日 録 ある盆の風景

 2001年8月1日(水) 

 賀茂鶴・純米酒を、御神酒用として求める。いままでは料理用のお酒(「のむのむ」とか「呑」とかの紙パック)を“流用”して神棚に供えていた。今度は、本格的な瓶の酒。贔屓の広島の酒。「もったいなくて料理には使えない」とは配偶者の弁である。実際、思いっきり冷やして、飲みたくもなるから、神人饗食となりそうな気配だ。畏れ多いことではある。

 8月2日(木)

 雨が、降りそうで降らない。この夏は水不足の危機に見舞われるかも知れないと言われている。そうなればまた『渇水』という小説を思い出す。中身も惻々とした感情が通底していて、よかったが、人々の記憶に残るいい題をつけたと思う。「行逢坂」ではせいぜいどう読むの? と聞かれるのが関の山だろう。この小説、題だけでなく、水道局の、滞納された料金を取り立てる男の視点がなかなかに新鮮だった。この男と等身大かも知れない作者・河林満さんと偶然一緒に酒を飲む機会が持てたときは、嬉しかった。もう10年ほども前のことになる。

 8月3日(金)

 曇りがちの空だが、南西の方角には、満月。雨の気配はなし。

 8月4日(土)

 朝、出勤の途上オートバイの二人乗りに出会って、感心するやら、滑稽感が醸しだされるやらで、この複雑な印象は尾を引いた。男の運転で、うしろにはやはり女性が乗っていた。というのは、フルフェイスのヘルメット姿だからなかなか性別が特定できなかったのだ。交叉点で横に止まったときに、子細に観察していると、信号が青に変わって発進すると同時にうしろの女性は運転者の脇の下に、それまで躯の横で遊ばせていた両手を入れて、背中を抱きかかえる。合図をしたわけではないのに、そのタイミングは絶妙だった。ところが、走り去っていく姿はまるで蝉が樹にしがみつく図ではないか。風が強く吹くときには、振り落とされないように、必死の形相さえ浮かべかねない。もちろん蝉ならばの話だが、自転車の二人乗りと違って、スピードがある分オートバイのそれは滑稽感が勝っている。深く考えると、実は不思議な乗り方ではないだろうか。

 8月6日(月)

 ヒロシマの日。中国新聞のホームページにて、この日の平和公園内の様子を見る。未明のまだ暗きうちから人が訪れ、原爆慰霊碑に花を手向け、手を合わせている。写真に写っている若者やこどもは、もはや孫や曾孫の世代になるのだろう。かつてなじんだ風景に、種々思いは飛ぶが今日だけは、広島の人と同じ心で祈ろう。
 と思ったのは、もう夕方のことで、こちらは6日ぶりの休み、これも異例の涼しさにつられて熟睡、起きたのは昼前であった。家の中をうろつくと、夜に備えて仮眠をとる配偶者が目を覚まし、「うるさいよぉー」と嘆く。物音は極力消しているから、何がうるさいのだと気色ばめば、「鼻息だ」と寝ぼけた声で言う。これには身に覚えがあるから、一瞬、クシュンとなる。「鼻息が荒い」のは、素人診断によれば、高血圧で心臓への負荷が強いからで、人生の荒波に立ち向かっているためではない。この手の比喩が、疎ましい。

 8月8日(水)

 朝から居眠り運転なんぞは、およそぞっとしない話だが、今朝はとにかく眠く、ハンドルの動きがときおり止まるほどだった。通い慣れた道であることも緊張を緩め、ラジオの音とて、退屈この上なく、なにを暢気におしゃべりを、と夢うつつのうちにむかっ腹も立っていた。もとより内容が聞き分けられるわけもなかった。仕事場に就いてひと通り役目をこなしたあとの帰り道はしかし、曇り空には関係なく、頭も冴えていたというべきか。やはり、夜はいい。4,5年前に頓挫したままのモノを、UPすることを当面の目標とする。テーマをもっと煮詰める必要はあるが、それとて、苦行であるはずはない。

 8月9日(木)

 少しずつ暑さが戻ってきている。肌にじわっと汗が滲む。朝、電話で義父は「ストーブを焚くかどうか迷っているんだ」と言う。北の町ではもう冬支度か、と改めてカルチャーショックを受ける。夜中の、日付が変わる直前、娘の帰宅を待って、誕生パーティ。家族揃ってやるのは、久々のことである。富良野産のワインを数杯飲んで、酔う。そこで、義父の言葉を披露すると、みな一様に驚く。
 広尾の町での、またもの惨劇。度し難し。

 8月11日(土)

