日  録 信楽焼で癒された月 

 2006年5月2日(火)

 夜、急いで帰る必要があって高速にのると、連休前の渋滞で、のろのろ状態だった。いつもなら30分で着くところを45分かかってしまった。待ちくたびれて、近くまで歩いてきた配偶者を拾って、目的地に急いだ。
(渋滞を避けて)迂回しようか、と言うと「いつもの道でいい。判断が的中した試しはないから」との返事であった。
 この一般道は、予想に反して(配偶者の予想通り)空いていて、定刻の5分前に到着した。
 ひとりになると、奇妙な“解放感”を経験した。

 ここ数日、ウィルスソフト「ノートン」にかかりきりだった。というのは、ウィルス定義ファイルなるものが更新できないとの表示が出るようになったからである。シマンテック社のHPを見て、あれこれいじったが駄目で、サポートセンターに問い合わせた。昨日届いた回答は、これで駄目なら次はこれ、というように、4段階に分かれていた。3つ目くらいまでは、素人でもできそうだった。念のために栄人にも確かめたうえで、おぼつかない手で、深夜、作業を続けた。1、2が駄目で、3段階の手前で、もしこれでうまくいかなければ、諦めようと思った。4段階は、われには解読不能の対処法だったからである。
 3段階目は、黒い画面の向こう側で、HPとの交信が15分ほども続き、「正常に……完了しました」と表示される。再起動して、更新してみると、できたのである。
  が、しかし……“達成感”がないのである。歳のせいか、すぐ向こうに目に見えないウィルスがいるせいか、などと考えた。

 5月3日(水)

 三連休の初日、風は多少冷たかったが、爽やかないい天気だった。夕方3キロほど先の本屋に出かけて、新刊書や雑誌を立ち読みしてきた。
 ゆったりした気分になれるのも、普段の仕事から解放されるからだろうと思った。
 高橋源一郎に、幼い頃生き別れた33歳の娘がいることを『文藝』で知り、柚木淑乃が長倉万治の妹さんだったのを『すばる』で知った。トリビア風に言えば「ヘェー」で済むことである。
 永倉万治の本は一度も読んだことはないが、釉木淑乃というのは、新人賞の下選考をやっていた頃何年か続けて原稿を読んだ(もとより偶然だが)人であった。チベット旅行を素材にしたものなど記憶に残るものもあったがそこではとれず、何年かあとに他の新人賞を受賞している。その程度の思い入れにすぎず、これもまた、もうひとつのゴシップかな。

 5月5日(金)

 この日が近づくと、もう何日も前から粽(ちまき)のことを思う。田舎の粽は、幾重もの熊笹にくるまれた、ニワトリの卵くらいの大きさのお団子であった。10個を一束にして、何束も作り、親戚や知人に配っていた。笹にくるまれたまま焼くと、こうばしい香りが乗りうつって、実に旨かったのである。
  神前用の粽は、普通よりも小ぶりであった。こちらは、食べるというよりは、かじることで、無病息災を祈った。 残りは、いざというときのために、大事に取っておくのである。お守りでもあったのだろう。
 柏餅なども同様の郷愁を誘う。この間なども、思わず手にとって家族分を買ってきたが、結局、全部自分が食べてしまっていた。

 5月7日(日)

 前の畑も日に日に賑やかになってきた。男爵は白い花、なんとか(品種名を失念しました)は紫の花を咲かせるというジャガイモも、枝がいくつもに分かれ、葉が茂い繁り、先端にその花の蕾が見えてきた。
 となりの畝には、茄子、キュウリ、トマト、西瓜、ズッキーニなどがならび、苗がすくすくと育っている。蔓が巻き付くための支柱も、びくともしないほどりっぱだし、マルチング(畑の表面を紙やプラスチックフィルム等で覆うことを、こう呼ぶそうだ)も、ドーム型のミニ温室も、なにもかもが完璧である。道路脇の一区画(50平方メートル程度)に横たわるこの畑は、奥に広がるどの畑よりも畑らしく見えてしまう。
 それもそのはず、隣家の、プロはだしのTさんが勘考し、実際の作業もほとんどやってくれたのである。借り主の配偶者と義妹は、Tさんの差配のまま多少は手伝ったかも知れない。
 われはただ、日々眺めるのみ、であった。「収穫しても、見るだけね」とはきつい冗談だが、小止みの合い間の、井戸端ならぬ「畑端会議」によれば、霜・低温防止のためにかぶせておいたプラスチックの帽子のために、かえって高温にやられてしまった苗があったらしい。それをTさんがこっそりと新しい苗と交換してくれたというではないか。もちろん言われなければ気付きもしない。子に辛い思いをさせないという親の心、に似ている。「The Last Leaf(最後の一葉)」風に言うなら、「永遠の苗」かとも思われ、感慨ひとしおの連休“最後の一日”であった。

 5月14日(日)

