日  録 烏と雀の闘い  

 2004年5月2日(日)

 今日こそは出勤だったものの、きのうに続いて明日からは3日連続の休暇となる。いわゆる“飛び石連休”、といってもこの言葉、いまや死語になった感がある。就活中の女子大生から「私はここで充電します。……どうか有意義なGWをお過ごし下さい」と逆に励まされ(?)て、さて何をするか。当方も倣って、体力補強ののち想を練るか、などと思う。

 5月6日(木)

 訖んぬ、という言葉・漢字が引っかかっていた。この3連休があっという間に終わった、ヒゲがやたら伸びた、との実感に促されたのである。それ以外の意図はなかったが、字画の美しさは、格別と思う。インターネットで検索したら中国語サイトがいっぱい出てきた。“現役”として使われているのだろう。
 ついでに仏典から用例をひとつ探し出した。
『凡そ一切有心の衆生は命宝を惜しむを以ての故に、諸の苦を生ず。既に命宝を以て妙法蓮華経の仏に帰奉し訖んぬ、更に楽のこれに過ぐるなし。』 

 5月7日(金)

 小指の第二関節、両手のほとんど同じ場所に水ぶくれができた。きのう千枚の紙の束を70数個ビニール紐で縛ったとき、摩擦熱でやけどをしたようだ。当座は“あぁ、ちょっと熱いな”という程度だったが、丸一日経って隠微な痛みが襲ってきた。小指でありながら、色気も何もないのが癪である。

 5月9日(日)

 車の6ヵ月点検にディーラーを訪ねると「1年半で4万キロとは、何とも多いですね」と言われた。
「なんででしょうか」
「こっちも知りたいですね。この前預かった12月からでも、一万を越えています。遠出しました?」
「田舎へ帰ったけど、これは往復千キロくらいのもので……」
 技術畑の社員が一日50キロ、2日で100キロ、一ヵ月で○○キロと指を折りながら数えてくれる。それでも、万には届かない。不思議だが、現実は現実、日常の足として使って、これだけの走行距離、である。われながら驚いた一幕であった。それでも、帰りがけには「キレイに使ってもらっているようで、ありがとうございます」と言われた。
 終日、雨。ことしはまだ、春雷を聞いていない。

 5月11日(火)

 暑い一日だった。都心や熊谷でははじめての真夏日、年々この記録が早くなっているそうである。今日はフェーン現象のせいと報じられていた。それにしても、いきなり夏とは風情がなさすぎる。“若葉の瑞々しい春”なんてものは山里にでも行かないと体感できなくなったのだろうか。
 夜になってもなま暖かい風が吹いて躯も怠く感じられたが、帰り道で立ち寄ったコンビニではおでん・あんまん・肉まんがまだ売られていた。車内の冷房を利かせて、あったかいものを頬張るなんぞは、よほどの天の邪鬼の所業かと思いつつも、誘惑に負ける。

 5月12日(水)

 この4月に入ったばかりの大学を「イメージと違った。やめたい」と言っているので何とか説得してくれないか、という電話がその母親からあった。どうしても行きたいと指定校推薦をとるためにがんばっていた姿を間近に見ていただけにちょっと衝撃的な電話だった。母親はもっとびっくりしているのだろう。「単なる5月病というのでもないのですよ。合わないの一点張りで、やめたい……と」
 母親の希望通り「説得」を新人に託しているが、我を張ることもない、素直な生徒だったから余計、この一ヵ月の間に何があったのか、心の軌跡を訊いてみたいと思う。

 5月15日(土)

