日  録 昨日、今日、そして明日へ。  

 2006年12月2日(土)

「電車運のない男」と自嘲するNを職場から7,8キロ先の北朝霞駅まで送っていった。聞けば、3日連続で帰宅の足を遮断され、いつ来るかも分からない電車を、寒風に吹かれながら、ひたすら待った、という。
「おかげで、風邪を引きました」
 目的の駅に着くと、
「あの夜は、ここら辺りが、人でいっぱい、タクシーでいっぱいでした」
 と最悪だった4日前のことを語るのであった。
 12時を過ぎないと渡せないきまりなんです、という弁解とともに駅員から無料タクシー券を手渡された。それから3時間以上タクシー待ちの列に並んで、国分寺の自宅に着いたのは、午前4時を回っていた。見知らぬ人3人との相乗りだったが、みんなへとへとでほとんど言葉を交わさなかったという。
「タクシーは、有卦に入った、というわけですね」
 つまらん感想を述べると、
「眠いよぉ、とぼやいてましたよ。一緒に、JRを呪ってくれました」
 そういえばNからは、運が悪いと言うだけで、怒りや憎しみの言葉はない。若いのに、なかなか鷹揚な男だ、と感心させられた。

 12月13日(水)

  ゆうべ“床屋”に行った夢を見た。若い男に髪を切ってもらいながら、ちょっとイメージが違うなと、異和を感じている。いま髪が伸びているわけでもない、ましてや髪型を気にする柄でもないのに、なぜ床屋だったのだろうと、目が覚めてから考えた。
 そういえば、床屋と寝床は同じ漢字を当てる。早速床屋の語源を調べると「江戸時代、男の髪を結う髪結いが床店(とこみせ)で仕事をしていたことから」とある。とこみせとは、「商品を並べるだけの、寝泊まりしない簡単な店。 または、移動できる小さな店、屋台店」のことを言うらしい。前の住まいの時に利用していた理髪店は「カット・ロマン」という名前だったが、自宅で予約待ちをしていると「床屋ですけど。いま、空きました」と若い男が電話をかけてきたものだった。
 その夢と前後して、若い者ら(主に女性)に囲まれて酒を飲む場面も現れた。こちらは、大いに気が晴れるから、愉しい夢であった。
 心気(辛気とも書くらしい)とは、 (1)心持ち。気分という意味の他に (2)心がはればれしないこと。くさくさすること。また、そのさま。という意味もあるらしい。田舎の母らはよくこの言葉を使っていた。面倒なこと、困ったことがあると「しんきやねぇー」と言い合うのである。われもまたいまこの言葉を使ってみたくなる。

 12月17日(日)

 休日、勢い込んで早起きをした。が、下水から水が溢れんばかりだったので、何ヵ所かの溜まり場のフタを持ち上げて汚泥をスコップで掬い取ったのが、はじまりとなってしまった。
 そのあと灯油を買いに、2キロ先のガソリンスタンドまで行き、帰りにスーパーに寄って、頼まれた小さな買い物。午後は、近く富良野に帰る配偶者のお供(運転手)で川越アトレまで、またその帰りに、地元の名所「サイボクハム」に立ち寄って、それぞれ土産物を何点か……。
 それだけでは終わらなかった。パンクしたために数日前から置きっぱなしになっていた娘の自転車を車に積んで駅前から持ち帰る“仕事”が残っていた。パンクではなく、空気を入れるバルブが一式、故意に引き抜かれていたのだった。念入りに前輪も後輪も抜かれていたから犯人はかなり執拗な性格かも知れない。誰かに恨みを買っていないか、と冗談半分で訊けば、否定も肯定もせず、少し考える風である。これはこれで新たな心配の種であった。ともあれ、すでに日は落ちていたが、なくなったバルブを求めてホームセンター内のサイクルショップへと急ぐ……とまぁ、こんな一日であった。これをしも、変哲のない日常と形容するのだろうか。川越で待ち時間に入った本屋さんでは、目当ての本もなかった(いけだ書店、文芸書が薄すぎる!)し、やはり冴えない一日と言わざるを得ない。
 自転車の修理を終えて中に入ると、ストーブの前で暖をとる娘に向かって「いままでかかって直してくれたんだから、ちゃんと、お礼を言いなさいよ」と配偶者が言う。あろうことか娘は、両掌で顔をおおって俯いてしまった。
「はにかみの16歳」という言葉がふと口を衝いて出た。この着想のための、一日だったと思えば、多少は救われるか、と云々。

 12月24日(日)