 ただ傍にいるだけでなつかしく感じる、そういう人がいるのである。
『魂は死なない、という考え方』の著者山本さんと「ミッドナイトプレス」の編集長岡田さんを、かねての約束通り高麗神社にお連れした。このふたりも、ぼくにとっては、そんな近しさを覚える人たちである。
 山本さんの分析によれば、そのなつかしさは、血のつながり、というよりは魂のつながり、前世に魂の交歓をしている、のらしい。いわば、魂のDNAが同じであるということになる。
 昨夜来の雨も止んで、晴れ間の嬉しい一日だった。山の上の聖天院まで足を伸ばして、たがいにあれこれ話ながら歩き回っていると、日頃のうっ屈もはれて、ひろやかな気持ちに満たされていった。二人もそうであれば、案内した身としては、面目が大いに立つのであった。
 鳥居の前の屋台で、甘酒を飲んだあと、配偶者へのおみやげとして韓国海苔をこっそり買ってくれていた。
 夕方家に戻ると、半年ぶりくらいに息子が帰ってきていた。
 夕食時に勧めると、一枚をぺろっと平らげた。そのお店の屋号が「出世屋」だったのを思い出し、また、高麗神社が「出世の神様」とも言われているらしいのに肖って、
「出世しろよ」
 柄にもない言葉が口を衝いて出た。

 5月18日(木)

 あちらこちらから笹竹がニョキニョキと顔を出して、か細い筍だが、食べられるのかな、などと眺めやるうちに、みるみる成長し、葉をつけはじめた。2日前に、植木ばさみで切って回ったが、勢いはいまだ止まない。地下一面に根を張り巡らせているのだろうと想像がつく。
 引っ越した当初、生い茂った地上部を刈り取り、ところどころでは根を掘り起こして切り取ったものだった。植木屋さんも、「根こそぎする必要はありませんよ。(庭のためには)少しは、あってもいいんですよ」とアドバイスしてくれた。
 切り取ったいくつかの根は昔の学校の先生が「愛用」していた鞭のことを思い出させた。黒板を指す以外に、体罰用としても「有用」なはずだった。叩かれたら痛いだろうな、と思っていた記憶が残っているので、実際に叩かれたことはなかったに違いない。そう思いたい。
 手入れして、いまや同様の仕事をしているわれも使ってみようかと一瞬考えたものだったが、そのまま捨ててしまった。
 今朝、道の奥に住むNさんから「裏庭に筍を置いておいたから、どうぞ」という思いがけない電話があった。早速出てみれば、刈り取った笹竹の上に太い部分が直径10センチもあろうかという巨大な筍が2本置かれている。濃い茶色の皮も立派である。早速お礼に出向くと、「そこで取った物ですよ」ととなりの竹林を指差した。天に届くほどの孟宗竹が群立している。この親にしてこの子、と納得した。

 5月26日(金)

 朝からろくでもない電話しか来ないので、気分を変えようと信楽の小西さんに電話した。以前に、お母さんから番号を聞いていたので、お店の方ではなく携帯に電話した。すぐには気付かないだろうと、住所やら何やらをつけるつもりで、つまり、ちょっと身構えて名乗りはじめたがすぐに分かったようであった。
 
  三日前に、抹茶茶碗の画像を添付します、と書かれたメールが届いていた。そのメールには、どこを探しても画像はなかった。注文したのが昨年の秋、今年に入って、別の件で電話したとき「いい物が入りました。メールで写真を送ります」と聞かされて大喜びした。それからでももう、三ヵ月近く経っている。待ちに待ったメールだったのである。
 この若主人、話の中身や言葉の風情から、店番を両親に委せっきりにして、自身は土をこねたり、作品を焼いたりしているのではないかと、にらんでいる。その人がいいと言えば、いい物にちがいない。画像は見当たらないが、注文します、と即刻返信した。

 電話口で、若主人も、待ってましたとばかりに話し始め、「添付して送ったところ、メールボックスがいっぱいとかで、戻ってきたんですよ。で、画像なしの本文だけを送ったんです」と言うではないか。
「いいです。贈った人に、あとで見せてもらいますから」と答えると、
「釉薬をつけないで登り窯で焼いたものです。焼き締めのあとが残っています。きっと、気に入りますよ」
「登り窯ですか。それは、いいですね」
 こちらも、生半可な知識を振り回して、いつになく長く話した。30年ほど前、同僚の女性らと行ったとき、登り窯の前で写真を撮った記憶が甦っていた。もういまは使っていないと聞いたはずなのに、この待ちに待った抹茶茶碗が、昔ながらの登り窯で焼かれたものとは、なんとも嬉しいことだった。小西さんに電話してよかったと思った。
 
  この日一日、何度も信楽焼のことを考えた。漫画風に言えば、机に肘をついてだらしなく笑っている男の頭から破線の吹き出しがのび、その中に抹茶茶碗が納まっている。その昔、こんな画風で一世を風靡したのは、滝田ゆう、だった。知っているだろうか、若い人は。

 付記:雨の多い5月だった。日照時間の不足が農作物に悪い影響を与えると聞くと、うちの畑は大丈夫か、といっぱしの心配をするようになったが、もともと雨は嫌いではない。雨音を聞くだけで、からだ全体がのびやかになる。前世は、ジャガイモのような野菜だったのかも知れない。植物からの転生があればの話だが。そういえば、信楽の登り窯の前で写真を撮ったとき、あの日も雨が降っていたのだった。(6月3日記)   
       
 


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