日  録  もみじ移植の顛末   

 
 
 2005年1月1日(土)

 早朝、昨夜(去年)の雪が残る道をのろのろと車を走らせて職場へ。磨き上げた“ご縁玉”をひとりひとりに手渡した。喜ぶ生徒の方が多くて、胸をなで下ろした。ところがたったひとつ年号が印刷されているボチ袋があって、気付いた小学生が“文句”を言ってきた。「はあぁ、1994年? もう、いい加減なんだから」引き出しに大量に残っていたものを流用したせいである。玉に瑕であったか。

 1月2日(日)
 
 寒い朝で、水道管が凍ってお湯が出なくなっていた。給湯器を設置したガス会社の指示のままにバルブ周辺をドライヤーで暖めたり、ホッカイロを巻き付けたりして、1時間も経った午前10時半頃、突然お湯が飛び出してきた。確かめることはできなかったが、もっとも有効だったのは太陽の力かも知れない。日向の雪はあらかたとけている。

 1月4日(火)

 昼過ぎに、かねて予定していた通り高麗神社に向けて出立。というと厳めしいが、この神社は距離にして10キロほど北西に行ったところにある地元の名高い神社である。当地に住み始めたのも何かの縁、ことしの初詣ではここと決めていた。
 三が日も過ぎて、容易に参拝できるだろうと思ってのんびりと出かけたがこれが大誤算だった。山への登り口あたりから渋滞がはじまり、駐車場に入れたのは2時間後だった。参道にも長蛇の列である。さすがに並ぶ気になれず、参拝はまたの日にとっておくことにした。代わりと言っては何だが、脇から社殿を眺め、熊手を買い求め、“大名焼き”を頬張りながら神社を後にした。

 1月9日(日)

 あれよあれよという間に日が過ぎていく。
 7日に早朝勤務が終わり、ほっとしたついでに1日ぐらい休みをと目論んだが、この3連休も仕事をする羽目になり、うまくいかないものだと早くも挫折を味わう。これからの1,2ヵ月が“体力勝負の日々”となるときに休みを求めるなどというのは、やはり気力が衰えているということだろうか。
  友人らの年賀状には「あと数年で定年」という文字が申し合わせたように並び、大別すれば「それまでに○○のプロジェクトを完成させねば」という類の燃焼型と、「定年後は陶芸で暮らすことに決めた」という移行型に分けられるようで、それぞれの性格を反映しているのだろうが、面白いものだと思った。ことしは、これらの友人たちと逢って、来し方を語り合いたいとふと考えた。やはり、明日を含めた未来よりは過去に眼は向いている。

 1月10日(月)

「ご成人おめでとう!」のメールを二人に送ったところひとり(女性)は「がんばります。素敵な大人になりたいです」と返信してくれたがもうひとり(男性)は「まだ、成人ではありません」と“抗議”してきた。元生徒の年を数えまちがうとは、ヤキが回ったものである。そうこうしているうちに「失礼なことをお聞きしますが、今日お誕生日ですか」というメールが入った。アドレスに数字を使っているので、そこから推理したと思われる。すぐに、残念ながら二十歳ではないけどね、と返信すると続いてお祝いの言葉を連ねたメールが届いた。これが本日唯一の“祝辞”となって、年甲斐もなく嬉しかったのであった。ありがとう、鈴。

 1月13日(木)

 発表時間を待ちかねてインターネットを開くと合格者の番号が現れる。あらかじめ聞いていた番号があるかどうかをちょっとドキドキしながら眺めていく。もうそんな時期になったのである。一年は、早い。ある学校は、受験生のIDとパスワードを打ち込まないと合否がわからない仕掛けになっていた。プライバシーの保護のためだろう。こちらは、「IDが受験番号でパスワードは電話番号」と事前に情報を知らされていたので合否を確かめることができた。いやそんなことよりも、このあと一ヵ月以上にわたって悲喜交々のドラマが繰り広げられる、そのことが重要なのだった。 
 
 1月15日(土)

 未明から雨。みぞれまじりでいつ雪に変わるか楽しみでしばし見つめていたが、いっかなその気配はなく、終日冷たい雨となった。11日ぶりの休みも『影武者徳川家康』(隆慶一郎)の再読で大半を費やした。上巻の終わりくらいまできた。筋書きの面白さもさりながら独特の歴史観についてなかなか勉強になる本だと今回は感じている。網野善彦の『無縁・公界・楽』も読み直してみたいと思った。
 夜半に窓を開けると季節はずれの風鈴が軽やかな音を立てる。雨足も強くなって、風も出てきた。耳を澄ませば霰(あられ)の気配。やがて雪になるか、と。

