日 録 夢の足跡 

 2001年6月1日(金)

 いま履いている靴はまるで「チャップリンの靴」のようになってしまった。4月に軽い捻挫をしたのもこれが原因らしい。以来、日増しにぶかぶかになっていく。合成皮がゆるんで伸びたのか、あるいは足が痩せてきたせいか。はたしてそんなことがあるのかどうか知らないが、大いに歩かねばならないときに、すこぶる歩きづらいのである。ここで、靴を替えようと思う前に、この状態をいましばらく愉しんでみようなどと考えるから、厄介だ。こういうところを偏屈者と配偶者は言うのだろう。未明頃、風強く、空気爽やか。

 6月2日(土)

 昨夕、鮮やかな夕焼け。近くにいた二人を呼んで、窓越しに眺める。明日は晴れるということですね、と一人。もう一人は「わあっ」と感嘆、絶句。当方にもはじめてみる色だった。いま『日本語大辞典』の付録「色名解説」から特定を試みようとしているが、ピンク、赤、橙系あわせて80種もあり、いよいよ混乱する。しばし記憶と格闘したあげく、紫がかった赤の「躑躅色」もしくは「丹色」で決着。それにしても総数350の色彩の豊かなことには驚かされる。竹西寛子氏が主に平安時代の短歌のことばについて「視覚、聴覚、嗅覚いずれをも全開して自然との交感に生きている人の、尖鋭にして優美な心の立ち姿」(5月26日付、朝日夕刊「自然との交感に生きた先人」)とコメントしていたのが思い出された。それら先人に倣えば、今日未明、西に暈をかぶった月齢10.0の月、薄明の東にはまだら模様の雲を見、二年前を最後に団地の庭先から消えた郭公の声が風にわたって流れるのを久々に聞く、と云々。

 6月3日(日)

 靴のつぎは下駄の話題。ぼくも下駄が好きである。自転車にもこれを履いて乗っていたし、コンクリートの上を大きな音を立てて歩きもした。縦に割れ目が入ってまっぷたつになる寸前まで履いた。それを見かねたのか、ある人から上等の桐下駄を贈られた。15,6年前のことである。下駄職人の祖父が丹精込めて造りました、履いてやってください、と控えめにその人は言った。大感激だった。これは朴歯がちびて真っ平らになるまで履いた。そんな記憶を引きずりながら、その何年かあとに、息子の誕生祝いに下駄を贈った。ところが、この下駄はいまだに部屋の隅に立てかけられたままである。ここ数年、夏も冬も普段はビーチサンダルひとつで過ごしているが、息子に代わって履いてやろうか、と迷っている。決断は、まだ着かない。詩の雑誌『ミッドナイトプレス12号』が到着した。

 6月4日(月)

 深夜、ほぼ2ヵ月ぶりにキイロをかごの外に出す。指に止まってしばらく毛繕いをしていたが新聞を広げた拍子に驚いて飛び立った。食卓の上を旋回して、いつもなら天井を這う照明灯のコードに止まるはずが、その奥の、あらかじめ明かりを消しておいたキッチンに向かっていった。そこは、危険ゾーンである。固まらせて捨てる前の油の入ったナベとフライパンがある。思わず叫び声を挙げた。一度油の中に落ちたことがあるのだった。もう若くないから、今度落ちたら致命的だと一瞬悪い想像が走る。慌てて追いかけると、コンロの向こうの台に着地している。危機一髪だった。あのときは、湯の中にシャンプーを入れて、油まみれの全身を何度も洗った。タオルにくるんで、からだが冷えないようにもした。結果、みごと“生還”したのである。最近では止まり木から滑り落ちるようにもなったこの10歳のインコ、案外強運の持ち主かも知れない。それに黄色は、幸福の色、と思い知る。

 6月5日(火)

 夜、帰る頃になって雨がちらつく。介護実習の手続きのためにその足で鎌倉の実家に戻るという学生に「これは恐れ多くも◯◯氏の持っていたモノ」と厳かに職場の鍵を渡す。
 三十年ほど前、川沿いの料亭で鵜飼いの様子を遠くから鑑賞したことがあった。駆け出しの業界紙記者を、その業界の広報担当が招待してくれたのだった。女将の名古屋弁が流暢な講談を聞くように耳に快かったのを覚えている。篝火が川面に映えて長良川は幽玄だったが、肝心の鵜の姿はよく見えなかった。見えなくてよかったのかも知れない。夏の風物詩としてテレビに映し出される鵜の姿は、心底から楽しめるものではない。まさに「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」である。鵜に同情し、一方で長い修練が必要だという鵜匠をみれば、そちらにも加担する。ままならぬこの世の無常、などと書くと、道学者めくか。

