日 録 夾竹桃の咲く夏 

2001年7月1日(日)

 なま温い風が部屋の中を通り抜けている。外は猛暑を思わせる天候であろう、と容易に想像できる。近所の誰と特定できる人の会話、こどもの歓声、小学校からのスピーカー越しの声などが、風に乗って聞こえてくる。
『図書』7月号は、いつになく充実している。ずっと欠かさず読んできた三木卓の連載(今回が最終回、全36回)はもとより、リービ英雄、増田れい子のエッセーとなかなかに感銘深い文章が並んでいる。この二つについて言えば、前者は中国の奥地への旅の中から「ジバン」という言葉を拾い(聞き)出し、いまや常住している「日本」に思いを馳せる(連載らしい)。後者は「洗う」という動詞から幼・少女期を追想し、「洗わない美」を探り出してみせた。ともにイメージがくっきりと結び、読者を納得させてくれる。『一冊の本』もそうだが、出版社のPR用小冊子にかえって、正統的な文学の力が残っていて、有り難いのである。

 7月2日(月)

 小さな頃、昭和35年(1960年)前後だが、どんな遊びをしていたのだろうか、と考えた。外でならば、刈り取った田圃の中での野球、川やダムでの魚とり、山を巡って木の実や松茸を採った。メンコやラムネ玉でも遊んだ。神社や寺の境内では陣取りゲームなどもやった。ところが、屋内での遊びの記憶があまりない。トランプや花札も知っていたはずだが、どんなときにやったのか思い出せない。
 唯一の記憶は、台風の夜のものだ。雨戸を風で飛ばされないように縛り付けたあと、家族六人が居間に固まって、眠れない夜を過ごした。いつもは口にできないお菓子なども買いそろえて、さあどうやって時間を過ごすかという段になると、きまって停電になる。ローソクのあかりをたよりに、姉が難しい漢字を出して、どうだ読めるか、と聞く。時雨、鮨、梅雨などに混じって「大仏次郎」が出題される。「だいぶつ」と期待通り読むと、笑い飛ばされる。そのうち、漫才師の名前を次々に挙げていく。「他にいるでしょ、もっと面白い人が」「うーん、ミヤコ蝶々・南都雄二」。そんなことも、いま思うと楽しいゲームだった。その夜の台風が、伊勢湾台風だったとの確証はないが、年代的にはそのころのことであるはずだ。

 7月3日(火)

 雨はどこへいったのか。昨日が半夏生だった。夏至から10日目、古来梅雨の明ける日とされているが、本当に明けてしまったのだろうか、朝から盛夏の装いとなり、日中は、半端でなく暑かった。
『一冊の本』7月号到着、目次をぱらぱらと覗く。「特集 知事の読書」はナンセンスきわまりない(Oさんが編集長ならこんな企画は採らないだろう)が、加藤典洋氏の連載「現代小説論講義」は期待が持てそうである。「生きた対象としての小説に、いわば市井に生きる医者として対してみたい。批評ならぬ評論の面白さを復活させるつもり」と冒頭にある。おりしも今日の夕刊で高橋源一郎さんが(これも朝日新聞!)、「人々が生きている現実の世界のただ中に(小説を)放り込むこと、そのことによって小説も、それを読む人々も、いや、この国と時代そのものも成長していく―それが漱石の見た「夢」であった」と書いている。完結した自身の連載小説『官能小説家』のモチーフに触れた部分の一節であった。時を同じくして偶然目にした二つの言説と二人の文学者は、ともに信じるに足る、と思った。
 ふと、田舎にいるころ、母が背を丸めて畳の上に広げた新聞におおい被さるようにして、連載小説を毎日欠かさず読んでいた姿を思い出した。何の小説だったのか、しっかり頭に刻んでおくべきだったと、いまは悔やまれる。母に、今度聞いてみよう、か。

 7月4日(水)

