日  録 厳寒に追いつけず…  

 2005年12月2日(金)

「平和記念資料館メルマガ」を創刊からずっと送ってもらっている。毎月1日にきちんと配信され、昨日届いた最新版は第29号である。専用の受信ホルダーに整理しているが、読んだり読まなかったりのよくない読者であった。    
 が今回、巻頭コラムのなかにこんな文章を見つけた。

『一発の原子爆弾によって破壊され、廃虚となった広島の街は、市民の努力によって、多くの人々が行き交い、ビルが林立する都市 へと姿を変えてきた。しかし、60年前に失われた街を思い起こす手がかりは、この街のあちこちにひっそりと残っている。屋根のほとんどが崩れ落ちた帝国銀行広島支店は、大規模な改修を経てアンデルセンとなり、店内は人で溢れている。すっかりクリスマスの飾り付けになっている本通のパルコには、被爆建物であったキリンビヤホールの壁面の一部が取り付けられ、1階がBEAMSに 建てかわったビル内には、やはり被爆を体験した元大林組広島支店のアーチ窓の飾りが保存されている。 ひっそりと残る被爆の痕跡をたどってゆくと、昔の広島の街が立ち現れてくる。』

 3年前、『中國新聞』こんな文章を投稿した。
 
  先日衝動的に買った原民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫)のうち「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」の三編を六日未明に読んだ。“日常”を描写するが如く悲惨を語っている。いや、逆かも知れない。悲惨の中の日常を美しい日本語で記録している。読後、惻々とした思いにとらわれ、ヒロシマの祈りと痛みにいっそう同化していきたい気持ちが兆してきた。ぼくは十代後半からの5年間を広島ですごした。ここにはなじみの地名も出てくるが、当時(1970年前後)すでに「廃墟」の面影はなかった。そればかりか、市内はもとより、近辺のあらゆる場所を昼となく夜となく歩き回り、いっぱしの広島びいきとなった。五年間はまことに短すぎたが、広島はぼくの原点である。「実際、広島では、誰かが絶えず、いまでも人を捜し出そうとしているのでした。」これが「廃墟から」の最後に置かれている一行である。

 原民喜の眼は50年、60年後を鋭く透視していたといままた感じる。
 ところで先のコラムはこんな風に結ばれている。

『被爆者一人ひとりの心の中に残る原爆投下前の広島の街には、それぞれに懐かしい日々の暮らしがあり、思い出に満ちた風景があった。失われた街には、どんな風景があり、そこでどんな人たちが、どのように毎日を送っていたのか…。その姿を知ることで、一発の原子爆弾により、一体何が失われてしまったのかを私たちは知ることができるのではないのだろうか。失われた街の姿を学び、記憶して伝えること。それが原爆の被害を伝えることだと思っている。』(平和記念資料館・学芸担当学芸員 勝部 知恵さんの「失われた街」から引用)

 12月4日(日)

 昼過ぎから冷たい雨が降ってきた。すわ初雪か、と思わせるような寒さである。夕方にはいったん止んだようだが、雨も久しぶりのことだった。冬枯れて、ただ菊の花だけが元気な庭にも、水がしみ込んでいった。土が黒々と生き返った気配がある。片隅にでも植えて下さい、と頼まれたミカンの苗木も鉢植えのまま放置して、次の晴れの日の仕事にとっておく。これらのうえを白きものが敷布のように覆えばいうことなしと思うが、これは天のみが知るところ、か。
 終日、先月末に届いた『midnight press 30号』などを読んで過ごした。詩の中の言葉が、いくつか胸を打った。たとえばこんな1行、
「誰もが一つ一つ頭の中でばらばらに考えることでも、世界中で起こっている出来事は一滴の水を原理とする」(倉田比羽子)
 うーんと唸りながらわれもまた書かねばと鼓舞されていった。

 12月7日(水)

 深夜近く、ほんのいっとき、みぞれ模様の雨が降った。昨日に続いて寒い夜だったが、ついに雪にはならなかった。広島や島根では二日前に初雪が舞ったという。連れ立って職場を出た沖縄出身の若者に、暖房は? と訊くとそんなモノありません、と笑い飛ばした。意外にも寒さに強いのか、と驚いて顔を見上げれば、「じっと布団にくるまっていたり…」などという。この朝ストックが切れかかっていた灯油を慌てて買いに走った身には何とも信じられない光景だった。
 慣れてくればまたきたるべき春を待ち望むようにもなるのだろうと思う日であった。