 昨夜来の、待望の雨。お湿り程度かと思ったら、朝も降っていた。夜には、ときおり激しく降り、小田原あたりでは新幹線がストップしたと報じられている。人の営みに悪い影響はあるが、これで大地の乾きが少しは癒される。目下上田の人となっている友人からも、彼の地は雷雨だったとのメールあり。
 関東に雨が戻ってきて、やっと人心地ついた。とは、身の丈を超える言説で、歯の浮く思いがしないでもないが、雨音を聞きながらPCや読書に向かうことができる喜び、というのがどうやら本音のようである。有料道路沿いに、月見草の長い列を見つけた。走っても走っても途切れることがない。葉の間から覗く黄色い花弁が、星となって飛びすさる。白日の幻想を誘った。道路清掃の人も、この雑草だけは、切るのをためらったのにちがいない。

 8月12日(日)

 NHKFM「日曜喫茶室」は、いい番組だ。今日は、冒頭に都はるみの「北の宿」がかかった。おやおや、粋だね、と思いつつ、ついにもらい損ねたセーターのことを思い出した。歌の一節を引きながらその人は、紙袋から実物を取り出して見せてくれたのだった。いったん手に取りながら、返してしまった。いまだに謎だ。喜んで着ますよ、となぜ言えなかったのか。配偶者にそのことを告げると「デリカシーのない人だ」と詰られた記憶はある。懸命に当時の情況、いまとなっては夢よりも遠いそれを思い出そうとしている。夢といえば、明け方には、いろんな人が立ち現れた。具体的な状況で、それらしきことを話して消えるから不思議であった。 

 8月13日(月)

 残務と留守番のために出勤するも、一件の電話も、ひとりの「お客」もなく、下のメガネ屋よりも早くシャッターを下ろす。関越をまたぐ橋から瞥見すると、ここも渋滞の列である。お盆を実感する。こちらには、義弟の新盆(にいぼん)。配偶者は、子どもが小さかった頃彼が作ってくれた花瓶に庭の花を活けて、おはぎを供える。お墓参りの代わりである。
 通り道、バス会社の駐車場が盆踊り会場に早変わりしていた。中央に櫓が組まれ、周囲には釣り提灯の列、気が燥いだ。踊りの最中に通りかかれば確実に輪の中に入っていっただろう。帰省した折りに踊ったのが、もう四年前のことになる。もっとも、酔った勢いで踊り出したのを「盆踊り」の一つと数えれば、三年か。

 8月14日(火)

 暑い日。終日、引き籠もり、実の薄い休日となれり。メールにて十数件の連絡を済ませると、ちょうど一年前に襲われたタイトな頭痛のことが甦り、不安に駆られる。17日からの3泊4日の合宿を控えて今年こそは、と身構えると余計に嫌な予感が募る。去年は、期間中ずっと苦しめられ、みなにも迷惑をかけた。戻ってから医者に駆け込み、薬をもらってやっと鎮静させたのだった。二の舞を演じないためには、この3日間、身も心も静かでいること、か。毎日新聞夕刊にて、黒井千次氏の「黒い手帖」を読む。久々に、“千次マジック”が愉しめてよかった。本を、買いに走ろう、かと思う。世の主婦が今夜のおかずに腐心するような心境である。 

 8月15日(水)

 三ヵ月ぶりに散髪。床屋に行くのは今年に入って二度目である。息子のバリカンで、いっそ同じように坊主にするかと考えたが、まだ早い、と思いとどまる。中学生になるまではずっと坊主頭だった。縁台や家の前の畑で風呂敷を首に巻いて手動バリカンを当ててもらっていた。痛かったし、できあがりはでこぼこだらけの、いわゆる「トラ刈り」だった。それでも何の不都合も感じなかった。みんな同じような事情だった。髪を伸ばす(坊ちゃん刈りと呼んでいた)などは、ハイカラすぎて田舎のガキどもには似合わなかったのである。
 息子にかぎらず、若者の中に坊主頭が静かな流行を見せている、という。この波は、若い頃には肩までの長髪を誇っていた団塊の世代(自分のこと?)にもいずれ浸透していくのではないかとふと思った。この時代を見よ! である。せめて頭だけでも「出家」したいではないか。いま、さっぱりした頭がなにやらもぞもぞと痒くなった。電灯から飛来した小さな虫が、中で蠢いていた。 

 8月16日(木)

