。そういえば一週間前、感熱式の用紙を逆に入れていたために白紙のまま出てきたFAXがあったのである。そうか、あれが。催促の電話中は思い出しもしなかった。床に散らかっていないかと探し回ったが見当たらず、突然舞い込むPR用文書と一緒に捨ててしまったのかも知れない。そういう習慣があるのだ。
 届かなかった原因をあまり深く考えなかったのに、突然白紙の紙が出てきたときの情景が思い出されたのだった。探偵ならば小躍りして喜ぶところだろうが、相手にもう一度送ってくれるように頼んだ当方には冷や汗ものの発見となる。

 3月12日(金)

 急いで作らなければならないモノがいささか建て込んで気持ちが休まらない。そういうモノのひとつ、パソコン相手の作業は神経衰弱そのものである。もっと余裕を持って、愉しみながらやればいいのに、と思うもそうはいかない。一刻も早く終わらせたいと思うのはつくづく損な性分だ。考えてみれば、ずっと若い頃から、せっかちで、あわてん坊だった。これは一生治るまい。
 いつかの日、かつての教え子がやってきて 「私、28よ」と話しているのを傍で聞いて、はっとした。今日は、10日が誕生日だったというアメリカに留学中の女性から返信メールがあって「32歳ですよ、想像できます?」とある。これにもびっくり。い つまでも彼女らは「生徒」で歳なんか取らないと思っていた節がある。その裏には、自分もずっと若い気持ちでいたいなぞという不埒なこころが隠されていたりする。うーん、まだまだ、と思いたいが。

 3月15日(月)

 〈海自「おやすみ」〉と読んで、おおイラク行きを中止したのかと勘違いした。春宵一刻値千金などというが、春の夢はおぼろである。すんでのところで、車とぶつかりそうになった。これは深夜の出来事であった。

 3月17日(水)

 今夜こそ一哉さんの家に寄って届け物をポストに入れてこようかと考えながら車を走らせていると、不意に一句浮かんできた。一哉さんから“宅俳便”が来なくなって久しいのである。
「うららかさ」か「はるあらし(春嵐)」かで一丁前に悩んだが、
《身に覚え ありやなしやの うららかさ》
と、届け物の裏に書いた。門灯はすでに消され、二階の彼の仕事部屋も真っ暗であった。どんなモノでしょうか、いっさいさん。

 3月21日(日)

 車の中に2本の傘を発見した。ひとつは、ふとぶとしい黒い傘、もう一本は無地のベージュで細くて上品な傘である。はて、誰のモノかと首を捻った。昨日は、午後3時から午前3時までの12時間にのべ8人の人がこの小さな、黄色いDEMIOに乗った。
 季節はずれの牡丹雪が止んで雨に変わる頃、『進学祝賀会』に使う器材を運ぶために板橋に向けて出発。このときはナビ役を頼んだ女子学生とカンボジアから戻ったばかりの新人が乗っていた。
 祝賀会が終わって、4月から社会人となる新人、直人、洋平らの『壮行会』に参加するため、志木に戻るときはふたりが同乗していた。右折すべき交叉点をひとつ間違えたためにあらかじめ用意しておいた地図には載っていない場所に迷い込んだ。責任感の強いナビ役を困らせることとなったが、案内板を頼りに闇雲に走っていると、目白通りに出た。ここは見覚えがある。そのまま北上して関越に入り、予定よりも早く戻ってくることができた。
その間、もうひとりの女子学生は後部座席で熟睡していた。
 30数名が集まった壮行会は午前1時ごろまで続いた。いまや30歳前後になる、かつての教え子らにもそれぞれ新しい出立があることを知らされ、こちらにもがんばれよーと声を掛けたい気持ちだった。一期一会、こうやって逢えることは、かけがえのないことだと神妙になる。それだけ歳をとったということか。囃したてられることも嬉しく、つい調子に乗って盆踊りのような手振りで踊り出していた10数年前とは大ちがいである。とはいえ、楽しいことには変わりなく、上々の気分で、 2次会をパスした4人(男女各2人)を乗せて帰途についた。  
 2本の傘は、以上の人のうちの誰かが忘れたものに、まちがいない。感傷の虫がうごめいて、宴のあとの残り香を嗅ぐような面持ちで座席の下に悄然と佇む傘々の姿にしばし眺め入った。
 すると持ち主はわざと残してくれたか。いやいや、そんなバカなことは……。

