日  録 易・五行、赤と黄は? 


 2006年1月2日(月)

 2日続けて、電車通勤を敢行した。1.8キロほど離れた最寄り駅まで自転車で行く。畑と住宅に囲まれた平坦な道なのに、ほんの十分ほどなのに、足の筋肉が悲鳴をあげる。向かってくる風はどんなに冷たくても平気だったが、これには落ち込まざるを得ない。
 今日の帰りなどは、歩いている人とほとんど速さが変わらないことに気付いた。相手は若者らしかったが、これはならじと、ペダルに力を入れた。するとまた、筋肉が……。
 電車の中はおおむね快適だが、前の席が空いたから坐ろうとしたとき手すりに左肘があたって、ただでさえ不安定な肩に激痛が走った。道中の愉しみにと、カバンの中に入れていた本を出すことも叶わず、痛みが去るのを待つうちに下車駅に到着したのだった。
 さて明日はどうするか、とここで思案。なんとも意気の上がらないスタートとなった。

 1月4日(水)

 昨日、職場の階段でこけてしまった。急ぐでもなく、ごく普通に登っていたときだった。躯が心を離れていったとでもいうべきか、気が付くと前のめりに倒れ込んで階段と抱擁していた。
 すんでのとこで危うさを回避したと思ったが、そうではなかった。しばらくして膝が痛み始め歩行に多少の支障が出てきたのである。つくづく憑いていない。何かの警鐘だろうかと考えた。
 夜になっても痛みが治まらないので膝頭一面に湿布薬を貼りつけた。ついでに左肩にも貼り付けた。すると今朝になって、膝の痛みは完全消えていた。肩だって、随分楽である。これまで自然治癒、自力回復をモットーにしてきたが、その限界を思い知らされることとなった。
 午前中は、年賀状を書いて過ごした。必然的に返信となるが、高校時代の友人Mは、去年8月のシルクロードへの旅の写真の傍に「9月から○○症で2ヶ月半入院していましたが、いまはもう元気です。」と書き添えていた。健康優良児のような頑強なMにしてそうだったか、と少し“時”を感じた。

 1月6日(金)

 とにかく寒い。このところの大雪も、まんべんなくあちらこちらに降ればいいものを、と思うが、それも甲斐なし。
 いったん目を醒ましたものの、湯たんぽを胸元に引き上げて、また寝入ってしまった。10分ほどで身支度をして高速にのって、かろうじて間に合った。一時間の“寝坊”も寒さのせいだが、屋根の上に降り積む雪に不安な毎日を過ごす人たちにくらぶれば、小さい、小さい。

 1月8日(日)

 午後、高麗神社に初詣で。車の渋滞はほとんどなかったが、境内には出店がたくさんあって、人出も多く、まだ正月気分であった。おまけに拝殿の前は長蛇の列である。お詣りせずに引き返した去年のことが脳裏を掠めた。御利益があってほしいからこたびは並んで順番を待った。
 去年は熊手だったが、今年は家のお守りを破魔矢とした。そこには五色(赤、緑、白、黄、青)の幡が付いていた。これがこの神社の依り代であるのだろうと思いながら高く掲げて歩いていると、軽やかな鈴の音とともに、その小さな幡がくるくると翻って、ちょっと幽玄な感じがした。配偶者にねだって買ってもらった、たったひとつの「大名焼き」は去年の再現であった。

 1月12日(木)

 田舎から鎮守の御札が届いた。早速神棚の中に納めて手を合わせた。この神社には「一年神主」の習俗が残っている。一昨年は実兄が務めたが、同封の母の手紙には、ことしは幼なじみの○○が「神主さん」だと書き添えられていた。親戚筋に当たるから、兄らは連日の手伝いで忙しいとも書いてある。一昨年に聞き知った順番からいくと、来年も幼なじみが務めることになるのだろう。一緒に遊んだあいつらが“要”となって村を守ると思えば、誇らしい気持ちにもなる。

 1月15日(日)

 午前3時、迎えのために外に出ると異様な明るさである。きのう一日降り続いた雨がすっかり止んで、中天を過ぎた満月が皓々と輝いていた。低気圧のなごりか強い風はときおり吹き抜けて、黒い雲のかたまりが空を移動するが、月を隠すことはない。嵐のあとの満月、というのもなかなか乙なものだと思った。
『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一、集英社新書)をついに手に入れ一気に読んだ。期待通り面白い本だった。網野史学の出発点『無縁・公界・楽』を見事に“解説”している。
「この文章を私は、死者たちといっしょになって書いたような気がしてしようがない。(略)死者たちが自分の思いを、私の書いている文章をとおして、滔々と語り出したのである。ものを書いていてこんな体験をするのははじめてだった。」(「あとがき」)と作者は書く。やはりなぁ、と納得させられる気迫の文だったのである。
 
 午前中は陽射しも暖かく、ストーブなしで過ごせるほどだったが、夕方近くなると空が曇って雨もよいの天候となった。早くも春の気まぐれか、と“静の休日”に思う。

 1月19日(木)

 早朝、去年と同じ成り行きで嵐山の中学へ“応援”に駆けつけた。何ヵ所か車がつながって、のろのろ運転で間に合うかどうかやきもきさせられたが、飛ばせるところは飛ばして、当の受験生がやってくる20分ほど前に到着できた。慌ただしく握手をして、会場に消えていくのを見送る。この間ほんの十数秒。いろいろイメージしながら、この一瞬のためにやってきたのだった。
 帰りは気持ちもゆったりとして、右前方の真っ白な富士を堪能した。
 風が強くて、寒い夜だった。事情があって、信号もいくつか無視しながら帰宅を急いだ。
 かくて、一日の走行距離150キロ、われは“スピード狂か”と苦笑ものの一日となった。

