日  録 夜々の愉しみ

 2004年8月1日(日)

 2日続きの休みだった。夕方うたた寝をしていると、職場の夢で飛び起きることとなった。“運営上の問題”が出来して慌てふためいていた。そこに10数年前にいっとき同僚だった男がやってくる。「どうした?」と訊けば、黙って顎をしゃくる。女子学生に抱かれた愛くるしい赤ん坊が目に入る。彼のまわりにも小学生らしい男の子が3人ほどまとわりついている。それだけの夢だが、たった2日で早くも禁断症状か、と思った。
 駅前の『飛燕』で食事をしたあと未知の隣町「川島(かわじま)」まで足を伸ばした。荒川とやがてそこに合流する入間川、越辺(おっぺ)川、小畦川にはさまれた田園地帯である。『遠山記念館』を探しながら、稲穂が実り始めた水田を縫って走っているとゆったりとした気分になった。いつかどこかで、たしかに実見した風景だった。記念館の前では、ピンクの蓮の花が一斉に咲いているのを見た。これは、はじめての経験だ。

 8月6日(金)

 ヒロシマの『平和宣言』を夕刊で読んだ。前半部分は去年に引き続き格調高い文章だった。曰く「人類は未(いま)だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙(ごい)を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています。(中略)人間社会と自然との織り成す循環が振り出しに戻る被爆60周年を前に……」(中國新聞WEB版)と。続く「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年を」という一行に目が留まった。ひと頃、といっても二十数年前だが、「被爆体験を風化させるな」とさかんに言われていた。ひとりひとりの心の中に悲惨な体験を悲惨なままに“記憶”し続けることは大変なことにちがいない、できれば早く忘れ去ってしまいたいというのが人情だろう、とその頃思わないでもなかった。みなが、いささかの平和に酔ってもいた。あれから今日まで、いつだって世界は激動の波にもまれていたのに、いまほど戦争や人類の破滅を身近に感じることはない。
 中休みのこの日、外に出るとすさまじい暑さに閉口した。凡庸だが「灼熱の太陽」という言葉が浮かんだ。これはしかし、人間にとっては自然の一部であるのだった。

 8月7日(土)

 この日未明(午前4時頃)、T字路を右に曲がったとき歩道にうずくまる人が目に飛び込んできた。仕事を終えたばかりの、助手席の配偶者は気付かなかった。2、30メートルほど走ってからそのことを告げると案の定「戻って!」と言う。見てしまった以上そのまま見過ごすわけにもいくまいと覚悟を決めてUターンした。
 シャツの裾からはみ出した肌を触るとなま暖かい。少々早いが脈拍もあるようだった。ただ、声を掛けても体を揺すっても反応がない。110番をするとセンターらしきところにつながった。このあたりの地図を広げているようだった。場所の確認に手間取ったが、応対はとても丁寧でびっくりした。事件か事故か知りたがっているところに酒の匂いが漂ってきた。これは酔っぱらいだと確信してその旨を伝えた。
 近くから警察官を向かわせるのでできればそこにいて合図してくれませんかと頼むので10分間ほど傍らに突っ立っていた。するとうずくまっていた人が寝返りを打って「ごめんね。ごめんなさい。すいません」とはっきりした口調で言うのだった。大丈夫か、近くに住んでいるのか、などとここぞとばかりに訊ねた。しかし30代前半くらいの男は返事もせずにまた深い眠りに就く。こりゃ相当飲んだな、いまのことだって醒めれば一切記憶から飛んでいるだろう、いささか身に覚えのあることだから、同情するでもなく呟いた。以上夜明け前の椿事。その後男がどうなったか知る術はない。

 8月8日(日)

 県内でたったの二件、全国でもそうはない苗字を持つ早稲田の学生と、彼の自宅近くで待ち合わせて職場まで一緒に行った。早速、変わった苗字なのに父親の上司が同姓だったという“笑い話”を披露してくれた。「偶然? 親戚でもないの?(実名を書けないのが残念)」
「ええ」普段無口な男が笑った。
  訊かれるままに世界史に興味があると語る。それもローマ以前のヨーロッパだという。「いわば、考古学なんです」将来は研究者か、と訊くとかすかに頷いた。高校時代世界史を教えてくれた戸波恵之介先生のことをふと思い出した。ことある毎に早稲田を自慢していたが、一風変わった、いい先生だった。経歴をも変わっているこの「23歳・1年生」と像が重なっていった。
「ところで、メールの返事が遅いぞ」と苦言を呈すると、
「持ち歩かないことが多いんです。インターネットも滅多に覗かないし」とさらっと言う。
 うーん、いかにもアルカイックだ。学者の素質大いにありと見た。
 
