日  録 「思い出は人生そのもの…」  

 2006年10月1日(日)

 9月の最後の週には、古くからの友ふたりと逢うことができた。同人誌仲間でもあったから、当時(30代の前半の頃)のことも話題に上った。あんなこともあった、こんなこともあったと、指摘されて、思い出すこともあれば、すっかり記憶から抜け落ちていることもあった。それでも、思い出を共有していることには変わりない。お互いが当面の深刻な課題をだかえているのだが、逢うことは愉しいから、もっと頻繁に、と思う。
 もう10月、雨の日曜日となった。昼過ぎから、なんども眠りに落ちた。夜中近くなってやっと身も心も目覚めてきた。すると、『図書』10月号の蜂飼耳「玄関のない家」というエッセーが目に留まった。優れた感受性を遺憾なく発揮している。
  とてもなつかしい題材(バスが一時間に一本しかない田舎の、築100年の友人の家を訪ねて、そこで一晩を過ごしたときの点景)でもあった。

 10月3日(火)

 夜になって、虫のすだく声がいっそう喧しくなってきた。大地には、ここ2,3日の間に降った雨が沁み込んでいる。虫たちにも、それが天の恵みであったのだろうか。
 昼過ぎのこと、車のドアを開けると、脇をすり抜けるようにして、われよりも先に一匹の虫が飛び込んでいった。素早かった。体長2,30ミリの、黒い羽虫である。
 春先に、この黄色い車には虫がよく寄ってきた。花の群れと勘違いするのかも知れない、とその時は思った。が、いまはもう秋である。
 続いて乗り込めば、助手席側の窓を這うように行ったり来たりする。
 せっかく入ったのに、もう出たいのか。
 窓を開けると、案の定、羽虫は外に出ていった。小さな車の中を縦断しただけとなった。
 ただ迷い込んだだけかい、一分の理もなく。
 一緒に出てきた配偶者を見遣ると、手製の虫取り網を手に野菜畑に向かっている。
 紗でおおったトンネルのなかに網を入れて、大根の葉に集まる虫たちを掬うのである。
 ふと、われらは虫とともに生きている、と思った。ある意味では、虫そのものであるのかも知れないが。

10月8日(日)

 早朝の仕分け作業に従事して4ヵ月が過ぎた。といっても、7、8月は本業の方が忙しかったので、ほとんど出なかった。これまで日数にして20数日、全日数の6分の1と、わがままな“勤務ぶり”ではあった。
 友人(女性)に最近そのことを話すと、「そんな無理なこと、しないでください!」と諫められた。自分でも、よく持って夏前までだろう、と思っていたが、気が付けば4ヵ月が過ぎていた。5時過ぎに家を出るが、かつては日の出の太陽が拝めたのに、いまや真っ暗闇に近い。そういう面では、楽しみは半減している。
 
  仕事の内容は、ベルトコンベアーに乗って流れてくる品物を、行き先別、(食品、菓子、酒、惣菜などの)種目別に分けてカゴに積んでいくのである。できるだけ無駄なく積むために、多少の想像力が必要とされるが、あとは肉体労働そのものである。3つの倉庫を、それぞれ2,3人が担当する。大半は、20代の若者である。いまだに間違えて積み込むことがあるが、職場全体に、かつての殿様商法のなごりが残っているのか、のんびりとした雰囲気が漂い、失敗を鷹揚に見逃してくれる。続いている理由のひとつである。
 
 仕分けは、品物の量によって、1時間で終わることもあれば、2時間近くかかることもあるが、いつも次の言葉で終了する。     
「流しー、おわりー」
 がに股で3つの倉庫を経巡りながら、きびきびとした動きの、心優しい若いチーフが、口の両端に掌をあてて、大声で叫ぶのである。
 この言葉を聞くことがいまや楽しみになってきている。というのは、先日のこと、ベルトコンベアーは低く唸っているがいっこうに品物が流れてこないことがあって、「まだですよね」ととなりで作業している、これも無口で、優しい眼差しをした若者に訊いたところ「いえ、終わったんですよ。さっき、言っていました」とか細い声で教えてくれた。聞こえなかったか、調子を変えたか、とずいぶんと落胆したことがあったからである。
 言葉で表現することは至難であるが、独特の節回し、つまり抑揚かな、これが実に牧歌的なのである。続いている理由のふたつ目が、この言葉かも知れない。
 聞くところによれば、配送しているスーパーの意向で、この倉庫での作業は来年2月で廃止になるという。すると、この言葉を聞くことができるのも、あと5ヵ月足らずということになる。こちらが、続いていれば、だが。

 10月11日(水)

 小さな秋、ならで、まことに些末な、細かい夢、であった。
 ハイライトが一本箱から抜け落ちて床に転がった。腰を屈めるや否や、われより先に拾い上げて、はい、と言って目の前に差し出してくれる人がある。あまつさえ、火まで付けてくれて……。そんな親切な、気の利く人が、どこのどなたであるのか分からない。そこらあたりが夢である所以なのだろうが、それにしても、どうして? 禁煙に挑戦しているわけでもないのに。
 