 12月9日(金)

 朝から携帯に「圏外」の表示が出て、電話もメールも通じなくなった。携帯ショップの女性店員は、表面の埃をおもむろに拭いとってから、電池パックを開けて電池を取り出し、もう一度装着した。一連の優雅な仕草にみとれたが、その間わずか十数秒。直りましたと言う代わりに「まれにこういうことがあります。いったん取り外してやれば元通りになることが多いんです」と。妙に納得して、つまり得した気分で店をあとにした。
 夕方、突然4通のメールが入ってきた。そのうち二つは、昨日の夕方と夜にそれぞれ出されているものだった。ひとつは今日の予定について許諾を求めるもので完全に後の祭り。もうひとつは「馴鹿」と書いてなんと読む? とのクイズである。さぞや待ちかねただろうと、慌てて返信した。「圏外」表示との関係は不明だが、こんなこともあるんだ、と肝に銘じた。

 12月11日(日)

 午前中にほんのいっとき日が差したが、あとは曇り空が続き、予報通り真冬なみの寒さとなった。夜になるとさらに冷えていった。早々に風呂に入って、仕舞い支度にかかりたいところだがそうもいかず、寸断された時間の中であれこれの雑事をこなしていくと、早くも深夜を過ぎる。するとたったいま(午前0時)、夫の留学に付き添ってこの夏からワシントンで暮らしている卒業生から近況を知らせるメールが届いた。
「受験生の母親」のように試験勉強中の夫の世話をしているというくだりで、思わず笑ってしまった。
 また、自身も「英会話の勉強にいそしんでいる」と書いてあり、かつて生徒だった頃の懸命な姿が思い出された。凄い集中力と前向きの明るさは、何年経っても、また異国の地でも、失われることはないのだろうと、こちらでは、嬉しくなった。
 結びには「I wish you Merry Christmas and Happy New Year」とあった。
 
 12月15日(木)

 お昼前に「洋蘭」が届いた。宅配便など滅多にないうえに、肩までもある縦長の箱だったので,二重に驚いた。カッターナイフで箱を切り開くと実にみごとな鉢植えのシンビジュームが現れた。一度訪ねてくれたことがあるかつての隣人が配偶者に送ってくれたものだった。早速玄関に置いた。「グレートキャティ・リトルローラサン」と命名された、ピンクの大ぶりの花びらに、気分が昂揚していった。
 促されるままに物置の粗大ゴミを取り出して市の環境課に電話した。年6回の収集のうちの一回が明日早朝に行われるというのだ。ワープロ二機、ストーブ、パソコンプリンタ、コンポなど、直せば使えるかも知れないものを、その都度、持っていってくれますかと確かめながら取り出していった。それぞれに名前を書いた紙を貼るのは配偶者の仕事とした。
 これが出勤前の二題噺、となれば、いつもとはおおいに異なる、師走の朝であった。

 12月16日(金)

 満月の夜だった。
 数日前寒さで眠れない朝があって、以来、湯たんぽを入れ、抱きかかえるようにして寝ている。午前中は窓を掠める陽射しに寄り添うようにして過ごす。肩に当たる陽光の暖かさにホッとする。
 すると、いまはいなくなったアシナガバチたちの蝟集する姿が思い浮かぶ。巣に戻れなくなった彼らは桟の上にかたまって時間をやり過ごしているようにみえた。晴れた日には、中の数匹が群れを離れ、窓から顔を覗かせる。それとて動きはとても緩慢で、夏どきの敏捷さはなかった。飛び回っていた頃の、つまり働き盛りの自身を、彼らはどんな風に記憶しているのだろうか、と考えたものだった。
 ヒトも「裸々虫」なれば、所詮えらぶところなし、か。

 12月18日(日)