 8月12日(木)

 10日夜に突然、メールの受信とインターネットへの接続が不能となった。ウィルス対策ソフトの起動だけが異常に遅い。職場での悪戦苦闘が思い出され、お盆休みも修復に費やされるのかと暗い気持ちになった。休み初日の今日、根気よくPCスキャンを2度行ったがウィルスは検出されなかった。状態は変わらない。なぜだ、と考えたところで、想像力を働かせるだけの情報も知識もない。
 昨夜訊ねてきた直人に電話した。せっかくの休みを朝早くから起こされた直人は
「ウィルスソフトを停止してから、再起動してください」
「アンインストールじゃなくて?」
「それは止めた方がいいです」と明言する。電話した時点で「アンインストールの可否」をこそ訊きたかったのであった。原因はウィルス対策ソフトと半ば決めてかかっていた。結果から言えばこれは有効な忠告であった。
 その後“カスタマーズセンター”なるところへ電話を掛けるが、テープ音声が流され、ながらく待たされそうな気配に嫌気して2回ともすぐに切った。午後になってADSLを導入した息子とようやく連絡がついて、モデムを見るように言われた。設置マニュアルを取り出してみると「PPPランプが点滅しているときは初期化してやり直し……」という記述に行き当たった。「点灯」ではなく正に「点滅」していたのである。
 もっとも、初期化するまでもなく、いったん電源を切って再びつけると、難なく解消した。モデムもこの暑さにやられたか。あっけなくて、まずは腑抜けのような一日目となった。

 8月13日(金)

 年中行事風に言えば今日はお墓参りに当たる。この習慣だけは帰省しないかぎりできないわけで、前回が8年ほど前ということになる。なんとも罰当たりなことである。町中を外れたところの、まだ雑木林が残っているような場所にできた“霊園”を走り抜けて、川越に出かける。以前はデパートの中にあった紀伊國屋が、通りの向かい側、スターバックスのとなりに引っ越していた。『博士の愛した数式』(小川洋子)をやっと買った。一年以上前に発表された作品だが、あまりにも騒がれすぎて、“泣ける本第1位”などの情報が耳に入ってくると、読むのが億劫になっていた。ここにきてしかし、そうそう天の邪鬼でもいられなくなった。欲しかったもう一冊で店頭になかった『鉄塔家族』(佐伯一麦)は、家に戻ってからインターネットで申し込んだ。ところで、スタバのレジの女性はとても美人だった。もちろん笑顔も爽やか。

 8月15日(日)

 明け方頃から雨になり、布団に入る前に窓を開けると猛烈な風が入り込んできた。カーテンが水平にまくれ上がるほどの勢いである。しばらくそのままにしておいたが、タオルケット一枚でこのままというわけにはいかないのだった。久々に雨音を聞きながら……という風流心を諦めて窓を閉めた。
 気温はこの風を境にぐんぐん下がっていったにちがいない。昼前に起きたとき、20度を越えているようには思えなかった。昨日までとの落差が大きすぎる。
 昨日“EYE PILLOW”なるものを娘が持ってきてくれた。冷凍庫で冷やして(またはレンジで暖めて)から両眼の上に載せて眠ると、適度の重さが目の疲れをとり、中に忍ばせた100パーセント天然のハーブの香りで(おそらく心が)癒される、と謳われている。早速使ってみた。たしかに野原に寝そべっているような匂いが顔面に漂ってくる。かなり重い分、とりのぞいたあとはすっきりとした感じがしばらく残っている。病み憑きになるかも知れない。

 8月16日(月)

 5日間の休みも今日で終わる。ヒゲをそらずにいたが、かつてほどにはボーボーにならない。ヒゲも老いたかと仔細に眺めれば完全に白が勝っている。もう「山男」にもなれない。昨日今日の変化ではないのになぜかそんなことを思った。
 柳田國男の「犬飼七夕譚」で“人と天上との交通”を説く羽衣説話は西暦700年頃にまで遡ると知って俄然感興を覚えた。伝説の地のひとつ余呉町が昨年暮れに発行したという『江州余呉湖の羽衣伝説』(桐畑長雄 著)について照会のメールを出した。(翌日には、頒布可能の旨、返事があった)
 明日から志賀高原。温泉が楽しみだ、と言うとみなの顰蹙を買うだろうか。