 昨日は安岡章太郎『酒屋へ三里、豆腐屋へ二里』、今日は森内俊雄『夢のはじまり』(ともに福武文庫)を読んだ。前者は87年から90年にかけての執筆だが、いまもなお感銘深い。滋味のある文章とユーモアのなせる技か。後者は70年代はじめに書かれた幻想小説を15篇、著者自らが編んだもので、とにかく、どの小説も、存在を根底から揺さぶるほどに、時代を超えて怖いというべきか。余談だが、これに比べれば、毎日新聞夕刊のシリーズ“見知らぬ夏”、初回が黒井千次で、あと4人の“見知らぬ作家”の登板を大いに期待したが、昨日、今日と幻滅であった。幽霊だの殺人事件だのを種々説明されても、ちっとも怖くないし、ああそういうお話ですか、とあいさつにも困る代物。学芸記者は、どんなスタンスで人選したのだろうか。疑問である。とまあ、えらそうなことも言いたくなるほど、気息が追い込まれていて、ちょうど一年前は、トイレに入っているときに突然頭痛がやってきたことを思い出した。今年は、幸いそういうこともなく、明日からの準備のために、川越まで行く。お目当ては、ブリーフ数枚で、ここから目的地までは、ざっと二里半の道のりであった。

 8月20日(月)

 右手親指と人差し指の間を何かにぶつけてしまったようだった。打ったとおぼしき部分が腫れ上がり、その夜は痛みで指も動かなかった。いつどこでだったのかさっぱり記憶にないくらいだから、大した打撲ではないはずなのに、掌はちゃんと覚えていたのだ。深夜、「熊の湯」の源泉に長時間漬けたあとすぐに眠り、翌朝目覚めると痛みは、ほとんど消えていた。熊が傷を癒したという故事をなぞったようで、何となくほっとしていると、今度は掌の右半分、表も裏も、紫色に染まってきた。内出血を起こしていたのだ。それにしても広範囲である。三日経ったいまも、紫の鬱血部分を一部残し赤っぽい痣のようになっている。痛みは、もうないが、家の者らは、仰天かつ不思議がる。今年は去年のように頭痛はなかったが、代わりにこんな仕儀に至った。よほど鬼門なのか、それとも、こちらの躯と心にもカツが入ったのか。これがもし脳ならば、ひとたまりもなかったわけで、掌が身代わりになってくれたか、と下界に戻ってくるや、例によって神懸かりで、悲愴なことをも考えたのである。

 8月21日(火)

 台風11号が、ゆるやかに北上しているなか、たった一件の用事のために、職場に向かう。激しく吹き降ったあとにはしばし止む、ということが繰り返され、いかにも接近の予感があった。用を済ますと早々に退散。深夜にかけて、雨風いよいよ激烈。遠くで雷鳴も聞こえた。

 8月22日(水)

 台風を慮って朝7時に出立、8時には職場に着いて、待機。昼前までは雨が降り募ったが、それ以降は止んで、晴れ間さえ覗く夕暮れ、となった。この地に限っては掠めもしなかったということか。予報を聞く機会もなく、風のない台風は、いつの間にか過ぎていった感じであった。埼玉は無風地帯なのかも知れない。小高い丘と高架の高速道路に挟まれた谷底のような場所だったが、東京のはずれに住んでいた頃は、蹲った姿勢でひたすら通過を祈っていた記憶がある。風の唸り声が、どすんどすんと腑に響いて、怖かったものだ。ここ十数年は、そんなこともなくなり、秩父の山々の稜線が、ただ優しいだけだ。ああ、歳を取ったと、思わざるを得ない瞬間である。

 8月25日(土)

 まるで飯場ぐらしだ、と思わない訳にはいかない。毎日13時間も、同じ場所(職場)にいるだけでも息が詰まるものなのに、あれもこれもと、いろんな種類のやるべきことが次々に出てくる。こういう勤務状態は3日が限度だと経験上思い決めているが、今日は4日目、すでに臨界点を越えたことになる。一つのことに想念を高めていくこともできず、やや神経衰弱気味である。
 どこで“句切り”を入れるのだ、とやけっぱちにもなるが、新潮9月号「時の肖像−小説・中上健次」(辻章)を読むことが唯一の救い。激越な臨場感に引き込まれて、400枚もあっという間だ。
 するといま(26日午前1時)、高校生になったばかりの夏休み、人里遠く離れた山小屋に泊まり込んで測量の手伝いのアルバイトをしたことを思い出した。測量技師が4人、アルバイトが2人の計6人が小さな小屋(確か電気も通っていなかった!)に寝泊まりして7日間を過ごした。食事は、すべて自炊。風呂も自分らで沸かす。2日目に、一緒に来た幼なじみは耐えきれずに帰っていった。先を越された、と思った。「ぼくも帰る」とは言えなくなった。そんな雰囲気を察したのか、チーフらしき年配の人が、代わりのアルバイトを素早く探し出し、次の日には、一つ上の、親戚筋の男が来た。その日以降は、男所帯の生活もまんざらでなく、面白いものだと思うようになっていた。大学を出たばかりの技師もいて、有益なことをいろいろ話してくれた。いま思えば、あれが本物の飯場ぐらしだった。当時5000円ほどのアルバイト料を全部使ってギターを買った。これも同じ釜の飯を食った技師のひとりが「はじめて稼ぐんだろ? 記念になるものを買えよ」言い、それを忠実に守ったのだった。