 あまりの寒さに布団から出られず、無造作に取った本の中の、中上健次と村上春樹の対談「仕事の現場から」(1985年3月「國文学」、『オン・ザ・ボーダー』所収)を読み始めた。村上春樹35歳、その時38歳の中上健次は7年後(1992年)に亡くなっている。めずらしい組み合わせであるばかりか、とても長い対談である。半ばぐらいのところで、こんな風な箇所があった。
「村上君との差異は、都市と田舎とかいうこととは思わないんだよ。(略)むしろもう一つ別なところで差異を感じる。関係の粘着度というか、親とか子供とかという関係の絶対性というのがあるでしょう。(略)その関係の絶対性を頭に置いているか、それとも関係の絶対性をすぽっと切っちゃえというのか、それの違いなんじゃないかと思うんだ」
 このあとにもう一回、「十九歳の地図」に触れて、「地図というのは、関係の絶対性を定着化しちゃう」と言っている。
 本の中では二箇所とも鉛筆で傍線が引いてある。これは、寝転がりながら読むべきではないぞ、とついに背を立てたのである。

 12月19日(月)

 3日前、暖房を効かせて長時間運転してきた車から降りたとき、全身に水飛沫が降り注いできた。
「雨だ! いや、雪かも知れん」と騒ぎ立てると、こんなきれいな星空なのに、と配偶者は悠然と空を見上げる。確かに雲ひとつない澄み切った冬の空で、満月も煌々と輝いていた。しばらくすると“全身シャワー”も止んで、深く考えることもなく、家に入った。
 今夜また同じ経験をして、これは、車を降りるとき躯に纏わりついた暖気が一緒に外に出て、急に冷やされて水滴になるのではないか、と考えた。シャワーは大げさでも、小糠雨程度のものがほんのいっとき自分にだけ降る、などと思えば、自然の粋なはからいとも感じられた。早くも酷寒の日々だが、耐えていかねばなるまい。

 12月21日(水)

 いつもより早く起きて東松山の高校を訪ねた。電話ではたしか「おやま」と聞こえた先方の名前がずっと気がかりだった。漢字で書けば「小山」だろうか「尾山」だろうかと、「おやま」の域から想像力は出ていかない。
 受付で一か八か、「おやま先生をお願いします」と告げると、一発で通じた。やっぱり合っていたといったんは安堵した。ところが、本人が現れて名刺を受け取ると「神山」とあるではないか。「こうやま」が正しかったのである。何度も言っていると「こうやま」が「おやま」に変わらないわけではないが、とんだ聞き違いに赤面した。いや、こういう仕儀になることを、半ば予想していたのかも知れない。だからこその気がかりだったと言える。
 さて、「神山氏」は卓球部の監督もつとめるという、若くて、ハンサムな先生だったが、受付で通じたのはなぜだろう。疑問は残った。
 これにて今日の仕事を仕舞い、家に戻った。この地方での確率30パーセントと予報されている“初雪”を待つこととした。

 12月31日(土)

 大晦日とはやはり特別な日にちがいない。
 朝早くから部屋の掃除、片づけに精を出す配偶者を尻目に寝続けた挙げ句、昼頃やおら起き出し、新聞を読んだあとは昨日届いた対談のゲラを広げて、目を通していった。テープ起こしがほぼ忠実になされているが、「ちょっと」「やっぱり」などのことばが多用されていて、これが自分の話しことばのクセなのかも知れないと思う。相当赤を入れないと文脈のつながらないところ、意の通じないところがありそうだった。年のはじめに懸けての恰好の仕事に気が燥いだ。
 そうこうするうちに「混まないうちに」と運転役を仰せつかり、町に出る。親子連れが両手いっぱい袋を下げて店を出る姿を見て、そんな時代もあったかと、少し回顧にひたった。買い物といっても当方らには、ミカンとモチと酒くらいしかなかったのである。
 戻ってからは、5円玉を30枚ほど集めて袋に入れ、合格御縁と表に書いた。去年はいまごろ大きな牡丹雪が降っていたことを思い出した。唯一風呂掃除を思い立ったが、手に力を入れたり、躯を曲げたりすると、肩の骨がまだ少し痛む。これに、ここ十日ばかりは苦しめられてきたのだった。二,三日前から小康を保つようになったが、油断はできない、ということかも知れない。
 かくて2005年も終わる。
 みなさん、よいお年をお迎え下さい。
 
        
 


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