日  録 効験あらたかな石   

 2005年4月1日(金)

「私がいま、はまっているものなんですよ」と生徒の母親から差し出された重そうな箱の中身は? 
 一升瓶2本である。夏にビールを届けてくれたりする人もあるが、「御礼」の品物として日本酒ははじめてであった。早速開けてみると、越後は栃尾市の地酒。そのうちの一本「景虎」を持ち帰ってきた。御神酒として神棚に供え、自らも数杯を飲み(辛みがとろりとして旨い!)、まさに神餞共食、有り難いことであった。

 4月3日(日)

 夜に入ってから激しい雷雨あり。このところあまり出合わないモノだけに緊張と同時にときめいた。こいつは春から縁起がいいや、という気分だった。二階に上って窓を開けた。光る空を期待したが、どこにもなく、もはや去ったあとのようだった。惜しいことをした。縁起とはこんなものか。
 白木蓮が花を開いた。前の住まいから裸同然にして持ってきたレンギョウも黄色い花を数弁つけている。その前の四葉町から持ち歩いている蔓バラも芽吹いてきた。気がかりは、ネムノキとムラサキシキブ、それにミニザクロだけとなった。いまだに芽が出ない。もっと大事に移植すべきだったと悔やまれる。引っ越しやつれが、これらの木々を無造作に扱わせたのにちがいない。
 とまぁ、こんな風に植物のことを縷々書き連ねると、吉本隆明の言を借りれば“世の中と和解した”ような気にもなって、これはこれでさびしさに捉えられる。

 4月8日(金)

 二日ほど前、終電に間に合わなくなった娘が電話を寄越して迎えに来いという。そのときは、まだ職場にいた。その夜のうちに片づけて仕舞わねばならない仕事があって、当分終わりそうになかった。近くのファミレスにでも入って2時間程度時間をつぶすか、タクシーで帰るか、どちらかだな、と言うと、タクシーにする、との返事だった。
 30分ほどして鍵を持っていない(忘れた)という電話があった。家に辿りついてはじめてそのことに気付いたらしい。休みだったはずの配偶者は、人手不足から急遽呼び出されて留守である。万事休した娘は電話の向こうでいかにも情けなさそうである。休耕中の畑に囲まれた暗い庭で縁台に坐って、いつとも知れない小生の帰りを待つしかない。あとで聞いたところでは、開いている窓はないかと家のまわりを歩き回ったそうである。
 鍵を忘れたのは自分のせいだが、他のことがいつもの日常と90度ほどぶれたための“不幸”とも言えた。
 4年間住んだ部屋を引き払ったあとの感慨を女子学生がメールしてきた。
「(厄介な片づけが終わって)嬉しいやら、寂しいやら。日常が、明日から非日常になることが、こんなに寂しいだなんて」
「引っ越しは旅に似ていますね。それも長い旅に」
 いつかまた、戻ってくればいい、かつて住んだ町に、というほどの意味を込めて返信した。
 今回の“娘の不幸”もほんの小さな非日常。いつかいいこともある、その前触れとでも思わねば、と云々。

 4月9日(土)

 今日、ネムノキとムラサキシキブに新しい芽が吹き出しているのを確認した。それと知らずに移植していたユキヤナギが白い可憐な花をつけていた。ミニザクロにも赤紫色の小さな芽をみつけた。半年あまりもの間枯れ木のように突っ立っていたのに、ちゃんと生きていたんだなぁ。ちょっとした感動だった。これで樹木に関するかぎり気がかりが消えた。

 4月10日(日)

 朝、満開の桜の並木道を何回も通った。昼前には近所の人に呼ばれて、小一時間花見をする。孫の誕生に合わせて十年前に植えた桜だという。20メートルほどの高さに育っている。根が隣家の浄化槽に食い込む勢いなので早晩切らねばならず、花見も今年限りかも、と聞かされたので行ってみる気になった。沖縄みやげのガラスのお猪口で「景虎」をつい何杯も飲んでしまって、早々と眠りに就いた。寝入り端に小石川の桜の写真が携帯に送られてきた。夢の中で桜花がさかんに散っている、とでも書ければよいのだが、夢も見ずに寝入っていた。

 4月12日(火)

  この寒さに、孫引きながら「花冷えが胸のいたみとなってくる」(『風人日記』4月12日版参照)という句を終日呟いていた。義母が腰を痛めて動けないというので配偶者は急遽富良野へ。関東は、その北海道よりも気温が低かった、と深夜のラジオが言っていた。寒くなれば物思う、そんな仕組みであるのか、人は。

 4月14日(木)

 一ヵ月ほど故国に帰っていた中国人留学生が職場に「菊花茶」を置いていってくれた。食用菊の小花を乾燥させたものである。袋の表面に無造作に(拙い字体で?)書き添えられた飲み方に従って早速飲んでみた。飲み心地はマイルドで、なによりも香りがよい。こうなれば「効能」を知りたくなるのは悪い癖だろうか。
 おりしも中国での反日デモ、歴史に学ぶことなく逆行していく日本の政治に対する警鐘と受けとめるべきである。外務大臣の「(デモ隊による被害にたいして)賠償請求も考えている」という発言などは、なにをか況わんや、である。まったく唖然とする。