 6月6日(水)

 どうしても記録しておかねばと思ったものに「効かないブレーキ」というのがある。車を運転している。前に障害物がある。当然ブレーキを踏む。ところが、いくらきつく踏んでも車は止まらないのである。あげく、人や車、塀や電柱にぶつかってしまう。低速だから、大惨事にはいたらないが、人との間でいざこざが起きる。かつてはよく見、他の誰もが見るという「高いところから真っ逆様に落ちる」ならば、冷や汗をかいて目覚め、夢であると知ってほっとするのだった。これには、そういうある種の陶酔感がない。醒め際がスムーズすぎる。ということは、夢と現(うつつ)の区分が曖昧ということである。昼日中、そうだこの前は、ブレーキが効かなかったんだ、困ったことだ、と思案している。夢の中の出来事とは思っていないのである。かといって実際にぶつかったという記憶もない。夢の外に出て、現の裏側に潜り込む、そんな稀有な芸当がこの夢にだけは許されている。

 6月7日(木)

 6日朝、児童文学者の来栖良夫氏が亡くなられた、という。20代の頃取材先でご子息と知り合い、いろいろ面倒を見てもらった。取材を離れて興味の赴くままに父上のことを聞けば、飾り気なく話してくれる、剛毅な人である。こちらは若気のいたりで、反骨の文学者の息子がどんな文章を書くか見てやれというほどの気持ちで新聞に寄稿してもらったこともある。他にも失礼なことがあったかも知れない。そんな思いをだかえたまま生業を変え、十数年後に偶然、その人の娘さんを教えることになったのである。近くに住んでいると聞き及んではいたが、予想もしないことだった。娘さんにもその母親にもあえて名乗りはしなかったが、ささやかな恩返しをしようという思いはあった。残念ながら、引っ越しのために短期間で、いなくなった。ご本人とはもちろん面識はなかったが、これも“多生の縁”ということになるのだろう、『光太夫オロシャばなし』を再読して、ご冥福を祈りたい。
 梅雨入りして、2日目。曇り空にときおりの雨、また驟雨、あるいは雷。記憶の中の梅雨季を凝縮したような天候を、終日愉しむ。

 6月8日(金)

 右ではなくて、左肩が痛い。まっすぐ立っても、左肩が上がっている。家の者らに指摘されて、数年前に気付いた。この歳になれば、なかなか矯正できるものではない。痛みと関係があるのかどうかは知らないが、鏡を見る度に、伴先生を思い出す。中学校の理科の先生だった。どこかニヒルな感じの漂う二枚目だったから、わざとそうしているのだろう、と当時は考えないでもなかった。片方の肩を下げて、つまりもう片方を心もち上げて歩く姿が、世間に刃向かっているようで、かっこよかったのである。そのくせ、八重歯が出て、笑った顔は素敵だった。男子にも女子にも人気のある先生だった。三〇歳を越えたくらいだったと思うが、卒業して何年かあとに亡くなってしまった。これも、肩と関係があったのかどうか、と思い出しながら、答えのない問いを発するのである。伴先生ほどこちらはかっこよくもなく、肩を怒らせて歩くほどの侠気もない。ただ、気が付いたら、躯の稜線、天秤で言えば棒に当たる部分が傾いでいた、それだけのことである。
 痛ましいニュースを聞きながらの出勤となった。小さな命ほど愛おしいのに、それが分からない人間が棲息する社会になっていたとは。いまこそ、言葉の力を、取り戻さなければならない、と思う。

 6月10日(日)

 教育実習中の学生が中間報告のメールをくれる。校長に感想を聞かれ「たのしいです!」と思わず本音を言ったという。すぐに気付いて「影では涙を…」と自身の立場をフォローしたが、あとの祭りだったとも。「愛すべきその人柄に乾杯!」と認めて返信。
 深夜の仕事に出かける配偶者に代わっていつからか食器洗いが日課のようになっている。毎日ではなく、気が向けばやる程度だが、これがなかなか性に合っていると思い始めた。元来単純作業は好きである。無我の境地を誘い出すにはもってこいである。考え事をするには、これに限る、とまで言い得る。つい力を込めて、コップや皿が割れたことがあった。怪我はなかったが、「オー」と感嘆の声を挙げる。箸を束ねてごしごしやっていたとき、割り箸のささくれが指を突き刺したこともあった。このときはさすがに口惜しかった。ぬかったと思った。ところで、水を流しながら洗うと、なぜか心がざわめくのだ。ときどき水を止めなければならない。世の「皿洗い人達」はどうなのだろう。聞いてみたい気がする。とそんなことを考えながら、実は、ついさっき作業を終えたところだ。

