日  録 テレビ塔の下にて      


 2004年11月3日(水)

 南天、ミニザクロ、ムラサキシキブの木を掘り起こして引っ越し先の庭に植え替えたのが先月の28日。日蔭で窮屈な思いをしていた木々もこれで陽も雨も存分に受けられると思ったものだが、ムラサキシキブだけは葉の一部が枯れはじめて、日々危うく、素人庭師の愚かさを見せつけられるようである。金木犀やモミジなどもまだ残っていて、引っ越し関連作業はまだまだ続く。それにしても、もう11月。一年があっという間に過ぎていく。

 11月13日(土)

 この日未明、雨戸ががたがたと揺れるので外を覗いてみると、前方のだだっ広い畑の上を風が走り、さらに向こうの雑木林が月明かりの中でざわめいている。北よりの風で轟々と音を立てて吹き抜けていくのだった。去年より4日早い木枯らし1号とあとで聞いて納得した。
 引っ越しの作業を通じて何でも自分でやるクセがついた。二日ほど前にBSアンテナを付けようと思い立った。最初2階の手すりにとりつけ、百メートルほど先の家を真似て方角を合わせてみた。何回か移し替え仰角や方角を変えてみたが一階で待機する配偶者の返事は「砂嵐のみ」と冷たいものであった。こういうときは悔しさが余計募る性質で、今日小学生が教材で使う磁石を買ってきて「南西131度」を調べてみると、南東を向いて家が建てられているためにアンテナの角が壁に邪魔されてしまうことが判明。仕方なく一階の庇の鉄柱にくくりつけるとこれまでの苦労をあざ笑うかのように映像が現れたのである。ほんの2,3度のちがいでも静止衛星に届く頃は相当広がっているんだろうなぁと実感した。もっともこれは、あと知恵に似ている。
 百鬼丸さんから切り絵をいただいた。『家族仲よく』という題ですよ、と言って渡してくれたそうである。(メインページに写真をアップしておきました。ご覧下さい)
 
 12月5日(日)

 新しいところに住み始めて一ヵ月が過ぎた。ここらあたりにはタヌキが住んでいる!
 数日前の朝には通りに面した民家の庭先をうろついていた。これまで二回お目にかかったのと同じタヌキと思えた。一度目は深夜のことで雑木林から顔を覗かせて道路を横切ろうとしていた。このときは猫か、タヌキか、たしかな判断はできなかった。猫らしくないなぁ、タヌキがいるわけないしな、と話し合うにとどまった。ところが、その二日後かに、まっ昼間、生垣から出てきたのである。紛れもなくタヌキだった。なかなかあどけない顔をしてこちらを見たように思った。いまだあちこちに残る雑木林を住処にしているのだろう、今度いつ逢えるか、楽しみなことである。  
       
 12月6日(月)

 後片づけ(ゴミ処理)に前の家に行くと、モミジがみごとに紅葉していて実にきれいだった。朝陽に葉が透けて輝いている。えも言われぬ美しさといえばちと凡庸だが、実際それ以外言いようがない。いずれ移植することを考えているがここで見る紅葉も見納めだ思うと多少の感慨もあるわけだった。
  並びに住んでいたU氏が2日前急に亡くなったという報せも聞いた。ハンチング帽をかぶった粋な職人さんという感じだった。いつもにこにこと挨拶してくれた。雨の日の夜に、水道水が濁り始めたことがあって、総出で水道管を掘り起こしたことがあった。その時率先して泥にまみれて働いてくれたのがその人だった。69歳だという。もう逢うことも叶わなくなった。

 12月9日(木)

 向こう三軒両隣り、といまや聞き慣れない言葉をたよりに未知の家を訊ねたのが10月のはじめのことだった。挨拶回りはこれで済んだと思っていたら、自治会長がやってきて「21軒すべてに行ってくれ。それが習慣だから」と言うではないか。200メートル先の家を示して「いまは人が住んでいないのですが、あそこも」 と。新参者が誰なのか知らないでは済まぬ、ということだろうが、全戸挨拶には驚いた。雑談の時にある人に話すと「古い因習を引きずっていますね。でも、行った方がいいです」と進言してくれる。

 12月12日(日)

 今年はじめてコート(去年義父から譲り受けた)を着た。日録によれば去年は4日だったから、8日遅いということになる。マフラー(こちらは娘からの贈り物だったような気がする)も着用した。と言っても数歩歩いて車に乗り込むと両方とも脱いで後部座席に放り込む。駐車場から職場までも10メートル足らずの距離で、一応着込んで出勤するものの、着ていくことに意義はあまり感じられない。それでも、ああ、本当の冬が始まったと実感できた。

 12月16日(木)