 4月16日(土)

 いつになくひっそりとした職場に、中学生になったばかりのMがぬっと顔を出して、
「オリエンテーション合宿のクイズ大会で都道府県をあいうえお順に並べたとき栃木県は何番目になるでしょうか? というクイズがあって、アメジストは直感力だ書いてあったのでぐっと握りしめて、25番! と答えたら、当たったんだよ。へえぇ、効くジャンこれ、と思ったよ」
 と語った。
 先月の終わりに、アメジストの勾玉(もとより安物だが)をホワイトデーの贈り物として郵送した子である。指示通り香を焚いて清めたあと、制服のポケットに入れて持ち歩いている。ときおり握りしめてパワーをもらっている。極めつけが「25番!」であった。その報告に寄ったのだという。本人はかなり泣き虫だが、なかなか泣かせることを言う。
 ことのほか女子に厳しいといわれている就職戦線だが、目下就活中のTには「出世運・金運の石」を贈った。聞くところによると、枕元に置いて眠るとき・起きたときに手を合わせているそうである。いまだ吉報はないが、いつか御利益(そう言っていいのかなぁ)がおりる、と信じている。
 分相応の石をわれも探しに行こう、と決意する日であった。

 4月17日(日)

 HP作成ソフトのマニュアルを引っ張り出してリニューアルに挑戦しようと思ったが“文法”が皆目分からず、たしかもう一冊あった解説書も出てこずいったんは断念した。夜中になって、ちょっと悔しさが込みあげてきたので、我流で再度試みた。これが限界だったが、多少はすっきりしたかと自己満足。

 4月18日(月)

 心臓はパクパクするわ、肩は痛いわで、いつにもましてブルー・マンデーとなった。寝不足が祟ったのかも知れない。
 枯れ木から吹き出した新芽は日とともに伸び、毎日眺めるのを楽しみにしている。見ている間にもぐんぐん成長していくのがわかるほどだ。これでは、人も負けてはいられまい。自身を枯れ木などとは思ってはいけない、と窘められる。

 4月20日(水)

 今日は二十四節気の一つ「穀雨」だったそうで、朝からずっと降り続いていた。百穀を潤す雨、でまちがいない。
 饗庭孝男の『故郷の廃家』が読みたくてインターネットで注文を出したところ2週間ほど経って「在庫切れ」との理由でキャンセルされた。インターネットも万能ではない。
 目下都内の本屋で探してもらっているが、「幾年ふるさと/来てみれば/咲く花鳴く鳥/そよぐ風/門辺の小川の/ささやきも/なれにし昔に/変らねど……」 かつて歌った記憶もある唱歌が「故郷の廃家」という題名であることを思い出した。硫黄島で玉砕した少年兵がふるさとを思って歌っていたことや昭和40年代にはいると学校でもぱったり歌われなくなったということを、インターネットのサイトで知った。こちらでは役に立った。

 4月27日(水)

 7日ぶりである。日付だけ打ち込んであとが書けない日が何日も続いてしまった。
 月曜朝に、尼崎の列車転覆・激突事故が起こった。地震の時のように被害が刻々拡大していく様に唖然となった。当初映像から「これはこんなものではすまんな」と思ったものだが、いま現在、予想をはるかに超える大惨事となっている。
 運命というにはあまりにも惨(むご)い。

 4月30日(土)

 29日、当方には三連休の初日、とにかく暑い日であったが、めげずに玄関回りの草むしりを行った。鬼タンポポ(正式な名前かどうか知らない)がこの一ヵ月で急速に背丈を伸ばし、高いものは腰に迫るほどだった。
 今日も、100円ショップで鎌を買ってきて、高い木々の下に生い茂った雑草を刈り取った。鎌はよく切れるし、爽やかな風が吹き渡って、昨日よりもはるかに寛やかな気持ちとなった。
 その折りに通りかかったAさんが「雑草も肥料ですから」と声をかけてくれる。Aさんは前の畑で無農薬野菜を作り最近『無人販売所』を開店したばかりである。畑の一角には鶏小屋もあって、生みたての卵を近所の人に分けてくれる。そのAさんの言であってみれば、名を知らぬ雑草にも愛着が湧き、撫でるように切り取っていかざるを得ない。

『故郷の廃家』(饗庭孝男著)を読み終えた。同郷とはいえ、鈴鹿山脈の麓で生まれ育った当方には湖西・湖北は未知の世界に等しいが、似通う習俗が感じられてなつかしかった。それよりも、祖父母、父母、兄弟、叔父・叔母に筆が及ぶとき、等身大の作者の顔が浮かび出て背筋が凍るほどの感動を覚えた。いい読書をした。     
     


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