 6月11日(月)

 午前、外に出れば暑いのだろうが、家の中にいると、風がすーと通り抜けて、爽やかな陽気である。夕方までは梅雨の晴れ間が楽しめるということであった。少しはのんびりとした一日を過ごしたい、と柄にもないことを呟く。
 夜中、薄闇のなかにぬっと突き出て、視線を釘付けにする。そばを通りかかる小柄な女性の立ち姿(シルエット)までが、目に眩しい。しゃがむ躑躅の次は、道路際に屹立する紫陽花であった。日々の経過も、このところあまりにも早い。“移動性高血圧”と呼んで、躯の変化(へんげ)を愉しむことが、唯一の抵抗となる。

 6月13日(水)

 朝、煙草を買いに行く道すがら青果店の前を通った。この匂い、と思った。夏休みに広島・水主(かこ)町にあった青果市場で一ヵ月ほどアルバイトをしたことがあった。朝五時に市場へ行って、競り落とされた野菜をそれぞれの店に届ける仕事だった。幌付きの小型トラックの助手席に乗って、動き始める前の市街地を走り抜けた。朝だから涼しくていいだろうというのが動機だった。とんでもなかった。仕事が一段落したあと、川縁りの夾竹桃の下で飲む冷たいジュースの味を覚えている。玉葱を運び入れた問屋らしい店の冷凍室も、いい記憶だ。ずっとここにいたいと思わせた。ところで、このいろいろな野菜が集まって醸す匂い、である。これは、言いにくいが、虚無と頽廃の匂いだ、と思うのである。

 6月15日(金)

 梅雨寒、二日続きの雨。やや激しめだったが、真夜中頃には、小糠雨に変わっていた。空を飛ぶ鳥が、走る車のフロントガラスにぶつかってくる場面を想像したことがある。そんな間抜けな鳥はいないだろうと思いながら、本当らしくなるように懸命に描写した。その小説はいったんゲラになりながら、いつまで待っても日の目を見ず、荒唐無稽すぎたかと反省しないでもなかった。ところが、一年前の早朝、フロントガラスに飛び込んでくる鳥と遭遇した。これには驚いた。普通の道路で、せいぜい時速60キロぐらいであった。感覚として、車が鳥より速いはずはない。おいおいしっかりしろよ鳥だろ君は、ついそう呼びかけていた。この季節、雨を吸った羽が重くなって、低空飛行も命がけなのかも知れない。あの鳥は、無事だった、はずだ。

 6月16日(土)

 掌を仰向けにして差し出すと、マクドナルドの女子店員は両手で掌を包み込むようにしておつりを載せた。マニュアルにあるのかどうか知らないが、丁寧すぎる応対ぶりだ。一瞬とはいえ、ほとんど触れている状態だったから、温もりが伝わってきたのである。悪い気はしなかった、などと書くと、凡百の「オヤジ」の感想になってしまうが。
 オヤジといえば、3月頃の若い者のメール、タイトルが「久々のオールでした!」とあり、一瞬これはメールの間違いではないかと思った。しかし、よくよく考えてみれば「オ」と「メ」は遠すぎる。それに、こんなミスをするほどへまな娘ではない、別の意味があるにちがいない。本文を子細に読み直してみたが、事務的な用件のみで手がかりはなかった。タイトルにしてまで伝えたかったことは何ですか、と今度聞こうと思いつつそのままになっていた。それが今夜判明したのである。オールナイトの略だという。ただし、夜明かしの遊びに限定され、勉強で徹夜するときには使わない、と25歳の女性(差出人とは別人)が教えてくれた。おそらく現代の若者の「正しい用法」なのだろう。オールナイトと言えばこちとらは、朝までの映画上映を連想する世代である(そういえば、広島・新天地で、上映明けの館内を清掃するバイトを何度もやった)。ともあれ、スタバに続いて、また一つ合点。

 6月17日(日)