 ウイルスとの長きに渡った戦いがやっと終息したのかも知れない。なんの根拠もなくいじり回していたら、最後のスキャンで「脅威は見つかりませんでした」と出たのだ。それまでは、何回やっても「削除できないウイルス」が残り「脅威は去ったわけではありません」とのメッセージが出ていたのである。駆除ツールを使ってみても、当該ウイルスは消えたもののまた新たなウイルスが現れた。
 そこで、ウインドゥズSP4(パッチファイルというらしい)をインストールして、再起動を繰り返したり、セーフモードでスキャンをしたり、拙い知識と想像力であれこれ試みたらいつの間にかこんな結果になった。にわかには信じられない気分だが、結果から言えば、昨日から今日にかけてやったのべ7時間にもなる作業にはそれなりの意義(論理的根拠!)があったのだろう。詳しい栄人にでも検証してもらいたい、ついでに褒めてもらえれば嬉しいのだ、とど素人は考える。
 その作業の合間に卒業生が3人訪ねてきた。はじめのひとりは、1年前に貸した算数のテキストを返しに来たのである。就職試験に出題されることがあるので勉強し直す、ということだった。こちらも貸したことを忘れていた。「で、役に立ったかね」と訊けば「ええ。この4月から富士フイルムの子会社に勤めています。3月になってやっと決まったんです」という。女子学生にとっては特に厳しい就職戦線だったろうと推測されるが、これも結果はよし、ということか。
 続いて現れたふたりは13年前の卒業生だった。ともに社会に出て満6年、結婚して3年目、30の少し手前という歳だった。ひとりが生まれたばかりの赤ん坊の写真を見せてくれ、もう一人が携帯で“記念写真”を撮ろうと言ってくれた。その写真は、3人が収まるようにと真ん中の小生が片手を伸ばしてシャッターを切った。携帯を横向きにしなければならなかったので、パソコンに送ってもらった写真も横向きだった。
 本当は休日だったが出てよかった。こういう日もある。だから時間は侮れない。

 5月17日(月)

 ドメスティックな用事のために定刻よりも30分ほど遅れて到着すると顔見知りのビルメンテナンス会社の人と消防署員二人が待ち構えていた。シャッターはすでに開いている。「お留守でしたが勝手に消防施設を点検させてもらいました」と言う。「何か不都合はありましたか」と訊くと「いえ、大丈夫でした」と明快な答え。通りに面した入り口で消防署員から二、三質問を受けた。一日平均何人の人が中にいるか、を知りたいようだった。曜日によってもちがううえに、出たり入ったりだから数えづらかったが、少しサバを読んで答えておいた。
 それからしばらくすると理想のM氏がやってきた。「30分前に一度来てくれたんでしょ?」と訊けば「シャッターが閉まっていたので他の用事を先に済ませてきました」とこちらをかばうような口振りである。約束があったわけではないが、律義なこの人はきっと始まりの時刻に訪ねてくれたのだと思った。図星であった。
 パソコン修復にまつわる自慢めいた話をここぞとばかりに聞いてもらった。修復前にはあったプリンタドライバを今度持ってきてもらうようにも依頼。最後にプリンタを掃除してくれるという。床に直接置いた小さな鞄の中からプリンタの汚れを取るためのキッズを次々と取り出すので目を瞠った。「なんでも入っているんですね」と言うとM氏は苦笑していた。そのうちのひとつ、アルコールを染みこませた布は、あったらいいなぁと思った。すると帰りがけに、他の物にも使えますから、と3袋置いていってくれた。よほど物欲しげだったのかも知れない。

 5月20日(木)

 北上中の台風2号のせいで雨が降り続いている。気温もかなり低い。いま、午前2時を過ぎたところで、風の音はまだ聞こえないが、やがてひと荒れ来るのだろうか。耳を澄ませば、その予兆は確かに感じられる。
『捜神記』から何話かを読みながら眠り込む癖がついて、そのせいかここ数日奇妙な夢を見る。支離滅裂な(あるいは、肝心なところを忘れてしまう)ために、詳細をここに書き留められないのは残念だが、はてはてと首を傾げたくなるほど非現実的である。夢だから当たり前と言ってしまうと身も蓋もないのだが、もうちょっと“地に足の付いた夢”を見たいと思うのである。せめて夢くらいは。それでいて、怪奇話は手放せない。これは、倒錯だろうか。

 5月22日(土)

 どのチャンネルも『報道特別番組』を流していた。中継が多かったのに、どこを見るかで大いに迷った。帰国前の記者会見で小泉首相は、金正日に「○○を強く言った」「××を強く主張した」と何度も繰り返していたが、ほんと? という気になった。内弁慶よろしくそういう威勢のいい人間は身近にいっぱいいる。度が過ぎればはったり屋などと呼ばれる。もちろん自戒を込めて言っているのだが、信じてもらえない彼も、身から出たサビとはいえ、気の毒なものだ。
 あるチャンネルではよく顔を見かける平沢という議員が「(訪朝の成果がなかったなどと)あんまり批判しないほうがいい。そうでないと、“こんなこと”やる政治家いなくなりますよ。現に今まで誰もやらなかったことですからね」とコメントしていた。かなり本音に近いし一理なきにしもあらずだが、政治家の志も言葉も、実に空々しいと改めて思わせられた。イラクの人質事件の時もそうだった。
 配偶者の同僚の夫が書いたという本『中国株必勝術』をWEBで注文する。便乗する形でかねて読みたかった『ららら科學の子』も。ジャンルは違うが、ともに中国モノとは、不思議な暗合である。届くのは1、2週間後だろうが、二つともが楽しみになっている。

