日  録 畑の中の木  

 2005年9月1日(木)

 暑い日だった。かき氷が食べたいほどだと言ったら失笑を買った。
 昨日に続いて自転車のパンクを修理した。空気漏れの箇所がもうひとつあったのである。今度は、念入りに確かめた。これでもう、いっぱいの汗をかいた。かきついでに、植木屋さんの忠告に従って配偶者が数日前に切り落としていた樹木の枝を拾い集める作業にとりかかった。一箇所に集めて、植木ばさみで細かく切り刻んで袋に入れていった。ゴミ袋五杯分となった。ムラサキシキブの実が一部分紫に変わっているのを発見したが、秋にはまだ遠いのか、汗だくだくとなった。

 9月4日(日)

 夕方、出がけに大雨が降ってきた。雷も鳴っていた。目的地のひとつである駅前で、はじめて選挙カーに出くわし、短い演説を聞いた。ここは別の選挙区であったからなお、“総選挙”は新聞・テレビの中、かと思う。

 9月6日(火)

 台風の影響でここらあたりも3日連続で雨が降りつづく。九州各地は暴風雨だという。
 宮崎に住むMは、どうしているだろうか。こういうときEメールはたいへん重宝なのだが、Mは数年前に、何を思ったかこの通信手段から降りていった。年賀状程度で、近況を知らせ合うことも少なくなってきたが、畏友であれば、また逢いたしと願う。
 とまぁ、やっと、思い出の世界にも飛べるようになった。暑い夏が去っていくと感じる。
 嫂の葬儀の折に何十年ぶりかに逢った姪から鮎の佃煮が送られてきた。まだ食していないがきっとなつかしい味がするだろうと楽しみである。3つほどしか歳の違わないこの姪とは、盆や正月などに一緒によく遊んだ記憶が残っている。
 長い手紙が同封されていて、嫂との思い出や3年前に死んだ自分の母親(当方には実姉)のことが綴られていた。ともにはね回っていた小さい頃は、姉とも知らず、姪とも知らず、ずいぶんとのんきなものであったと思う。いま、あれ以来一度のお詣りもせず、これはまた薄情ではないかと、身が凍る。

 9月12日(月)

 総選挙、あらかじめ結果が分かっていた、ということになるのか。それでも昨日は家族四人で投票に出かけた。
 夜、はじめのうちはチャンネルを次々と変えながらもテレビに見入っていたが、そのうち飽きが来て、気も滅入ってきた。岐阜一区と、広島六区の動向だけが唯一の関心となっているのに、自分でも驚いた。マスコミの刷り込みみたいなものであった。
 もうひとつ「小選挙区社民1議席」とあったので、これは珍しい、どこの選挙区だろうと気にかかった。朝、新聞で確かめると、沖縄二区である。さすが! ここには“良識”が残っている、と少しほっとした。
 憲法改変=戦争容認を、国民の大多数が望んでいるとはとても思えないのだが、選挙はいつもこういう結果になる。なぜなんだろう。

 9月13日(火)

 朝から、蒸し暑い日だった。風も吹かない。去年もこんなだっただろうか。
 深夜近く、畑の向こうに沈みかける上弦の月が、まっ赤であった。いつもより大きく見えた。

 9月14日(水)

 軒下に蜂の巣がかかり、みるみる大きくなってしまった。
 気付いたのは春先で当時は小さくてかわいらしかった。町内会のゴミ置き場の修理に来たペンキ職人はいまのうちに取った方がいいと忠告してくれたが、せっせと働く蜂の姿についほだされて、撤去できなかった。というか、一日延ばしにしてきた。それに、庇とのわずか10センチほどのすき間にあるからそんなに大きくはならないだろうと高を括っていた。ところが、巣は縦にではなく横にどんどん広がっていまや直径20センチほどのケーキ状である。平べったい巣とは、当方の想像を超えていた。蜂の方が、自然に対して柔軟な対応力を持っている。つまりは、利口であった。
 
 飛び回る働き蜂は時々家の中にも侵入するが、スーパーの買い物袋におとなしく捕獲される。外で袋の口を開いて逃がしてやるのだが、毒針をむき出しにして向かってくる風はまったくない。共存できるかも知れない、と思う一方で、巨大な巣に恐怖を掻き立てられもした。植木屋さんに相談すると「アシナガバチならそのままにしておいて下さい。スズメなら、取って!」との答えが返ってきた。双眼鏡を覗きながら「足、長い、長い」と自分に納得させて、共存に賭けることにした。
 調べてみるとアシナガバチは攻撃性が小さいばかりか害虫を駆除してくれる、という。役所のなかには、取り去らないように指導しているところもあるらしい。植木屋さんの指示にも合点がいった。
 
 そして、今日、家に戻ると、前から庭に植わっていたバラ科の低木(ピラカンサ)からアメリカシロヒトリが大量発生してその退治で大変だったという報告を配偶者から受けた。緑の敵、そして天敵がアシナガバチという、あの悪名高い毛虫である。近隣の人を交えた話では、完全駆除のために、その木伐るべし、という結論に至ったようで、明日見分して、以前の桑の木のように自ら切り刻むことになった。
 数日前廊下に迷い出たトカゲの赤ちゃんを外に逃がしてやったことが思い出され、自然もさまざま、虫もさまざま、無常といえばその通りと感慨深いものがある。せめて作業中に涼しい風でも吹いてくれればいいとヒトである我は祈念するのである。