 1月20日(木)

 記念樹の楓と金木犀の移植の日。早起きをして、1.5屯のクレーン車のために今日一日駐車場を空けてもらうことになる4軒に挨拶回りをした。年を越したとはいえ、これが完了すれば、長かった引っ越し作業にも終止符が打てる。この秋にまた見事な紅葉を居ながらにして見ることができ、金木犀の匂いを嗅ぐこともできる。幾重もの意味で心待ちにした日であった。
“時価20万円の楓”と評価してくれた若い植木職人は、午前9時にやってきた。散らかしたままにして置いた木の枝をてきぱきと片づけながら、垣根の破れ目からショベルカーを入れたい、そうすれば作業はうんと早い、と言った。早いのはこちらの望むところでもあった。
「立ち会わなくていいですよね」
「ずっといてくれてもいいんですけどね」
 2時間後に来てみると、残念ながら撤去せざるを得なくなった真ん中の巨木(夾竹桃)が完全に掘り起こされていた。パワーシャベルは一仕事終えていたのである。これからまさに“本丸の楓”にとりかかるところで、木によじ登り、細い枝に足をかけて、広がった枝を小気味よく剪定する様やショベルカーが土と格闘する様子などを1時間にわたって見物した。
「枝はノコギリを使わず手で折れ、と教えられたものです」と植木職人。
 幹を離れた枝を集めるのを手伝いながら「けっこう嵩が張るもんですね。見上げている分には、こんなにあるとは想像できない」これは凡庸ながらわれの発見。風の通り抜ける空間(そら)は広いということか。午後からの仕事がなければ、ずっと作業を見ていたかった。
 深夜近く、帰り道にちょっと立ち寄って庭を覗くと、二本の木はまだ立っていた!
 家に着くと、予想以上に根が土に固く食い込んでいて作業完了せず、との報告を受けた。子供らが遊びまわる土日は避けねばならない、かくて移植は来週に持ち越し、となった。
 さすが樹齢25年のいきもの、簡単には参らぬぞ、と言うか。

 1月27日(木)

 若い職人に急用ができたためその父親の社長が楓と金木犀を積んだクレーン車でやってきた。
 楓の枝の切り口からぽたぽたと水が垂れているから「すごいもんですね」と話しかけると「モミジはよく水を吸うんですよ。飲めますよ」と教えてくれる。早速指先に掬って口に運んだ。甘みがあるかと思ったが、純水だった。無の味か。
 これを皮切りにあとを付いて回るようにして庭に植わっている木や草花の名前にはじまって疑問なことを手当たり次第に質問していった。その都度仕事の手を休めて、即座に、わかりやすく説明してくれる。
「それは自分で植え替えた椿です。葉が枯れかかっているんですが大丈夫でしょうか」
「侘助というやつですね。茶会によく使います。私も長年お茶をやっていて、ついこの間も茶席に持ってきてくれと頼まれました。開く寸前の花を探すのが大変なんですよ。あとで薬をかけておきます。大丈夫でしょう。夏が暑いとたくさんの花を付けます。」
 そういえば移し替えるとき白い可憐な花をたくさん付けていた。こんな時に移植とは忍びなく思ったものだった。しかしこれが“有名”な侘助だとはじめて知って、苦労して持ってきた甲斐があった。
 他にネズミモチ、ドウダンツツジ、千両と万両、百両、十両のちがい、あじさいの剪定方法など、メモをしておかないとすぐに忘れてしまうようなことをたくさん教えてもらい、思いがけない野外授業となった。
 作業は夕方までかかったようだが、かくて移植完了。ほっとした。  
                      
 1月30日(日)

 この冬一番の寒気が北方上空にあって南下を続けているという。それを裏付けるように空気がピリピリとして、風が吹くと肌が凍てつくようである。駐車場まで数十メートルとはいえ、オーバーコートが要る。どうせ着やしないとこのところ家の中に置きっぱなしにしているが、今夜ばかりは後悔した。


 


行逢坂に戻る
メインページ