 ほぼ1キロおきにあるコンビニの、その駐車場がいまや仮眠場所として定着した。家を出て10数分経つと、きまって眠くなるからである。車の暖房が効きはじめると、ついうとうととなる。原因はもちろん寝不足だが、夜中の帰路では一度もそうならないから、他にも理由があるのかも知れない。気のゆるみ、出社拒否症? などいろいろ考えてみるが決定的ではない。常習となったことはまちがいない。
 ともあれ、このまま眠りの世界に入っていければ幸せだと思うが、運転する身にはそうはいかない。一昨日も、そんな魔の時間が訪れた。すぐに「停めるだけの時間の余裕がいつもありますように。」と言ってくれたYの言葉が甦り、駐車場に滑り込んだ。いつもより長い30分ほど眠った。そのせいで、久々のミーティングに1時間遅刻してしまったのである。
 
  昨日の朝、電話の音で目を醒ました。枕元の子機を取って、もしもしと何度も叫ぶが応答がない。寝ぼけて、ダイヤルをいくつか押したらしく、「……また、おかけ直し下さい」などというテープ音が聞こえはじめる。ここで、こっちじゃなくてあっちだったか、とやっと気付いた。
 直通のテレビ電話をダイヤルすると、帰省中の配偶者が画面に出てくる。義父母も代わる代わる元気そうな顔をみせてくれた。うーん、なかなかいいもんだと思っていると、「あなたのヘンな顔も、こっちのテレビに大きく写っているよ」と言う。無縁だろうと思っていたテレビ電話だったが、こういう使われ方もあるのか。迂闊だった。

 午後、かねてより気になっていた下水のつまりを“本格的に”解消することを思い立った。下水管はL字形に約15メートルにわたって建物を半周するように埋められている。5ヵ所の溜まり場にはコンクリートのフタが付いていて、持ち上げると汚泥や水の溜まり具合がわかる。順番に、ホームセンターで少し前に買ってきた、詰まりを取り除くための金具(ワイヤー)を差し込んでいった。そしてついに、詰まりの場所を突き止めたのである。
 公道の側溝に流れ込むひときわ大きい溜まり場から2メートルほど奥にはっきりとした痞えがあった。ここからは、それまでの魚釣りのような気分から、貫通に向けての土木作業となった。
 となりのTさんが道具を見繕って持ってきてくれる。通りかがかりの人が覗き込みながら声を掛けてくれる。「建って30年ですものね」と慰めてくれる人もいた。返り水(汚水!)を顔面に浴びたりしながら、野菜作りに使う支柱を管に差し込んでつついた。が、 いっこうに埒が明かず、「日没までの勝負ですよ」などといっぱしのことを何度も心配げに見に来てくれるTさんに言いながら同じことを繰り返した。

 もしや、管が破れているのかも、と思い、地面を掘った。5,60センチほどの深さまで掘ったが管には届かず、仮に破れていたら、もうその時は当方の手には負えない、と観念して元の作業に戻った。
 そのとき、75,6歳と聞いている近所のHさんが「私はこれでやるんですよ。ちょっと堅めのホースです。使ってください」と声をかけてくれた。
 そればかりかHさんは、「ちょっと、やってみましょう」とわれを押しのけて、汚水にずぶっと手を差し入れて管にホースを突っ込んでみせてくれる。
「汚れますので。あとは、自分でやります」と言っても、「いいです、いいです」と何度も試みてくれる。
  ここでわれは、いままでのへっぴり腰を反省したのであった。そうか、正面切って(つまり汚れなど厭わず)向かわねば駄目なのだと悟ったのである。所詮、自分らの生活から出たものである。
 それから、10分後に、管にへばりついていた大きなヘドロがとれて、溜まっていた水がどっと流れはじめたのである。この開通に感動し、身を挺してのHさんの指導のおかげであると、改めて感謝した。

 12月31日(日)

 年賀状30数枚を書き終え、どうせならと5キロ先の集配局へ向かう途中前方に、秩父の山並みに沈もうとする赫い夕陽を見た。左30度のところには富士山がシルエットのように突き出ている。ふたつながら携帯の写真に納めようと、撮影ポイントを探りながら田んぼの中の道をゆっくりと走っていった。ところが、山巓のかげに早くもかくれてしまったのか、どこまで行っても、さっきの鮮やかな太陽が見えないのである。
 沈む夕陽を撮り損ねた! 
 ちょっと悔しい、大晦日の夕まぐれとなった。
 みなさん、よいお年を。           
 


メインページ