 9月17日(土)

 奇術部に所属する男子高校生が遅くまで残って、長い間立ち話をしていった。勉強自体が向いていないですよ、体を動かしているのが一番いいんです、などと悪びれず、二言目には「母親が問題ですね」と叫ぶのである。その母親とは何度も会ったことがあり、教育熱心で、それになかなかの美人である。話せばケンカになるからほとんど口をきかないとまで言うから、そんなものかなぁ、とちょっと不思議な気がした。
 一緒に外に出て、自転車? と聞くと「ぶらぶら歩いて帰ります。30分かかるんですが」というから家まで送っていった。車の中では、奇術=手品のことを楽しそうに話してくれた。降り際に「お母さんと話せよ」と忠告すると「がんばります!」とこれもまた朗らかな返事。17歳の高校生を主人公にした「僕はかぐや姫」(松村栄子)をふと思い出した。この小説の主人公は自分のことを「僕」と呼ぶ女子高校生ではあったが。

 9月18日(日)

 昨日かぐや姫を連想していたら、今日が十五夜、だという。雲影ひとつない、くっきりとした月が南の空高く輝いていた。鈴型のカステラを団子代わりに、庭の雑草をススキに見立てて、しばし月に見惚れていた。「竹取物語」を読んでみたい、などと思いながら。

 9月19日(月)

 何かができるかな、と張り切って迎えた2連休も終わり近くなって、古い雑誌(「文學界」昭和63年4月号)のなかに「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する」という言葉が目に留まった。
 第18回九州芸術祭文学賞の「選評」で森敦が、受賞作と比較して佳作だった作品について使っていた。その受賞作品「雪迎え」(岩森道子)を読むのが目的で開いた雑誌だったが、読み終えるとすぐに、はじめて目にするこの言葉の意味を調べた。

〔「籌」は勝負を争うときに得点を数える道具〕で「一籌」は (1)数取り一つ。 (2)はかりごと一つ。「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)する」は 〔「輸」は移す意。籌を相手に渡すという意味から〕数取り一つだけ負ける。ちょっと劣る。
   
 とある。「僅差」などという言葉はいまなお使われるが、知っていてもこれはなかなか出てこない。17年前とはいえ、さすが、人間も言葉もその奥深いところまで知り抜いた偉大な作家だと改めて感銘した。
 その森敦が絶賛する「雪迎え」もいささかも古びたところがない、なかなかの傑作であると思った。この作者、いまはどうしているのだろう。

 9月23日(金)

 ムラサキシキブの実が一気に色づいた。
 秋分の日。珍しく午前から午後にかけて二人の来客あり。といっても友人・知人・親戚などではなく保険屋さんと不動産屋さんである。うちひとりが手みやげ持参だったので、恐縮した。
 奥付を見ると昭和60年とあるからもう20年も前の本『鬼がつくった国・日本』(小松和彦と内藤正敏の対談集/カッパブック)を読んだ。中世から近世にかけての“闇の世界”への言及が多く、改めて刺激を受けた。いくつかの固有名詞については、もっと知りたいという欲求があるので、心覚えのために書いておかねばならない。
「木食応其(もくじきおうご):僧、連歌学者。飯道寺に隠棲」
「穴太衆(あのうしゅう):石工集団」
「小野猿丸と小野氏:赤城山のムカデを退治また弓矢の名手としての伝承あり。小野氏は全国各地の神社に関係を持つ」

 9月26日(月)

 「納骨式」。昨日の予定だったが台風が接近していたために順延された。今日はまるで真夏のような暑さだったが、春日部市郊外の田んぼの一角に最近できたばかりの霊園には、式が終わった直後にトンボの大群が乱舞してきた。夏の盛りに逝った嫂を出迎えているようにも見えた。お墓の背後には「元湯温泉」の掘削塔がそびえていた。ドーム型の屋根の下は浴場とプールである。よく一緒に来た、という。
 花を手向け、線香をあげ、お墓に水を遣った。

 9月30日(金)

 数日前のこと、ラジオで「季節の貴重な食べ物として無花果がスーパーに並べられていました。それにしても、最近無花果の木を見かけなくなりましたね」という話を聞いた。うん、たしかに、と納得するものがあり、無花果には思い出・思い入れが少なからずある、と思った。職場に着くとすぐ携帯に「無花果をいただきました」とのメールが入ってきた。この暗合には驚いた。翌日、隣人に御礼をいったついでに「木があるんですか」と訊くと、「前のひとが植えていった畑の中の木です」という。瑞々しくてなかなか旨かった。
 これも思い入れのある玄関脇のザクロは、二つ残ったうちのひとつが落ちて、ついにひとつきりとなってしまった。まだ眠っているときに「落ちてるよ」と配偶者が大きな声で教えてくれた。いまのわれには、たしかに重大な関心事であったのだ。あんなに花が咲いたのに、ことしは不作であるのか。
「図書」では小沢昭一の対談「遊びつづけて七十年」が連載されている。4回目の十月号は「おんな」についてであった。これがとびっきり面白い。「いま、趣味は女房です。」で対談は終わっている。笑いながら、わかるなぁ、と納得した。       
   
 


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