日  録 感動のゴーヤー   

 2006年8月6日(日)

 ここ2、3日、猛烈な暑さが続く。日中は、開け放した窓からときおり風鈴も鳴らないほどの微風が吹き込むのみであった。それでも夜になると、しきりに風が入ってきて、幾分過ごしやすい。まだいつもの夏ではないと思う。
 きのうは、嫂の一周忌法要。田舎からは、姪がやってきた。「上野だよ、洋子ちゃん」と来るたびに念を押すように教えてくれた言葉が甦って、迷うことなく、家を出て3時間で着いた、という。
「まったく、おばさんのおかげ」
  あっという間の一年だったが、喪失感はなお大きい。みな同じ思いで、新たな涙が出るのだった。
 
  夕方戻ってからは、何度も汗をかきながら、ずっと眠っていたように思う。

 8月13日(日)

 午後になると、じっとしていても汗が出てくるほどの暑さだった。これがいつもの「夏」だと自分に言い聞かせ、5日間の夏休みの2日目は、森敦の『マンダラ紀行』を読み進めていった。
 奥付を見れば、昭和61年5月の刊行本、何年前かと指折り数えて、びっくり、内容の凄さにまたびっくり。「爛熟した驚くべき女陰、これを大日如来と崇めるならば、胎蔵界大日如来は女陰なのか」「阿字は大日如来である。かくて、大日如来と合一することを阿字観という」など、何ヵ所かに鉛筆で傍線を引いているが、もはや記憶にはない。

 テレビで放映されたらしい「森敦マンダラ紀行」を元に書き下ろされたものというが、ここでは、不調の体を駆り立てて旅に出た作者の存在自体が“ひとつのマンダラ”であるように思えてきたのである。また、同行の「伊丹政太郎さん」が魅力的に、くっきりと描かれていて小説を読むような愉しみも与えてくれた。こんないい本を“胎蔵”していたんだと、少し誇らしげな気分になった。

 汗をかきかき、ときにはベッドに寝転がりながら読んだが、それしも、「難行苦行によって、験を得る」ことの一助になったか。などと、埒のないことを凡人のわれは考えたり。

 8月14日(月)

 午前五時すぎ、車を運転しながら真っ赤な太陽を見た。正面、左、また正面、と位置は変われど、赤いままに付いてくる。憑いてくる、とでも言いたいほどの見事な赤であった。車を路肩に停めて、小さな森の梢にかかる太陽を携帯電話に納めた。  
 
 暑い盛りの昼過ぎ、外から戻ると、「日販」から手紙が届いていた。7月はじめに投稿した文章が『新刊展望』(書店でサービスとして配布されているらしい)9月号に掲載されたことを知らせるもので、見本誌が一冊はいっていた。『按摩西遊記』の書評が、改変されることなく、そのまま載っている。「本誌の入手先書店」の項目に「御社の新入社員から」と書き込んだのだったが、さすがにそれはカットされていた。
 
 当のTに報告すると、「私たち新入社員は、新刊展望を含む社内誌のモニターをやっているんですよ」と教えてくれた。運よく“採用”となったのは、あの一言が効いたのかも知れない。すなわち、新入社員の七光り!

 8月16日(水)

 明日からの合宿を前に、ドメスティックな用事で朝からバタバタしていた。たった4日間とはいえ、“世俗の気がかり”を残しておきたくない。といって、そんなにややこしいものがいくつもあるわけではなく、また、ここにいなければいないで、日常生活はごく当たり前に過ぎていくのだろうと思う。バタバタは、要するに、気分でしかないのだろう。
 去年は見事に咲き誇ったサルスベリの花が、今年は、道路側に数花序のみ、いまごろになってやっと咲いた。去年花が咲き終わった頃、となりのモミジのために枝先を切り落としたことが原因かも知れない。
 遅いなぁ、と心待ちにしつつ、はたとその所業に気付いたのだった。ひと夏が欠けたか、と切歯扼腕するなり。

 8月21日(月)

「蝉の鳴き声を聞くと、戻ってきたんだなぁ、と思う」と言ったのは小学6年生の男の子である。冬はスキー場となる、標高2000メートルの志賀高原・熊の湯では、トンボが何匹か飛び回っていた。ホテルでは、最近ホンモノの熊が出たので注意を、と呼び掛けていた。日中の陽射しも、涼風にかき消されて、心地よかった。朝晩は、気温が10度近くにまで下がった。小さな楓の木が、すでに数葉、赤に染まっていた。山はすでに秋の気配がしていたのだった。
 下界に戻ると、暑さも暑いが、蝉の鳴き声が喧しい。
 うーん、と唸って、小学生の感受性も、捨てたものではないと「再認識」させられた。

 8月27日(日)

 これで夏も終わりか、と思わせるような日が続く。そうならば短い夏となってしまう。
 ところで、 このところの感動はゴーヤーである。
 となりのTさんの勧めで、鉄柵の傍に(もちろん、配偶者が)植えたゴーヤーはいま2,3メートルにわたってつるを伸ばし、気弱そうなうすい葉が柵を覆い、可憐な黄色い花がところどころに咲いている。こんな葉や花を見ていると、いぼいぼだらけの、無骨な実はまだまだだろうと思いきや、半月ほど前から葉に隠れて大小のものがいくつかぶら下がるようになったのである。
 それも、掻き分けて探さなければ見つけることができない。見つけた実は、葉や花からはとても想像できないような代物、とくる。そのミスマッチぶりに、感動を覚えたのである。身をやつした貴種とでも形容したいくらいなのである。
 以来、実を探すことが、毎日の楽しみになってしまったが、これはいわば感動を追体験しているようなものかも知れない。
 そして、今宵の食事は“夏バテ”防止の「ゴーヤーチャンプルー」。もとより、大好物である。     
   
 


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