 いまどきの高校生の修学旅行がどんな思想を背景に持ち、どんな風に行われるのか、興味も関心もなかったが、この夜「携帯の光り」と聞いて、俄然興をそそられた。時代を感じずにはいられなかったのである。
 その男の子は北海道に行っているが、宿泊先のペンションでは、10時半になるとブレーカーを落としてしまうらしい。ペンションというから、札幌郊外の森の中かも知れない。一切の電気器具は使えず、友達と携帯のディスプレイの明かりをたよりに、真っ暗がりのなかで、おしゃべりをするしかないんだ、と言って出かけたという。車座になった何人もの若者たちが、各々掌に持った携帯電話を真ん中に突き出せば、さぞ明るいことだろうと感心する。「蛍」の比ではない。紛れもなく、新しい使用法であると思った。
 ところで何を話して、夜更かし(オール!)するのだろう。「ろうそくの灯を囲んで怪談話」の世代から予想させてもらえば、順繰りに、一番大事な人に電話をかけていく、などというゲームも編み出されるか、と。まさかそれぞれが勝手に、自分の携帯電話を相手に本物のゲームに興じるなどというのはないだろうなぁ。老婆心から、そんなことも、考えさせられた。 
 猛烈に暑い一日だった。じっとしていても汗が流れて、陽光を照り返す向かいのビルの白壁が、癪に障る。

 7月5日(木)

 夕方出勤の娘を駅まで送り、その足で一つ先の駅にあるスーパーへ配偶者を運ぶ。ここには「リトル マーメイド」というパン屋が入っており、配偶者のお気に入りである。広島時代には、本店(アンゼルセン)を通りかかるたびに、なぜかフランスパンを買っていた記憶がある。カープが優勝すれば、安売りセールに参加するはずのお店であり、ぼくも贔屓にしている。ほんとうの目当ては、向かいの本屋GOROであった。田久保英夫氏の『仮装』と佐伯一麦さんの『無事の日』を買う。欲しい本が必ずあるので、重宝する。
 夜半、月食が終わりかける頃、庭で小鳥の声、わが家のキイロと同じ鳴き声が、二度、三度。不審に思って、居間のガラス越しに懐中電灯の光を当てて監視する。そのうち、猫が現れ、物色中の風情である。配偶者の思いは、朝、鳥の死骸を見たくないという、一点に尽きる。じっと監視すること十数分、「草が揺れている」の一言で庭に降りてみるとはたしてインコが草むらにうずくまっていた。すぐに救出して家に入れる。執念は実った。「私の勘が当たった。危機一髪だったね」と配偶者。目のまわりや尾に緑のメッシュが入った黄色いインコである。キイロと一緒にするとストレスになるからと、網のかごを二つ、互い違いに重ねあわせて鳥かごを作り、並べる。キイロは、一緒に飼い始めたアオが死んでから、もう五,六年ひとりで暮らしている。寂しかろうと、雛を求めたことが一度あったが、何日もせずに死んでしまった。ともあれ、飼い主が現れるまで、キイロには、「隣人」ができたことになる。月の贈り物か。

 7月6日(金)

 全国各地で雨が降っているというのに、関東だけは「晴れ時々曇り」であったようだ。夜にぱらぱらと落ちてきたが、雀の涙程度。洪水の被害ないし危険と隣り合わせの地域の人には申し訳な言い種だが、シャワーのように降って、熱気を洗い流して欲しいと思う。
 さて、迷子のインコは、早朝に同じ棟の三つの掲示板に張り紙をして飼い主を捜したが、名乗り出る人はなかった。青菜やエサを食べはじめ、家に入れてから一度も鳴かなかったのに鳴きはじめ、いよいよ、情が移らないうちに早く元の飼い主が見つかればいい、と話し合っていた。向かいの棟の人かも知れないから同じモノを貼っておこうか、と考えもした。夕方になって、すぐ上(二階)の人が「いなくなっていることに、気付かなかったんです」と申し出てきた。あっけなく、落着。このことでは、きっと真上の人にちがいないというぼくの勘が当たった。張り紙を見て、朝早くに駆け込んでくるはずだという予想は外れたが。キイロには、たった二〇時間足らずの「隣人」、とんだ「まれびと」とはなった。

 7月7日(土)

