日 録 風の音のみ険しくて 

2001年9月1日(土)

 明け方に床に就いたが、タオルケット一枚では寒いくらいで慌てて毛布一枚を追加した。数時間前に突如降った雨もいつしか止んでいる。一夜明ければ、新しい月。この8月と9月の「境界線」は相当に太いと思う。さっとカーテンを引けば、目の前にあるはずのない大きな河が横たわっている、そんな感じだ。昼前、近くに用事で出ると、陽射しに夏の名残りはあったから、こんな感覚は心理的なものか。
 未明に新宿歌舞伎町でビル火災が発生し、44人もの人が亡くなったという。何という不運だ。他人事ならず、哀悼の感深し。

 9月2日(日)

 もう3日の未明になるが、いままでフォトショップなるソフトを使って、デジカメで撮った写真200枚のファイルサイズを落とす作業を続けていた。新人からノートパソコンを借りてきて、そこからこのパソコンへのファイルの移動とCDへの焼き込みは息子にやってもらったが、一枚のサイズが大きすぎて、他に転用するには不都合、そこで、これだけは自分でやる羽目に陥った。マウスの、千回近いクリックで指先が痺れている。1日の夜は、長年一緒に仕事をしてきた人の慰労会に出席。二十数名の気のいい若者たちと、午前3時まで、談笑す。なかなか楽しい会であったが、こちらも千回のありがとうを、と胸のうちで呟いていた。

 9月3日(月)

 朝から曇り空である。置き薬屋さんは開口一番、梅雨に逆戻りしたようですね、と言ったものだが、昼過ぎからときおり激しく雨が降りはじめ、終日蒸し暑かった。外を飛び回っている人の感覚は正しかったわけである。この、脱サラの、一匹狼の薬屋さんとも長い付き合いになる。お互いに同じところから近辺に引っ越してきたことや同世代ということで、私事にわたって何でもかんでも話し、こちらもまた問われるままに答えてきた。小学生だった娘などは、隣の部屋で会話を聞き及んで「かしこい薬屋さん」とあだ名を付けた。もうひとりの、こちらはいかにも会社組織の一員という感じの、背広にネクタイ姿の、話も病気に関することばかりの薬屋と区別しての命名だった。「かしこい薬屋さん」は今日も、大学生の学力低下と、文部行政のジグザグぶりを批判していった。システムでもいじっていないと仕事がなくなりますからね、と言うから、同感だと一応答えたが、3ヵ月に一度という「補充」が、やけに早いなぁと、そちらの方に気を取られていたのだった。
 
 9月5日(水)

 雲の形、空の色、風の匂いなどが早くも秋の気配である。深夜、窓の外からは、虫のすだく音が聞こえてくる。NYに行った紀から初メールが届いた。マンハッタンの北、タリタウンというところで留学生活をスタートした模様がはつらつと認められてあった。寿ぐ気持ちと同時に、つくづく勇気があるなぁと思う。若さが羨ましくなる。四季の中では最も心逸るときである。休日を前に意気が上がった。

 9月6日(木)

「昼過ぎ出勤」の日常は戻ってきたが、なかなかリズムが取り戻せず、一種の思考停止に陥っている。ことばが、生まれてこない。たまに沸き上がっても、とても凡庸なものでしかない。こういうときは、機が熟すのを待って、停止のままにしておいた方がいいのか。宮内さんの最近の「日記」は創作ノートの趣があって、HPに入るたびに、ドキドキする。5日の項などは、人柄が彷彿として、「それを待っている読者もいる」とパソコンの画面に向かって叫びたいほどだった。ことばを創り出すのは、確かに骨身を削るのに似ている。自分の拙い経験で言えば、主に頭の骨が削り取られて、どんどん小さな頭となって、終いには自己嫌悪の固まりと化してしまうのだった。がんばってください、宮内さん。完成の暁には、真っ先に買って読みます。

 9月7日(金)

 どんよりとした曇り空、そのせいでもあるまいが、頭が少し痛い。思いがけず、時さんから電話ありて、高校の文化祭の行事の一つ「本郷界隈・文学散歩」というのに誘われる。地元の古本屋店主が6時間かけて案内してくれるという。ちょっと面白いか、と思うが仕事のために断念。それとは別に、年内にも一度会おうと言い合って、受話器を置く。時さんは、かつての同人誌仲間。筆無精のようで、メールの返事を、なかなか寄越してくれない。澄んだ詩を書く人だから、由なしごとの散文には抵抗があるのかも知れない。そんなだから、突然の電話は嬉しかった。
 文芸四誌の広告を“精読”、また「新潮」だ、とひとりごつ。目当ては、一挙320枚「日高」(立松和平)である。

 9月8日(土)

 出勤途上ずっと、その電話のことを考えていた。職場に着いて数十分後にダイヤルすると、山本かずこさんは、5分前に自宅に電話をしたところだ、という。こちらはそんなこととは知らずに、ご機嫌伺いをかねて、電話をと、思い続けていたのだった。偶然も偶然、不思議な暗合に、心が浮き立った。UPしたばかりの「織る女」を読んでくださいよ、などと「押し売り」までしてしまった。

 9月9日(日)