  またあるときは、言い争う声に目が醒めて(もちろん夢の中で)聞き耳を立てていると、「あなた、私らが帰ったあとで、しっしっと追い払う仕草をして、あかんべぇと舌を出したでしょ 」と言っている。難詰というよりは怨めしげな声である。「そんなふげたの悪いことしませんよぉ」いまだに語源の分からない「ふげた」という父がよく使っていた言葉まで持ち出して弁明に努めるのは、なぜか自分である。かりに事実だとしても、去ったあとの行動がどうして分かってしまうのだろう。
 
  北朝鮮が核実験を強行した。これは夢ではなくて現実である。ついさっき、曇り空を切り裂く大きな爆音がした。見上げると、三つの自衛隊機が、超低空で南に向かっていった。一瞬背筋が凍りついた。

 10月15日(日)

 午後になってほどよい陽射しが戻ってきた日曜日、職場では、なかなかできなかった仕事を午前中に片づけ、ほっとして外に出れば、蝶が二羽反魂草(?)に群がっている。花のうえでくるくる回転しながら蜜を吸う様に、しばし、みとれた。
 携帯のカメラを近づけても、いっこうに気にしない。一心不乱とは、このことかと、思う。水玉模様の柿色の羽、というのも、また嬉し。
    
 10月21日(土)

 なかなか体調の健やかな一日だった。体調とは、つまるところ精神的なものに帰着するのかとも思われるが、今週は水木金と3日続けて、早起きという無理(?)を重ねたために、昨日までは地に足が付かない浮遊感に見舞われていた。ところが、今日21日は、振り返ってみれば、体も軽ろやか、こころも随分と寛やかであるのだった。こんな日は、一年のうちに数回あるかないかだと得意な気分がした。
 
  18日の水曜日には、何十年ぶりかで「中央線」に乗った。校内に「風のミュージアム」というなかなか素敵なコーナーを設けて、学外の人たちにも施設を無料で開放している三鷹市の高校の「説明会」があったからだ。かなり早く着いたので、途中、八幡社や禅林寺を覗きながら 、高校まで歩いていった。武蔵小金井に住んでいた頃も、ここには一度も来なかったなぁ、と思いながら、緑の少ない駅周辺の街並みに意外な感じを覚えていた。

 帰りはとなりの吉祥寺に降り立った。ここも、20代の頃来たきりの街だが、かつてはもっと猥雑な感じがし、それが魅力だったが、もはや新宿あたりと変わらない。それでも、アーケードの商店街に入ると、昔の記憶が戻ってきて、ほっとさせられた。
 アーケードを抜けて百貨店を越すと、建物も低く、人の波もまばらになって、閑静な住宅街のような感じとなった。これもまた、安堵感につながる。目的の息子の住まいは、そんな中にある小さなマンションであった。
 家を離れて3,4年になるが、どんなところにいるのか知らないのではちょっと想像力が偏ってしまう、というので、留守は承知だがこの際、外観だけでも見ておこうと、来てみたのだった。
「郵便受けにでも入れておいて」と配偶者は、小物の洋品と一緒に畑でとれた「ハヤトウリ」まで持たせた。それを朝からぶら下げているのだった。住所をたよりに、歩き回っているとき、こりゃ“お上りさん”の図だな、と自嘲気味に思った。

 結局「ハヤトウリ」は持ち帰ることになり、高校でおみやげにもらった弁当も、だんだん重みを増していた。それにお腹も空いた。井の頭公園は反対側だったから、そこまで歩く力も失せ、店舗が閉鎖されたビルの前に都合よく置かれたベンチに坐って食べることにした。暑いくらいの陽射し、ときおりの微風、行き交う人の話し声に身を委せて食べていると、お上りさんも悪くない、と思えてきたのだった。

 10月28日(土)

 夜になって、雨になった。窓を開けて雨音に耳を澄ましていると、この一週間のことをあれこれと反芻しつつ、遠くは小さい頃の思い出がワンカットずつ甦ってくる。こんな記憶をどうすればいいのか、まったく途方にくれる。
「思い出は人生そのものである。しかし、質が異なる別の人生なのだ。」(レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』)とでも呟きたくなる。
 
 10月29日(日)

 腰痛で立ち居がままならなくなった配偶者に頼まれて朝から買い物に出かける。鉛筆書きのメモを片手に、あっちの売り場へ、こっちの売り場へとウロウロする。慣れないことは、疲れる。レジに並べば、前後の人のカゴの中に自ずから目が行って、あぁこれはいい、うちも買おうかな、などと思う。他人のカゴは、効果覿面の広告なんだ。遅まきながら、認識した次第である。          
 


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