 8月27日(月)

 11日ぶりの休みとなり、午後になって外出。玄関まで送りに来た配偶者が「何とかならない? その恰好。せめて靴下をはいて靴を」と笑いながら言う。仕事向きの服装で、アタッシュケースのような鞄を提げて、裸足にサンダル履き、である。確かに、ヘンだ。自分でも異和感があったが、どうせ鞄は車の中に置いておくだけだから、とそのままの出立ちを通す。所用を済ませたあと、客席のど真ん中にトチの木の鉢植えが置かれていた「ぽぷら」なる喫茶店にこの恰好で行こうと思い立つ。鞄には読みかけの雑誌も入れていた。駐車場に車を停めて、ガラス戸を見ると、「27日、28日急用のため休みます」との張り紙。たまには、喫茶店で旨いコーヒーを飲みながら本を読み、手帖にメモも取ろう、などという目論見も、敢えなく挫折。自宅にまっすぐ戻って、寝転がりながら雑誌を読んだ。そのうちに、眠ってしまったようだった。

 8月28日(火)

 夜半、配偶者を勤め先に送る道すがら、空気も風も、もう秋のようだと思った。曜日の感覚はこの一ヵ月喪失したままだが、9月になればまた甦ってくる。とともに、退屈であろうとしっかり生活を見つめられる日常を取り戻すことができるだろう。「新潮」9月号はなかなか読みでがあった。玄侑宗久「アブラクサスの祭」も、思念の深さに感嘆した。「躁鬱病」の「僧侶」などという、矛盾体もなかなか素敵だった。欲を言えば切りがないのだろうが、森敦のような融通無碍が文章に出れば、もっといいはずだ。

 8月30日(木)

 西の方では雨が降っている、という。あらかじめそういう情報を頭に入れて歩いていると、風にも、その音にも、水の匂いを感じる。躯を取り巻く空気が、よぼど濃いのだった。あと2日で8月も終わる。40日間に及んだ「飯場暮らし」を終えて、町中の雑踏に戻るような心境である。
 昨夜、目の前を二人乗りの自転車が通り過ぎた。漕いでいるのは、顔見知りの高校生であった。お互い、叫ぶような挨拶を交わし合った。うしろの子まで、振り向いて、ぼくの名前を呼びかけ、手を振る。てっきり、自転車を止めて、近況の2つや3つ報告していくだろう、と待ち構えていた。傍にいた誰もが、そのことを疑わなかった。ところが、そのまま通り過ぎていったのである。嬌声が、サイレン音のように遠ざかった。おいおい、それはないよ、と舌打ちしながら、うしろの高校生がいったい誰なのか、を考えていた。はじめて見る顔のようにも、名前を聞けばすぐに記憶が甦るようにも思え、通り過ぎる自転車同様、不思議なことであった。

 8月31日(金)

 負け惜しみではなく、町中の雑踏はいい。市役所の税金担当職員と延滞金の利息について「論争」する。一部採録すると、
「いまどき、年14パーセントは高すぎませんか。これの、根拠は、何なんでしょうか」
「高度成長期に決められてそのままなんですよ」
「改訂の動きはないんですか」
「ないです。これは基本的には金利ではありませんので」
「すると、懲罰?」
「とも違うようですが」
 横にいた職員が、
「銀行から借りてでも、払った方がいいんですよ」
 知恵を授けてくれる。そういう見方もあるかと感心した。
 ともあれ、国民の義務は予想以上に「重い」ということだった。苛斂誅求に泣かされた百姓像は、歴史の教科書を抜け出て、いまもあちこちに見られるのだろう。雑踏の中でもがき苦しみながら、身近な人たちとの関わりの中に一筋の光明を見い出すことで、生き続けることのよすがとする。もちろんぼくもそのひとりだ。死者の霊を慰撫する盆の8月が終わると、西方の町では「風の盆」がはじまる。三日三晩とはいかずとも、せめて一晩、友らと踊り明かしてみたいものだ、と思った。
 


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