 3月23日(火)

 一昨日、昨日よりは気温が高かったようだ。曇りがちとはいえ雨も降らなかった。昼過ぎに起きて、降って湧いたようなこの休日を、つくづくありがたいと感じた。昨日あたりから、起居の際に太腿の筋肉が痛むようになった。今日もまだ改善の兆しはない。一昨日の祝賀会で立ちっ放しのうえに、よく歩き回ったせいだが、丸一日遅れで痛みがやってきて、2日にも3日にもわたる。躯は、世間で言われている通り歳相応の反応をするのである。そんな話を若い者らの前で零しているとそのうちのひとりが、
「ありますよ、その経験。痛い痛いと言う友達のことを笑っていたら、数時間後には自分にもやってきて、みなの顰蹙を買いました」
 歳の差を「時間や日数」に換算すれば、こんな風になるという見本かと思った。

 3月24日(水)

 帰宅するとキイロ(インコ)が死んでいた。つい一時間ほど前に掌の中で息絶えたという。足が変形した1年ほど前、もうダメかと思うほど元気がなかったが数日で回復(ほとんど自力で)して最近はわが家の中で一番元気だった。それだけに唐突だった。13年と5ヵ月生きたことになる。
 水の音に敏感だった。台所で水を使いはじめるとチッチチッチと鳴いた。お風呂に入っていると、一段と大きな鳴き声が聞こえた。水浴びはへたくそだったが、水はきっと好きだったのだろう。明日からは、水を取り替える“仕事”がなくなってしまう。天国に行けよ。

 3月26日(金)

 予定よりも早くやってきた印刷会社の人をまじえて新聞折り込みチラシの原稿を作成する。昼過ぎからはじめて午後8時には終了。帰り道では月齢5ないし6の月が西の空にくっきりと見えた。キイロの不在は後を引く。タオルにくるまれた亡骸を籐かごの中に入れて、居間のテーブルの上に“安置”しているが、そろそろ埋葬しなければなるまい。

 3月28日(日)

 花なんてと思うときがないわけではないが、公園から路上にはみ出した満開の桜花を見てやはりどきっとした。毎年のこととはいえ、このおののきは何だろう。夜桜と星空を見上げながらのんびりとしてみたいと柄にもないことを思った。朝、紫陽花の木の根元に掘り返されたりしないように深い穴を掘ってキイロを埋めた。配偶者は、となりに咲き揃っている赤や紫のパンジーを切り取って盛り土の上に散りばめていた。

 3月31日(水)

 昼休みに、私大の大学院に在籍しているP君とふたりっきりになって少しばかり私的な会話を交わした。
「父はいま51歳ですが、テレビに映っている人を指差して、どっちが若く見える? としょっちゅう聞いてきますよ」と言うではないか。
 このP君というのは二十歳そこらの学生と自分とを比べて、「どっちが若く見える?」と傍にいる誰彼に(子供大人の区別なく)聞くことで目下有名な男なのである。現場に居合わせたことはないが、漏れ聞いて余計、25歳のくせに若ぶっていやがる、歳相応の成長が見られない、などと批判的に眺めていたのである。まるで、わたしきれい? と聞いているもののように思えたのである。今日期せずしてその質問のルーツにぶつかった。
 そうか、父親の口まねだったか。しかしこれは声に出さず、
「(お父さんは)ぼくより随分若いなぁ」
 と言うと、
「え! 父よりもうんと若く見えますよ。40代だと思っていましたよ」
 お世辞や社交辞令が言えるような男ではないのだが、
「貫禄がないと言いたいのだろう」
 とまぜっかえしてやった。
「それぐらいになれば、若く見られた方がいいじゃないですか」
「うん、それはそうだ」
 父君とどっちが若く見える? そんな質問をしてしまったような、術中にはまったような気分だった。P君は魔力を秘めた、不思議な男だ。
 


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