 なかなか時間がとれなかった電器屋さんがやっとエアコンの付け替えにきてくれた。若い見習社員をひとり連れてきてときおり指図を出しながら自身はてきぱきとした仕事ぶりである。午前9時半から始まって終わったのが午後1時、その間ずっと見惚れていた。配偶者は「こっちもそうだけど、それなりに年をとった」と評した。折々に家電製品を設置してくれたその人を覚えているのだった。こちらには、記憶がない。「社長の弟さんでしょ?」と訊けば「ちがいますよ」と言う。「似てますよね」「20年も一緒に仕事をしていれば、似てくるんでしょうね。犬も人も同じですよ」
 エアコンは無事付いたが、引っ越しのどさくさに紛れたのかリモコンがどこを探しても見当たらない。手動では、動いてくれない、というのも、まったく不便なものである。

 12月20日(月)

 ついに携帯電話を持つことになってしまった。引っ越しにともない(田舎だから夜道が暗い!)、家族の間で居場所を掴み合いたいというのが大きな理由だった。車を運転する当方はもっぱら掴まれる側でGPSチップを填められるようなものかも知れないが、過去何回かは必要性を感じることがあったわけで、是非もなしという心境である。
 そもそもこの携帯電話は、例によって言を左右にしながらなかなか決断しない父親にどういう訳か3つも持っていた娘が、ほとんど使っていない一つを譲ってくれたものである。
 持つからにはと、まわりの主に若者に宛てて『携帯“携帯”宣言』を発信したところ、まず15歳の中学生が「送れないよー」とパソコンに返事をくれた。娘に設定してもらったアドレス、「ドット」をひとつ余分に打って教えていた。  
 その後、
「デビューですね、おめでとうございます(?)」
「とうとうですか」
「やっと現代人の仲間入りですね」
「そのメガネ同様、似合わないかも」
 とか言われ、中には(女性は)、
「メールの遣り取りをできる日が来るなんて嬉しい!」
「絵文字をふんだんに使う携帯の達人になってくださいね」
 と多少は(いや大部分か)社交辞令もまじえて励ましてくれた。
 すると、今までの経緯から家の者らは「なに、それ」と冷ややかな目で睨み据える。「仮に、万が一、こちらから電話したとき、出てくれないと困るから一応知らせておかないとな」などと弁明する羽目にはなった。
 しかし、よくよく考えれば、祖父譲りの機械好きである。次々と疑問が湧いてきて、それが気になると、触らないでは済まぬ。小学生の時に死んだ祖父はそれが昂じて機械という機械を一度は分解したという。はっきりした記憶は残っていないが、組み立て直すときに大いに癇癪を起こしたろうことは我を省みて想像できる。当時の、携帯電話に匹敵する機械と言えばラジオとテレビだろうか。
 ところで、この2日間に携帯電話が受信したメールは12通。その中には「のど、かわいた。パック入り100円のウーロン茶!」などという深夜の“迷惑メール”も含まれている。近くのローソンに立ち寄ったのは言うまでもない、か。

 12月21日(火)

 今日は冬至。付き添って行ったスーパーでカボチャやゆずが大量に並べられているのを見てはじめて知った。
 朝、浄水器取り付けのために人が訪ねてくる。ちょうど配偶者が“出始めの濁り”に気付いたところで渡りに船とばかりにいろんな質問を浴びせた。
 この浄水器は大阪ガスが開発した活性炭入りのフィルターを使うもので、“ブーム”になった頃から10数年来利用している。何年か前に販売元の会社が「黒字倒産」をして別の会社に移ったと聞いていた。その辺の経緯も縷々教えてくれ、別ものでなかったと知って合点がいった。「スズヒロ(社名)というのはわたしの名前から取ったんですよ。ほら」と名刺を差し出す。姓と名の一字ずつを続けて読めばたしかにそうなる。2年分を置いていって、3ヵ月に一回の交換時期になると電話をくれる仕組みである。顧客カードを片手に、「ここに赤い字で書いてあるのがおたくに電話した日ですよ。こんなに電話しているんです」という。するとあれらの声の主はあなたでしたか。
 取り付けたあとはこのフィルターがいかに優れているかを力説、塩素も目に見えないゴミも取り除くことをポケットから今は発売禁止になっているという試薬を取り出して実験までしてくれる。
「どうです、説得力あるでしょ?」
 60前後の年配と見たが、どこか“宮尾すすむ”に風貌が似ていて、憎めない。「スズヒロ」管内で1万2千軒が利用していると聞いて、すごい営業力だと感心した。
 午後は、若い園芸職人と逢った。モミジと金木犀の移植の見積もりのためであった。のっけからいくら位を考えていますかと訊かれたから「2万」と答えると、「倍以上はかかりますね」
 木を見たあと、2人で1日がかりで手掘りして、クレーン車で吊り上げる、などと作業手順を説明してくれる。さすが本職だなぁ、と大いに納得した。
「このモミジは、立派です。私、お世辞は言いません。20万以上で売れます。金木犀とあわせると25万。かりに5万かけても、持っていった方がいいですよ」
 帰り際に「オーナーですか」と訊くと、
「オヤジが社長なんです。衝突ばっかりしていますが」
「ホームページによれば、大がかりなものをたくさん手がけていますね。こんな小さな仕事は、かえって申し訳ないですね」
「なんといっても、地元での仕事を大事にしたいですよ」
  こういう人らと逢っていると元気が出てくる。
 夕方、風が強く吹き、気温も一気に下がっていった。早々と、ゆず湯に入った。