 朝の9時から、夜の10時まで職場にいた。四種類の仕事をこなしたのもそうだが、こんなことは珍しい。いわば「ハレの日」で、この日をやり過ごせば「日常」が戻ってくる、そうすればまた、落ち着いていろんなことができる、と思ってしまう。ちょうど一年前は、甥の結婚式のために、往復千キロの道のりを、ひとりで走ったのだった。走行中は退屈きわまりなかったが、向こうでは恩師にも、旧友の何人かにも逢うことができた。あれも十分にハレだった。

 6月18日(月)

 ここ数日、雨のない日が続く。西の方から崩れてきているということだから、明日と明後日はこちらも本格的な雨なのだろう。この時期は毎年西のほうで大雨の被害が発生するが、どうかそこまでは降らせないでください竜王様、の心境である。
 卒論が雨乞い行事だったという女性のことを思い出した。社内報の編集に携わっていた。ちょくちょく顔を出すうちに、そんな話もしてくれるようになったのである。どういう経緯か忘れたが、業界新聞にインタビュー記事を載せたとき、「天乞い」と書いて、ひどく怒られたことを覚えている。20代も終わりの頃のことだが、こちらの言葉の方がしっくりとなじんだのであった。何の疑問も感じずに使ったはずだ。校正段階でも気付かなかったのはそのせいである。大雨も慈雨も「天のはからい」とでも考えていたのか。するといまよりもずっと、神仏に近い位置にいた、ということかも知れない。
 夜更けに、自転車屋の前にさしかかったとき、「山口自転車店」の同級生が、そのままの姿形で脳裏に浮かんできた。恥ずかしがり屋だが、妙に人なつっこいところがあった。中学を卒業すると、家業を継いだ兄の元で、必死に修行を積んでいた。当時全盛の自転車はどこの家もその店から買ったはずだ。弟の力がおおいに預かっていたにちがいない。いま思えば、その姿は神々しかった。雨との関連は、直接には、ない。

 6月20日(水)

「本郷北方」という実在の地名を、進行中の作品に使ってみようと思い立った。「ほんごうきたかた」と読むが、字面の感じがいい。こんなことも、筆の進みの、きっかけになる。そこから、どこまで想像力を膨らませていけるかが勝負どころである。「文学界」7月号にて、遅ればせながら田久保英夫氏追悼の四つの文章を読む。再読して、もっともっと、吸収すべきものがあることを教えられる。この雑誌、あと「古山高麗雄 ロング・インタビュー」、南木佳士「濃霧」のほかには、読むべきほどのものなし。

 6月21日(木)

 早起きをして、電車に乗って、中村橋へ。三回乗り換えたせいか、約束の時間ぎりぎりに着く。足早に歩くうちに、膝はがくがく、心臓はパクパク、である。ああ、情けない、と思った。水泳を始めようかと本気で考える。去年会った同級生は「目の保養にもなるしな」と勧めていた。この際それは、二の次、三の次である。体力不足はあきらかに、十数年来車に頼ってきたことと、自然の野山に背を向けた(張りのない)生活の報いである。
 その車も、ここ数日「ブレーキの泣き」が入って、早々に修理を要する状態とはなった。昼過ぎ家に戻るとすぐディーラーに電話、予約を取る。「ブレーキの泣き」とは、パッドが減っている警告らしい。前に経験があるからこの言い回しを知っているが、家の者らは「また、業界用語だよ」と鼻白んだ声を出す。業界人じゃないんだから、自前の言葉で説明しなさい、と難詰しているのは分かるが、その方が話が通じる。それに、タイヤの回転につれて、馬車(!)の鈴の音のような軽やかな響きが鳴り出す現象を「泣きが入る」とはよく言ったものである、と感心している。つい使いたくなるのも条理である。
 言葉は、もちろん、自前のものが一番である。いい表現を獲得したとき、全世界を手中に収めたような気になる。「文芸復興」も、詰まるところは言葉の品性、表現の質にかかっていると思うものである。人間が言葉を変え、言葉が人間を変える。文学の生命線はそこにあるはずである。

 6月25日(月)