 5月24日(月)

 数日前に、ミカンの缶詰を冷蔵庫の中に発見。まだ“こんなもの”が売られているのかと思った。缶詰にまつわる特別な記憶が甦ってきたわけではないが、同時に、妙になつかしい感じがした。ミカンといえば正月前後に皮を剥きながら食べるものとこのところ相場が決まっていたのである。真夜中を過ぎた頃「食べるか?」と息子が訊くから「もちろんだ」と起き直って正座した。缶切りでフタを切り開き、小鉢に等分してくれた。スプーンで掬いながらもなおなつかしさは消えない。ラベルを見ると「愛媛産、果汁入り」とある。「生活クラブ」のプロデュース作品だった。
 掌が真っ黄色になった娘を東京女子医大病院に連れて行くと「柑皮症です。ミカンの食べ過ぎ」とこともなげに言われた20数年前のことがいま、細部の記憶とともに戻ってくる。

 5月25日(火)

 先日、フリーライターの道をめざします、と10数年前の卒業生が夜遅くなって訪ねてきた。訊けばいくつかの題材を温めている。そのための勉強もやっているという。まだ28歳、これからだ。このHPをはじめて覗いてやってきたと言ってくれた。ジャンルは違うし、人脈もないので、有効な力にはなれないが、少しくらいのアドバイスならできる。いまどき熱い心を持った若者だ、と感心した。

 5月27日(木)

 午後3時頃、水道道路を和光市と板橋区との境あたりまで来たとき一羽の烏が生きた雀を歩道のコンクリート上に組み敷いてくちばしでつついているのを目撃した。主に大型ダンプが往還する道路際でよく何年もやっているなぁと常々感心しているパン屋さんの前である。車を停めてしばし見入った。烏とは、こんな狩猟めいたこともするのか、と驚いた。
 烏を追っ払ってまだ羽根をバタバタさせていた雀を救出すべきだったろうか。それは、とり得た行動のひとつではあり、後悔がないわけではない。もしそうしていれば、小さな黄色い車は烏Aとその仲間たちに追いかけまわされる羽目に陥っていたかも知れない。気分としては、都会の烏とだって闘いたくない。うーん、生きるのは楽じゃないなぁ。

 5月30日(日)

 中学生が持っていたCDのタイトルを見ると『The 70’s』とある。おやおやと思いつつ、断りもなく手にとって眺め入った。「70年代に発表された洋楽ヒット曲をセレクトしたコンピレーション・アルバム!」との謳い文句である。
「お母さんにでも勧められたの?」
「自分で見つけましたよ」
「30年も前の曲だよ。たのしい?」
「知っているのもいくつか入っているし」
 収録されている曲目にざっと目を通すと「ダンシング・クイーン(アバ)」「ビューティフル・サンデー(ダニエル・ブー)「シェリーに口づけ(ミシェル・ポルナレフ)」「スタンド・バイ・ミー(ジョン・レノン)」などと当方もよく知っているものが並んでいた。曲名だけではわからなくても、聞けばおそらく40曲のほとんどは、ああこれなら、と思い出すにちがいない。
「そうか、こういうモノを聞いているのか。いいものはいいということか。渋いね。見直した!」
『ららら科學の子』(矢作俊彦著)は、1969年に中国へ逃亡した男が30年ぶりに日本に戻ってきたところから話が始まる。主人公はその70年代を文革余波の中国で過ごすが、原因となったのは68年の「警官殺人未遂事件」である。同時代を生きたもののひとりとしては、これは壮大な“仮定法の世界”ではないかと思われてくるのである。

 5月31日(月)

 予報通り夜になって雨が降った。いよいよ梅雨の季節到来かと思わせるように、大降りと小降りを交互に繰り返している。まだ5月だというのに日中は、二日続きで真夏のような暑さだった。季節の巡りが異常に早い。課題をいっぱい積み残して明日からは、もう6月。
“まだ”と“もう”の間で、ほんとうの夏を待つ、いや迎え撃ちたいなどと、ややアグレッシブに。  
     
           


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