 1月21日(土)

 やっと、初雪があり、夕方まで降り続いて7、8センチの積雪となった。
 昼過ぎ、牡丹雪の舞うなか車を走らせて行ったが、途中いつもの通勤道を右にそれて難波田城趾公園に立ち寄ってみた。復元された館の雪景色を写真に撮って、雪大好きを公言していた女子高生に送った。彼女は写メール付きの誕生祝い(唯一の)を寄越してくれた生徒で、これはいわばお返しだった。するとほどなくして、自宅前で作ったと思われる犬の形をした雪だるまの写真が送られてきた。さすがに、びっくりした。
 味をしめて、次に、大雪を知らないまま、この朝早く旅立ったはずの女子大生に職場の窓からの雪景色を送ったところ、雪の気配すら感じられない「松本城」の写真がすぐに届いた。
       
 雪も止んだ夜8時過ぎ、センター試験を受けてきた高校3年生が立ち寄り、出来具合を語り始めた。雪にまつわる“はしゃぎ”も切り上げて、問題を見はじめた。ことに難しかったと彼女が言う「現代文」は、出典が別役実の演劇論『言葉への戦術』と松村栄子の「僕はかぐや姫」である。
 いまはどうか知らないが、別役実は70年代には「シュールな感覚」で立ち現れ、われらにはなじみ深い。
 引用された文章もさることながら、5択の設問が厄介だった。よくこんなのを“捏造する”と思うほど紛らわしい。「僕はかぐや姫」の方も、全編を味わってはじめて分かるような設問もある。問題用紙には、迷った跡が随所にあり、酷なものだ、と改めて思った。
 帰りがけに、正月にあげた「合格御縁」(5円玉入りのボチ袋)を胸ポケットから少し引き出し「これがずっと一緒です」と嬉しいことを言ってくれた。明日は数学だそうだが、御利益があれば、いい。

 1月22日(日)

 易・五行の本(吉野裕子『神々の誕生』)を読んでいたら次のような箇所にぶつかった。
 五色のきまりとして、
    青=憂色−木
    赤=怒色−火
    黄=喜色−土
    白=喪色−金
    黒=哀色−水
 ここで高麗神社の破魔矢につけられている幡の色を思い出したのである。色の種類は、よく見ると黒がなくて緑だが、いずれ古代の陰陽哲学から発想されているのではないかと思った。
 ミーハー風に言えば、赤と黄が好きである。ならば、怒と喜、火と土、か。当たるも八卦当たらぬも八卦というが、これはかなり……現在の情況に近い。。

 1月25日(水)

 政治家の言葉ほど信じられないものはないと常々思っている者だが、堀江モン逮捕のあとの自民党・武部や竹中の言い草には虫酸が走った。昨年の選挙の折りに「わが弟、わが息子よ」と叫んで彼の左手を高々と挙げた人らである。野党の民主党には「あなた方だって、一度は担ぎ出そうとしたではないか」、マスコミには「あなた方も持ち上げていたではないか」とテレビカメラの前でしゃべっていた。他人のことは、いいのである。自分がどう考えるか、を吐露できたとき、ほんとうの言葉になるのに、と思った。
『司直の手にかかったとはいえ、いい青年だ。いや、いい青年だった。だから、応援したんだ』ぐらいのことがどうして言えないのだろうか。それが、仁義というものではないのか。
 つけっぱなしのカーラジオから国会中継、代表質問が流れた、昨日、今日は、即座に切った。精神衛生上、よくないからである。

 1月27日(金)

「朝まで生テレビ」を「朝まで」見るアホ、ということばが口を衝いて出た。もちろん自分のことである。どんなに興味があるテーマでも、いつもなら、途中で切り上げて別のことをするか、眠ってしまうのが常だが、この夜だけはエンディングを見てしまった。
 政治家や実業家の言説と、田原総一郎をはじめとするジャーナリストのそれとの間には大きな発想の差があると感じながら見ていたせいかも知れない。田原(に代表される人たち)には、理はないが、情はあった。政治家や弁護士に明らかに「論破」されるが、考えてみるだけの価値のある発言をしていた。人間を見る目のちがいだと思った。
 最後に、最近59歳で亡くなったこの番組のプロデューサーを追悼していた。読んだばかりの新聞記事と照らし合わせて、この人などは人間への愛情がいっぱいあって、ゆえに反権力・反権威を貫いたのだろう、とこの夜のテーマ(堀江モン)と離れて、そんなことを思った。そのためにだけ朝まで付き合うのは、やはりアホであったと観念した次第。

 1月29日(日)

 今日は旧暦の正月だという。 中国では春節というらしいが、あのテトのことか、と日付が変わる頃になってやっと気付いた。ベトナム戦争のころ、「テト休戦」と、黒々とした大きな活字が新聞の一面を飾ったことが何度もあった。そこから記憶が甦ってきた。
 昼過ぎになって、毛呂山のホームセンターまで出かけ、アーチ型の支柱とビニールシートを買ってきた。キャベツが2個だけ植わっている庭の一角に取り付けると、2メートルにも満たないながら、そこがいっぱしの温室のようになった。冬枯れの庭に、異質な空間ができたようで、得意な気分になった。といってもわれは、配偶者の差配にまかせ、ただ眺めているだけである。
 テトには、赤や黄色の梅の花を飾るそうだが、日中は、梅の芽もほころぶほどの暖かさだった。「温室」のなかで寝転んでみたいと思わせたのも、この陽気のせいだろう。

 


メインページ