 ついに、煎じたウーロン茶が食卓にお目見えした。朝から蒸し、日中は30度を超えた。暑い日であった。おりしも、いまどきの紫外線について話しているうちに、日傘のことに及んだ。女子大の構内では、ときおり見かけるという。職場の前のダイエー通りを観察していても、一日にひとりぐらいである。それも、年配の女性、というよりはお婆さんが多いような気がする。若い女性と日傘というのは、案外新しいのではないかと咄嗟に思った。
 オゾン層の破壊が進んで紫外線が大量に大気圏に差し込んでくる。将来のある、繊細な肌にいいはずはないのである。実利的な意味でその学生は「わたしも、差して歩こうかと思うんです」と言うのだが、当方にはまた別の感慨が湧く。「日傘の女」は傘をくるくると回してかならず振り返る。一言もしゃべらず、ただにっこりと笑いかける。そうして、片方の下駄(赤い鼻緒!)を放り投げて、明日の天気ばかりでなく、二人の恋の行く末を占う。年の頃なら、三十前後、とまあ、想像の行き着くところはそんな「陳腐な場所」である。「教祖」のあとをついていき、いずれその本質を暴き出す「女」として、造形に腐心したこともあった。日常の風景としての、娘と日傘、是非見学してみたいものである。つくづく業に取り憑かれている。

 6月26日(火)

 昼前、暑い中を、コンビニへ。いつもは、レジに立つと、目で笑いながら指を二本立てて、煙草を差し出してくれる。こっちは無言で用事が済ませられるわけである。今日は、財布から小銭を漁っていると、「二つ? 三つ?」と問いかけられた。いつもとちがう人だ。「いや、ふたつ」とつい声を出してしまった。となりのレジで、いつもの人が笑っている。

 6月27日(水)

 このところ雨も降らず、暑い日が続く。猛暑という言葉はもう少し先にとっておきたい気がする。日傘についての小品をUPすべく奮闘中、と書けば我ながら背負った感じがしないでもないが、元気のもとはどこにあるのか、それだけは明らかにしたい。田舎から、玉葱、ジャガイモなどが届く。わが家の庭からは、これまでにキュウリ十数本、トマト一個の「収穫」があった。小松菜は、敢えなく虫たちのエサになった。

 6月28日(木)

 数件の野暮用を済ませたあと、久々に「宅俳便」の一哉さんを訪ねる。午後3時、暑い盛りであった。深夜配偶者が働いている会社の駐車場に車を停め、近くの喫茶店に入る。かねて約束の「カロム」に関する本を借りる。カロムとは彦根市近辺だけでいまなおさかんに行われている「絶滅寸前の」伝統的な遊びのことであるらしい。おはじきとビリアードを組み合わせたこの遊びのルーツを探る本だった。
「郵便受けに入れて置くからどうぞ」と言われていたが、1ヵ月ほど前のそのときは見つけられなかった本である。「その時刻なら、確かに入っていました」というから、こちらが探しそびれたのである。深夜に人の家の郵便受けを開けるなどは、褒められた行為ではない。そういう遠慮、ないし、うしろめたさが、よほど淡泊な探し方になったのだろう。ともあれ、やっと手にすることができたわけだが、その本よりも、畏友の近況報告、よもやま話が楽しい。この喫茶店、二階席の床には巨大な鉢植えのトチの木、窓辺のテラスにはねじ花を数茎植えた鉢が置かれていた。これも嬉しかった。

 6月29日(金)

 語るべきほどの「夢」があれば、実際に見たか見ないかに関わりなく、形象化していこうと思った。どこまで続くかわからないが、思いつきとしては悪くないし、誰もが考えることだろう。「其の壱」(日傘の女)をアップしたあと、寝床に入って「其の弐」を思案していた。よし、いけるぞ、と鍵となる言葉を何度か反芻した。眠りにおちる前に、おい、メモらなくて(なぜか若者言葉!)いいのか(安部公房は枕元にメモ帳だったかテープレコーダーだったかを常備していたという)、とさとす声が聞こえた。大丈夫だ、それくらいの記憶力は残っているさ、反芻して頭に刻み込んだではないか、と自身のその声に応える。実は、起きて鉛筆を走らせるのが面倒だっただけだ。案の定、朝になるとすっぽりと記憶の中から抜け落ちている。一日努力はしてみたが、いまだに思い出せない。
 眠る前の自問自答だと思っていたものが、それしも夢の中の出来事だったとしたら、アイデアも言葉も「幻の中の幻」となってしまう。忘れるぐらいだからどうせたいしたことではないのだろう、というのも、逃がした魚は大きいの喩えも、ここでは実にリアルだ。まったく、なんてことだ。

 6月30日(土)

 午前4時半、窓から見える灰色の空を小鳥の群れが舞っている。エサを食べたあとと思しき、余韻の残る軽やかな鳴き声。梅雨なのに、雨のない日々が一週間も続いた。6月も終わりの日、眠るきっかけを逸していた。
 昼前、来訪者に起こされて外を見れば、久々に梅雨らしい雨が降っている。空は、明け方よりも暗い。    


メインページ
行逢坂に戻る