 12月23日(木)

 南東の方角に当たる前が一面畑で、その左手100メートルのところにパラボラアンテナを擁する赤白に彩色された鉄塔(テレビ塔と思われる)が立っている。さらにその奥は送電鉄塔が林立する「新所沢変電所」である。迷惑を顧みずあちこちに写真を送るわ、携帯電話の壁紙に使うわ、はたまた道に迷ったときの目印にするわで、いまやこの風景が“お気に入り”である。大阪の姉は写真を見て「これは、東京タワー?」と返信してきた。思わず笑ってしまったが秘かに「日高の東京タワー」と呼ぶことにしたのであった。
 おりしも佐伯一麦さんの『鉄塔家族』が大佛次郎賞を受賞したことを知った。新しい鉄塔が出来上がるまでの日々が格調の高い文章で綴られていて感銘を受けていた。こんな鉄塔の真下に住むようになるとは思いもしなかっただけに、゛読書の縁”かと思った。「オレも、鉄塔家族の一員か」と呟いてひとり悦に入っていた。佐伯さん、おめでとうございます。

 12月26日(日)

 前の畑に霜が降りて一面真っ白であった。昨夜の寒さは肌をぴりりと刺す厳しさだったと思い出された。そういえば見渡すかぎりの霜景色なんてものは冬に田舎に帰った時くらいにしか見る機会がないのだった。
 詩人の山本かずこさんが高知新聞に60回にわたって連載した『水先案内本』のコピーを一気に読み終えた。“魂を廻る旅”をモチーフにしたエッセーだが、全編に守護霊や先祖の来歴が脈流していて、とても興味深かった。巧まざるユーモアが生きていて笑いを誘われる箇所もいくつかあり、いい文章だと思った。「過去三十年間、書いてきたほとんどの詩が、二〇〇四年晩秋に生きる「私」が書いたとしても不思議ではない」と最終回で述懐(韜晦?)しておられるが、20数年来のファンとして読めば、まちがいなく新境地を拓いた、と思えてしまう。年末に嬉しい読書経験だった。

 12月29日(水)

 ゆうべ家に辿り着くと同時に、前の道を若い女性が歩いてきた。間があいたもののここは明るく「こんばんわ」と声を掛けた。すると「なにさ」と突っ慳貪な返事。一瞬、しまった、と思った。警戒されたか、気味悪がられたか、それにしてもいままで見かけたことがないがどこの人だろうなどと種々考えているとさらに近づいてきて、庭に入ってくるではないか。よく見れば、自転車で出かけたはずのわが娘だった。「歩いてくるから、奥の家の人かと思ったじゃないか」と照れ隠しの弁明。
 今日は朝から雪が舞った。まわりの畑は真っ白、という報告をメールで受けていたが、夜戻ってみると跡形も残っていない。はかないとはいえ、雪は雪、いつもより早い初雪に気がはしゃいだ。寒さも格別だった。

 12月30日(木)

 ことしは3年ぶりに正月3日間の仕事をやることになった。
 この日朝信用金庫に立ち寄ったついでに窓口の女性に「新しい五円玉に両替することはできますか」と訊いた。「それはちょっとできかねます。いつ入るかもわからないので」との返事が返ってきた。困惑気味であった。5円玉を袋に入れて「合格ご縁」とでも銘打って生徒らにお年玉代わりに渡そうと思ったのである。ならば“新品”がいいという発想だった。
 年賀状を書き終えたあと、引き出しから五円玉を探し出して水で洗い、きめの細かい布で一枚一枚磨き上げていった。なかなか汚れは落ちず、新品にはほど遠い。それでも鈍い光沢を放つようにはなった。束ねた5円玉を、今年はじめて姫榊(ひさかき)を飾った神棚の前に置いて、袋詰めに備える。明日は、いよいよ大晦日。

 12月31日(金)

 昼前から二度目の雪が降りはじめ、あたり一面がみるみる真っ白になった。暗くなってからもしばらくは降りつづいた。大晦日に積雪15センチとは驚いた。
 止んだので明日の早朝出勤のために車まわりの雪を掻き出していると昼間ほどの寒さはないうえにあたりがとても明るい。これぞ雪明かりか、と思った。そうこうしているうちに前の道路をシャベルカーが走り始めた。行政の対応の早さに感心したがさにあらず、近所の人がボランティアで働いてくれているのだった。それにしてもシャベルカーというところが凄い。
 そうとわかると配偶者は例によってそわそわしはじめ、スコップ片手にいまにも飛び出していきそうな気配だったので、次々と連鎖反応が起こるかも知れない、そうなればかえって迷惑だ、と制する。(みなさん、よいお年を!)    
           


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