日  録 天変地異と放置車 

 2004年9月2日(木)

 昨夜浅間山が噴火した。高速道路(関越)にも灰が降って一部速度制限をしているというニュースを聞いて床に就いたが、今日は朝から続報で持ち切りだった。各地の被害も報告されている。近くに住んでいる人は生きた心地がしないだろう。映像だけを見て、山が火を噴いているところを近くで見てみたいと思ったものだが、これはとんでもない野次馬根性だった。

 9月5日(日)

 こんどは地震であった。午後7時過ぎ、生徒が教えてくれたが全然揺れに気付かなかった。その後のニュースで奈良あたりは震度5だったと知った。あの近辺には親戚も多い。職場に送っていく車の中で配偶者から、連絡してみたらと言われていたのを思い出し、深夜12時前に大阪の姉に見舞いメールを書いているちょうどその時、大きな揺れがやってきた。付けっぱなしのテレビは瞬時に速報を流し、NHKも地震報道に切り替わった。先のとほぼ同じところが震源だという。なんという暗合か、と思った。ところが肝心のメールが二回出して二回とも戻ってくるのだった。やむを得ず電話に飛びついた。「うん、うん、びっくりした。でも大丈夫だったよ」姉は眠たそうな声を出した。正しいメールアドレスを聞き出して電話を切った。詳しい説明は端折った。なんでこんな時に、と思ったにちがいない。

 9月8日(水)

 メールの文面に、ひと肌脱いでくださいな、といったん書いてすぐに消した。相手が若い女性だったせいもあるが、いまどきこんな使い方はあっていいのか、とふと疑問に思ったからでもある。
 本来は遠山の金さんよろしく、和服の片袖だけを脱いで、オレにまかせとけ、と見得を切ることなのだろう。実際にそのためにわがことは省みず働いてこそ、肩と腕を露出させる甲斐もあるというもの。あくまで自ら発する言葉であって、男であれ、女であれ、他人にこんな頼み方はもともとはしなかったのにちがいない。
 インターネットで、ひと肩入れる、という類義語があると知った。こちらは駕籠の一方を担ぐということから、他人を助ける意に派生したという。かつて一度も使ったことはないが、「ひと肩」が「ひと肌」に入れ替わったとの説も披露されていた。
 和服も駕籠も遠い昔の風物詩。だからこそ使ってみたい誘惑を覚えるが、ここはやはり控えて正解だったか、と。

 9月15日(水)

 朝夕がめっきり涼しくなっていよいよ秋か、と感じ入る。それにしても、愛知・豊明の一家惨殺、栃木・小山の兄弟誘拐殺人と非道な事件が相次ぎ、秋の気配とは裏腹にいっそう気が滅入る。20数年前、旅行だったか、仕事だったか忘れたが、間々田近辺を思川に沿って延々と歩いた記憶が甦ってきた。あのときは「川の名前」にただ気圧されていた。小説の素材に使えそうだ、などと考えていた。現にある種のインスピレーションを受けた。その川にいま、幼い兄弟が殺されて、投げ捨てられたというのである。記憶が汚されたと思うのは、われだけではないだろう。『鉄塔家族』を読んだあとだけに、ここに描かれているような人への優しい思いはいまどこへ行くのか、と憂えざるを得ない。

 9月20日(月)

 連休のしっぽのような今日一日、おこぼれで休むことができた。むしむしとして、気温も30度を超えたようだったが、風は爽やかに感じた。
 近々引っ越すことになる家の、60坪もあろうかという広い庭をスコップで掘り返し、一面にはびこった竹の根を抜いていた。手で引っ張った拍子に土がはねて、顔もシャツも真っ黒になった。雨が欲しいと思いながら、数回運び入れた子供の本以外は何もない二階の部屋でシャツを脱いで寝そべった。三方畑に囲まれ、すぐ向こうには送電用の鉄塔が林立している。ところどころ雑木林も残っている。自由でのびやかな気持ちになれた。吹き抜ける風が思いがけずひんやりとしたのもそのせいだったのかも知れない。

 9月22日(水)

 昼過ぎに驟雨、雷鳴。光ってほどなく轟音が響くとさすがにドキッとするが、久々のことで気がはしゃいだ。いったん止んで数時間後にまた激しい雨が降った。帰り支度をしていた女生徒二人がこの二度目の雨に驚いた。10分待てと諫めるが、ゴミ袋を合羽代わりにしてすぐにも帰るという。ベランダから見ていると、手を振りながら自転車を漕いで遠ざかっていく。明日は休みだから濡れても平気か、と凡庸なことを思っていた。

 9月23日(木)

 秋分の日、彼岸の中日である。
「電話で話した」という人が留守中に現れ、「そう言えばたしかに取り次いだ」との“証言”を聞いて、当方にはさっぱり記憶がないので困惑した。その用件が重要だっただけに、電話で報せを受けた夕刻以降、不調が続いている。
  いつ頃のことですか、と証言者に訊けば今月のはじめだという。『博士の愛した数式』の博士は50分しか記憶を保てなかったがそれは交通事故というれっきとした理由がある。歳もずっと上であった。この歳でたった20日前の事を忘れたりしたら、もはや社会生活は送れないではないか、相手の勘違いだろうといったんは突っぱねた。どんなに記憶の底を探っても片鱗だに甦ってこなかったからだ。ところが、夜中近くに少し弱気になった。もしその電話が9月ではなくて8月はじめのことだったら、とても覚えてはいないだろう、なにしろことしは“激動の夏”だったからなぁ、と思い始めた。すると、(結果として用件はわかったからその)中身について誰かにしゃべっている自分の姿が思い浮かぶではないか。本当か、幻か、きめがたい情景だが、記憶の“傍証”たり得る。
 用件自体は明日早々に対処すれば事なきを得るはずだが、 あっちへ行った記憶はどうやって取り戻せばいいの?

 9月26日(日)

 ダイエー通りに面した職場の入り口に乗用車が置き去りにされている。木曜日の昼に見て以来だからもう4日が過ぎたことになる。金曜日にお巡りさんがやってきて駐車禁止のステッカーと出頭命令書を貼り付けていった。その場にたまたま出くわしたので、出入りの邪魔になって困っている、何とかして下さい、と頼み込んだ。それにはうんうんと生返事を返し、2日間も放置するなんてきっと盗難車だな、困ったことになるぞ、と独り言のように呟いてナンバーを控えていた。
 土曜日の昨日、交番に電話して「早く撤去してくれないと、本当に迷惑です」と訴えると、「今から見に行きます」という素早い返事。2,30分後に電話があって「持ち主はわかっているんですよ。でも連絡が付かなくて」と言う。
「レッカー車で運ぶことは?」
「いや、駐禁の切符を切っているので所有者が出頭するのを待つしかないんですよ。連休明けには動かすんじゃないかと思います。すみませんが、もうちょっと辛抱してください」
 散々みんなに吹聴して回ったが、盗難車ではなかったのである。改めて車内を覗き込むと案外きれいでカーナビも付いている。スモークフィルムの張られた後部座席にはチャイルドシートが置かれている。4日間も、どこに行っているのか。失踪か、戻れない事情が出来したか、などと今度はあらぬ想像が湧いてくる。
 持ち主の顔を見たいのは山々だが、交番の警察官が言うように、明日にはもう、それこそ忽然と消えているかも知れない。
     
 


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