 詩人の朗読を収録したカセットテープ雑誌「こうせき」の復刻版CD(midnight press刊)についての記事(5日・朝日夕刊)を読んだ。発行人の岡田幸文さんのコメントも載っていた。好意的な記事につられて、HPで公開されているサンプル盤のなかから、谷川俊太郎氏の朗読を聞く。なかなか、味わいはある。この調子で50人近くの詩人の自作の朗読を聞くとなると、どんな興趣があらたに持ち上がるのか、と思った。音楽を聴くような感じとも違い、小説の朗読とも違う、意味と無意味の境目で言葉の力を実感することになるのだろうか。その記事では、目下3000枚出ていると書かれていた。「これは凄い。大ヒットだ」と喜んだが、HPには「500と読みかえてください」との“訂正”が入っていた。

 7月8日(日)

 何人かの友人に、Eメールにて、「暑中見舞い」を出す。ちと気が早いか、と思ったが、この第一次熱波に気を付けるに越したことはない。夜中、偶然見たテレビで日傘の特集をやっていた。黒い日傘が若い女性を中心に売れているという。紫外線のカット率が、白っぽいものよりもかなり高いらしい。大ブレイクと報じていたから、「娘と日傘」を、地方都市、たとえばダイエー通りでも、もうすぐ見られそうである。次は、男が日傘を手にできるか、である。と書きながら、つくづくくだらんことを考えるものだと、やや自己嫌悪。

 7月10日(火)

 インコ、つまりわが家のキイロのことだが、学習能力がどの程度のモノか常々疑問に思っていたが、なかなかに賢いのではないかと考えを改めた。というのは、夜中の12時を過ぎてかごに近づくと、はげしく鳴きながらスライド式の出入り口に降りてくる。数日前、同じ時刻に外に出してやったから、「出せ出せ」とせがむのである。何日間か出さないでいると、降りてくることもなくなるというのもまた、学習なのだろう。宮崎の山里に住む友人は、毎朝の散歩の途次、口笛で鳴き声を真似て呼びかけるとウグイスはきっと返事を返してくる、と書いていた。それが、誇張なしに、信じられる。

 7月11日(水)

「似ている」と言われて脂下がるほど、初(うぶ)ではないが、まじめな顔で言われれば悪い気はしなかった。しかし、「近藤正臣」は、身びいきから実姉が30年ほど前に使ったきりで、そのことも思い出されて、つまり、意表を突かれた。もっとも、この名前、うんと若い人はもう知らないだろう。知っているとすれば、蚊取り線香のコマーシャルに動物のぬいぐるみを着て現れるヘンなおじさんとして、か。言った人も、40代のご婦人で、「わたしら、この人の世代ですから」と注釈をつけて、暗に、そのCFを“拒絶”した。
 誰しも自分ではない誰かに似ているものだろうが、さまざまな「虚像」との相似点を見つけて、他人や自分を「理解」するよすがとするものなのか。ところで、家の者らは「蟹江敬三」と言い、かつては「ジャン・ピェール・レオ」とも言われた。これには、ある映画(題名はもう忘れてしまった)の彼の役どころをなぞりながら、しばらくいい気分になっていた記憶もある。いやいや、自慢話なんかではないのだ。全人格が顔に現れてしかるべきだと、いまは思うのであった。
 西日本を通り越して、関東・甲信地方が梅雨明けしたと発表される。名古屋と松山の友人が返信メールの中で期せずして同じ「天変地異」という言葉を使っていた。日々の生活に追われている身には、なるほどそういう見方ができるんだと、妙に納得させられた。すると今日の夕刊(毎日新聞)には「ダイポールモード現象」について、山形俊男東大教授へのインタビュー記事が載っていた。インド洋西部の海水温が上昇する現象だそうだが、6月からの猛暑の原因としてクローズアップされている、という記事だった。こちらが、雨が恋しい、梅雨はどこへ雲隠れしたかなどと、情緒的な言辞を弄しているときも、異変の原因を究明しようと働いている。すごいものだ。研究者、あらまほしきものなり。

 7月13日(金)

 仕事の最中に伸びた爪の先を見て、ついこの前に切ったばかりなのに、と不審な気がした。しかしその感じは長く続かなかった。それだけ日の過ぎ去るのが早いということだろうと考え直さざるを得ない。実際、猛暑だ、熱暑だと言っている間に7月も半ばになっている。いつの間にか参院選も始まっていた。
 自由連合の比例区名簿に、中学と高校が同じだった“幼なじみ”みたいな男の名前を見つけた。政治に関わる仕事をしていると風の噂に聞いてはいた(中学校の生徒会長だったことも覚えている)が、いきなり国政の場に出てきた。この男にも、長い年月が、ひとなぐりの風のように過ぎていったにちがいない。夕刻、雷雨と激しい雨。いっときの異変であった。空からお湯が落ちてきた、とは、雨を避けられなかった者の、痛恨の弁。
 ところで、47人もの候補者を擁した自由連合って何なんだろう。