 8月22日(日)

 合宿から戻って昨日、今日と2日間の休みとなった。現実感がうすいままに両日を過ごしたというのが偽らざる感想である。20日朝気温11度の高原から、依然として30度の暑さの下界に降りたことも一因であろうか。
「アンタ、先生」と強面の老人に声を掛けられたのが初日の深夜、楽しみだった温泉にいざ浸かろうとしたときであった。シャワーは振り回す、わいわい騒ぐ、桶を元に戻さない、マナーを教えんかい、と言う。
 将来の社会を背負う子供をこんな風にしちゃいかん、とのお説教である。現場を目撃したわけではないが、子供だからこそ元気に温泉を楽しんだだろうと考えて「いやいや、迷惑をかけないように注意します」とひたすら謝った。十数分後、脱衣所にいると再び顔を出して「見てみろ。きちんと閉まっていない。これをマナーというのだよ」と怒る。見ればたしかに隙間がある。しかし、たった1センチほどでこれなら許容範囲ではないか、目くじら立てることもないのにと思ったのである。
 細かいなぁ、どんなことにでもひとこと言わずにはおられない爺さんの類か、とここで呆れ返った。それが次の場面への伏線になってしまったのである。
「さっきのおっさんが、自分のスリッパがなくなったから、呼んでこいと言っている」と生徒が部屋にやってきた。風呂場に駆けつけ「一応調べてみますが、生徒が間違えたとは言いきれない」と応戦した。宿泊客は上等の畳敷きのスリッパ、生徒はビニールのスリッパを履いていた。いずれもホテル備え付けのものである。「他に客はいなかったんだよ。オタクの生徒に決まっている」「それはわからないと言っているでしょ」「泥棒と同じだよ」などとちょっとした口論となった。「明日の朝でいいから、結果を教えてくれ」となってその場は収まった。すぐに小学生が畳敷きのスリッパを履いて戻ったことが判明した。もちろん間違えたのである。そういうところに無頓着なのが歳相応の……と許してくれるような玉ではない。朝、出向いて謝るか、と観念した。
 翌朝、謝りに出向く前に食堂で顔を合わせてしまった。食事を中断して歩み寄ってきた。「いつまで待っても来ない」と例によって攻撃的であった。10分近くも議論になって閉口した。向こうの席では奥さんらしい婦人が、物静かに朝食を摂っていた。その対比にまた別のことを思った。
 その後この人とは会うこともなく、3泊4日の合宿は、なかなかいい感じで終わったのである。
 現実感のなさは一種の虚脱感でもあったのだろうか。

 8月25日(水)

 若い若いと強がりを言っておられるのもせいぜい40代までと思ってきた。50になってから月日の経つのが異様に早い。
 破れかぶれで、ヨン様ならぬジュン様と呼べ、などと言っていたら、一部の者が喜んで使ってくれる。(もちろんいっときの現象にちがいないが)ジイさんと陰口を叩かれるよりもよほど気分がいい。こちらも相応の振る舞いを心がけるようにしていた。ある時、「いくつぐらいだろうと話し合っていたんですよ。結論は41,となりました」真面目な口調で打ち明けるのだった。当方、愕然。人気商売とはいえそこまで“若造り”はできまい。もうちょっと高めに見積もって欲しかった。贅沢かな。

 8月26日(木)

 佐伯一麦さんの『鉄塔家族』がやっと届いた。重厚で大部の本だ。1年4ヵ月にわたって新聞に連載された、とある。HPをいったんクローズしてこれに取り組んでいたのかと思えば、心して読み進めようとつい背筋が伸びる。これからの夜々が愉しみである。
 夜々といえば、まだやっている! というのが率直な印象である。どこもかしこもオリンピックで、いささか食傷気味である。

 8月30日(月)

 曜日の感覚が全然なくなっているが、この日で夏の日程がすべて終わったということだけははっきりしている。いつになくほっとする。おりしも、台風の影響で風が吹き、街路樹の葉々がさわさわと鳴っている。夏の終わりはこんなものか、と柄にもなく感傷的になった。
 読むべき本が溜まってきた。久々のことである。      


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