 7月15日(日)

 この2日ばかりは、午前7時に目が覚め、『仮装』を読み継いできた。表現の奥床しさを堪能しながら、読了。タイトルの言葉は長い物語の中盤に、一度だけ出てきた。書くという行為の中に潜む業を、芸術家の卵である若い女性とのアフェアーを通して暴いていく様は圧巻だった。仮装を剥ぎ取ることは、自身ではできないものなのだろう、と実感する。
 配偶者を職場に届けた帰り、6キロ、時間にすれば10分少々の道のりが異様に長く感じられる。考え事をしていたせいだろうか。日の過ぎ去るのが早いと感じる一方でこんな10分もある。その間、田舎の景色がずっと、見えていた。
 また、その前、家路に向かっているときは、スピードの一定しない危ない車を追跡する羽目になった。ガードレールにぶつかりそうになるかと思えば、黄色いセンターラインを超える。ブレーキ灯も頻繁につく。酔っぱらい運転の典型と思えた。距離を計りながら従いて行くこと10分。大きな交叉点で右折レーンに入った時、横につけて顔を覗いた。スーツらしきものを着た若い女性だった。背に凭れて、天井を仰いでいた。顔は蒼い。目を瞑っているようだった。夜目にも、疲れが忍ばれ、ふいに同情も湧いたのだった。

 7月17日(火)

 夜半近く、北上していると、前方の空に稲妻が走り、雷鳴が轟く。平板な田園風景が何度も何度も閃光に照らし出される。関東平野は、だだっ広い。眩暈、太古の闇、という言葉が脳裏を駆け巡る。すると、川越線の踏切を越えた途端に、豪雨。おとといの夜に蛇行する車を追尾していたあたりである。ワイパーを2倍の速さにしてやっと路面が見えるほどだ。ラジオのニュースは、局地的に30から50ミリの大雨と報じている。十数分後、金属をたたく大粒の雨の響きが心地よく聞こえ始めた頃、ぴたりと止む。いつの間にか、市街地を抜けていた。

 7月18日(水)

 午前、昨夜の余韻を感じさせるような曇り空。暑さも、なまなかでないものがあって、クーラーを入れっぱなしである。『無事の日』、いくつかは雑誌掲載時に読んでいるが、一編ずつ精読。この文章、心が和んでいくから、不思議だ。少し前に、ラジオで「嫌犬家」の朗読を聞いたときも、そうだった。鞄に詰めて職場に向かった。夜、雨。クーラーを切り、窓を開け放って、耳を澄ます。小説の言葉が、すとんと腑の底に落ちていく。今期の芥川賞作品もいずれ読んでみたいと思った。

 7月19日(木)

 午後5時前、雷をともなう激しい雨が降りはじめた。数分間突風が吹き荒れる。西からと東からの風が、庭を行き来した。サッシの窓が揺れ、雨音が響く。竜巻に発達する少し手前と思えた。鳥かごをだかえて、居間の中央に避難する配偶者の姿は、あとで考えれば苦笑ものだが、か弱い鳥が竜巻に攫われるかも知れないという恐怖は、そのとき、こちらも共有した。雑然とした庭は、雑草がなぎ倒されて、さながらストーンサークルのようになっていた。
 夜、留学のためにアメリカに発つ紀の壮行会。学生、社会人とりまぜて20人ほどが集まる。なかにはなつかしい顔もあり、「主役」そっちのけで、回顧や近況を語り合う。それでも、ひとりひとりのポラロイド写真を撮ってそこに一言メッセージを付けるという趣向を若い者が考え出したりして、出立を祝ったのである。素直で、のびやかな人柄が、人を惹き付ける、と改めて思う。そのなかでは最年長の者として、留学生活が実り多いことを祈るのみだ。2次会で酔いを醒まし、午前2時、当局に咎められることもなく、帰宅。

 7月20日(金)

 夏の特別カリキュラム前の、空白の4日間の一日目。留守番をかねて出勤。一番苦手な、事務的な作業が山積している。一つ一つ片付けていくのでなければ、埒が明かない。一つ一つというところは、生活の知恵か。合間に、4人の来訪、3件の電話があって、この作業も中断される。出がけには、文庫本の一冊も忍ばせていこうなどと思ったから、よほど欲張りなことであった。先々で夏祭り、花火大会が行われたらしく、団扇片手の浴衣姿や親子連れに出逢う。車もいつになく多く、帰り着くのに二〇分も余分に時間がかかった。これが欲をかいた報いだったのかも知れない。

 7月21日(土)

 午後10時、駐車場から右折で出ようとすると、車道は神社から戻ってくる大勢の人で溢れかえっていた。そこは、駅前のメイン通りに当たっているから、市最大の夏祭りのためについさっきまで通行止めだった。それは知っていたが、出口はその道しかない。人の波を縫って進むしかなかった。のっそりと進行方向に向き直る直前に、建て替えのために目下更地になっている自宅兼店舗前で夕涼みする店主の奥さんと目が合った。助手席側の窓を開けて、二言、三言、あいさつを交わす。すると奥さんは、何人かで取り囲んだテーブルの上の西瓜を指差して、「食べていきませんか」と誘ってくれる。一度目は断ったが、「いまお帰りですか。どうですか、一つ」と二度までも言われるとさすがに食指も動き、往来のど真ん中に車を停めて、赤く熟れた西瓜をいただく。祭りのあとの、楽しい団らんに、仕事帰りの男がひとり加わる。それは祭の“余興”みたいなものなんだろう。そんな経験は記憶の中にいっぱいあって、ひたすらになつかしいのであった。

 7月22日(日)

 昼過ぎ、市役所にて不在者投票を済ませたあと、家族三人、「飛燕」でラーメンを食べる。クーラーは利いていたが、食べ進むにつれて、汗がじわっと吹き出て、躯に活力が戻ってくるようだった。夕刻、伊勢原のスーパーにて財布を拾う。片手に掲げて、これを落としたのは誰ですか、と叫べばすぐに持ち主は現れそうな状況だったが、一応レジに持っていった。「いま、店長を呼びますから。あなたの名前も書いていただかなければなりません」とレジの女性のマニュアルに添ったらしき説明。こりゃ、おおごとだ、と一瞬、何かしらの後悔が頭をもたげた。しかし、いまさら引き下がることもできず、書類に署名、店長の感謝のことばを背中で聞き流しながら、いったんはぐれた配偶者を捜す。案の定、家に戻って2,30分もすると、落とし主からお礼の電話があった。

 7月23日(月)

 今日が「大暑」だという。節気通り、夜になっても大気の熱、熄まず。開けた窓からは、土や草の、焦げる寸前のきな臭い匂いが絶え間なく流れ込んできた。生まれてはじめて嗅ぐ匂いだった。草いきれなどというなまやさしいものではなく、森羅万象の喘ぎにも思えた。明日から、生活スタイルが変わる。早朝から、夜までの長丁場である。二,三の人から、メールにて励まされる。気遣われ、労られる年代になったということかも知れない。

 7月25日(水)

 昨日よりも今日の方が5度程度気温が低いという。それでも33度だが、体感上、幾分過ごしやすい。“慣れ”または“狎れ”は、一般的には恐ろしいと思うが、体温を超えるようなこの暑さには金輪際なじめそうにない。
 車を走らせる時間帯が早朝に変わって、またちがった風景を目にしている。渋滞も半端ではなく、その分道行く人の表情が仔細に観察できる。それが別に楽しいというわけではなく、人を見つめることは所詮自分を凝視することであって、そんな回想の合間にときおり湧いて出る妄想の類、これはけっこういける。いまどきの学生のレポートのテーマ「視覚言語の記号化」と言えばデジタル的だが、さしずめ自分は「視覚の言語化」と読み替えないと納得できない、旧世界の住人である、らしい。発想の奇抜さや、独創からは、ちょっと遠いのである。人の、生活の営みに、「発見」の夢を託して、また明日の朝も早い、と云々。

 7月27日(金)

 夾竹桃が、枝先にピンクの花をたくさんつけて、咲き揃った感がある。引っ越し以来、庭の真正面に陣取っている。何回か枝を払った。それでも、ぐんぐん大きくなって、いまや左となりのモミジの大木と変わらない。元は、宮内勝典さんからもらった鉢植えの小枝であった。その宮内さんは、街路樹から失敬してきて土にさしておいたのだと言った。生命力の強い樹であり、葉は野性的だが、花は可憐。この樹も、娘の小学校入学記念のモミジと同じ20年。なんにでも来歴はあるものだと、ひとしきり、感慨に耽る。
 先の会の席で、立教大学交響楽団の直人から一枚のMDを借りていたことを思い出した。鞄の底から引っ張り出して、娘の部屋で聞く。ステージに立つ直前にでも録音したのか、緊張感が伝わる音の連続だった。このMD、「自分らの、演奏が入っているんですよ。よかったら、どうぞ」と言われて預かったのだった。その記憶が一週間以上も、抜けていた。当日、酔っぱらって、なにもかも忘れましたよ、という学生を笑えない。
 昨日は、掌がジンジンした。疼くというのではなく、低周波の電波を発しているかのように、火照っているのであった。
 早朝、配偶者を仕事先から乗せて戻ると交叉点にきまってひとりの婦人が立っていたものだった。どんなときにも傘をもって、人待ちの風情だった。身なりは尋常とはいえなかった。いろいろな想像を煽った。待っているのは夫ではなく、こどもにちがいない、とか。何かしらの不幸の影も感じられたのであった。その婦人も、近頃見かけなくなった。打って変わった涼しさの夕刻、それを思い出した。佐伯一麦『無事の日』所収の「春の枯葉」では、神出鬼没の老婆だったが、こちらはまだ30代の前半と推測された。いまは、どこにいるのだろう。

 7月28日(土)

 帰り際、新人とともに三階建ての建物の屋上に上がって、花火見物をした。灰皿と煙草を携えて、ちょっとのんびりした気分を味わってみたかったのだが、願いは叶った。ビルとビルの谷間から、最後の十数発を見ることができたのである。部屋では話せないことも話した。赤と黄色の輪がひときわ高く宙に咲いたとき、「終わりだな」と呟いて何げなく振り返ると、一階分高い隣のビルの、やはり屋上に、知り合いの人が家族で見物していた。思わず手を振る。向こうも手を振って答えてくれたが、「聞こえただろうか」と新人と苦笑する。
 車の中ではラジオから堀内孝雄の歌が流れていた。富良野の叔母が「カラオケ選手権」を勝ち抜いて、テレビに出たとき、応援隊のひとりとしてスタジオに行ったことがあった。そのときのゲストが堀内孝雄だった。リハーサルと本番と二回、ごく間近で歌を聴いた。それを思い出しながら、花火のあとは“演歌”が似合うなぁ、とひとり合点。

 7月29日(日)
 
 突然、ヘンなことを思い出した。中学・高校の頃の学生服のズボンである。あの頃は縫い目に沿ってお尻がよく破れたものだった。一度破れるとクセになるのか、縫い合わせてもらってもすぐにほどけた。いまは、どのズボンもそういうことはない。縫製技術がよほど進んだのにちがいない。それとも、運動量のちがいだろうか。いやいや、当時は日々筋肉が成長して内側から突き破ったのかも知れない。いまや、成長どころか躯の各部所が縮んでいるぐらいだから、この説は、有り得る。涼しくなったらなったで、つまらんことに考えが及ぶものだ。

 7月31日(火)

 暑さが戻ってきた。庭の夾竹桃の花が元気である。花弁の数は、数日前よりも随分増えている。つくづく夏に似合う花だ。入間川にかかる八瀬大橋の袂で撮影をしていた学生らを、近くの駅まで運ぶ。来るときは、延々30分歩いたのだという。監督と役者二人、ともに女性だった。この炎天下、納得がいくまで何度もビデオを回す姿を想像して、撮る方も撮られる方も、パッションがいるなぁと思う。喩えて言えば、夾竹桃の花のピンクだ。
 予報されていた雷も夕立もなく、一日が終わった。明日から8月。「にっぱち」という言葉、不況下のいまも使われているのだろうか。
         


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