 台風の影響か、断続的に激しい雨が降り、風が吹いた。気温も湿度も高い。
 このところ、先夜の「情景」を思い出してひとりで顔を綻ばせている。我ながらマニアックだと思うが、本人の名誉を傷つけず、かつ普遍的に物語化できないかと考えている。
 それは、事実としては、こういう顛末であった。飲み会の席で、カクテルに付いてきたサクランボをある女性が、酔狂にも年少の者に食べさせようとした。高く掲げて、頭上から口元に下げていった。若い男は当然の如く、仰向いた恰好のまま口を開けた。あーん、というやつである。しかし、いつまで待っても、獲物は降りてこない。真正面で見ていた二人の女性が、一斉に囃したてた。斜め向かいにいたぼくは、必ずしも一部始終を見ていたわけではなかったが、「いやだー。パクパクしたぁ」という唱和に、注視させられた。瞬間だったが、確かに金魚のようにパクパクしている。言い得て妙であった。そのときは、その男が羨ましくてしようがなかった。ここ数日、ニヤニヤするのは、男の仕草が、天真爛漫で、無邪気で、何ともいい表情をしていたと思い出されるからだ。ぼくがその立場だったら、きっと顔を引きつらせて、弁明にこれ努めるという無様さを露呈したにちがいない。

 9月10日(月)

 朝から雨風強し。先回は肩すかしを喰ったが、今度の15号はどうやら直撃の勢いである。ムラサキシキブが早くも実を付けている。おりからの強風に、葉の上の実も、揺れる。モミジ、夾竹桃の大木に守られてはいるが、落ちないかと心配だ。

 9月11日(火)

 NYで(現地時間11日午前8時45分頃)大変な事件が起きた。言葉もないというのは、このことか。ついにここまで、という感じがする。紀にメールを入れると、20分後に返事が来た。授業がすべてキャンセルされ、自宅でじっとしているとのこと。それにしても、ハイジャックされ、激突を命じられた機長の心中を察すると、辛くなる。もちろん、犠牲者のすべてに、深い哀悼の念を覚える。

 9月13日(木)

 小雨が降りはじめた午後、車にて外出。川越の百貨店に入っている紀伊国屋書店にエスカレーターに乗って向かっていた。傘の先で、コツコツと鉄の踏み板を叩いて、躯が上に運ばれていく心地よさを、リズムに置き換えていた。癖みたいなものでもある。すると、場内アナウンスが、「傘の先で、エスカレーターを叩かないでください」と言うではないか。傘の先を持ち上げながら、思わずあたりを見回した。考えることは、みんな同じか、と苦笑せざるを得なかった。
 湾岸戦争が10年も前のこととは思えない、ついこの間のことのように感じられる。千年にわたる確執があるのだから、10年などはほんの数秒程度のことなのだろう。宗教戦争のことだが、集団としての人間は、野蛮、卑劣、窮まりなし、と思える。

 9月14日(金)

 精神的にちぐはぐな一日、というのが年何回かはあるものである。NY事件の余波のせいか、それとも朝からずっと低く唸るような頭痛に見舞われていたせいか、普段通りの行動をこなしながら何かが違うと思い続けていた。帰りがけに、鴨居に手が届くか、と挑まれて三回ジャンプをした。何でもない「運動」のはずが、しばらくすると肩のあたりに、鈍痛とともに凝った感じが生まれた。頭痛も加速された。何とかの冷や水ということわざを思い出した。失敗だった。深夜、久しぶりに食器を洗った。割ったりはしなかったが、手付きは、いつになく荒々しかった。しかし、洗い終わると頭痛は止んだ。CDを焼いて、解けなかった問題を解いて、メール一件認めると、もう午前二時を過ぎていた。とうに日付は変わっていたのであった。

 9月15日(土)

 数日前に『midnight press13号』が手元に届いた。まずはじめに、コラムを中心に、拾い読みをする。1年半前からNYに在住という井上輝夫氏のエッセイ「世界ってどうしてこうきれいなんだ」は、今回の事件のずっと前に書かれたはずだが、示唆に富み、納得させられることも多かった。ぼくも大好きな詩人・石原吉郎を援用して、「私にとってむしろ謎であり、考えたくなるのは、(中略)自然の美しさへの感嘆の方である」と提起し、「この小さな宝石(自然の美しさ)を握りしめているかぎり、歴史の悲惨に人が耐えられる」「そこには詩というものでしか表現しえないもっとも根源的な体験がある」と結んでいる。倫理も、善悪の観念も、ともに拒まれたような「事件」や「迫り来る戦火」を前にして、人間は最終的にどこに帰属していくのかは重要な問題だと、ぼく自身も思うから、この論考は余計身に沁みたのである。今日、ムラサキシキブの写真を表紙に飾った。これも、小さな宝石なんだろう、きっと。

 9月16日(日)

 陽射しは強いが、なかなか爽やかな天候である。運動会が行われているらしい近くの中学校から、マイクを通した声が向かいの棟の壁に反射して聞こえる。案の定というべきか、2日前の“ジャンプ”のせいで、腰に違和感がある。まだ、ゆるやかな痛みだから、日常生活に支障かあるわけではない。これぐらいは、飼い慣らせる、少し緊張があっていい、などと云々。負け惜しみ、なり。

 9月17日(月)

 昼と夜の気温差が激しくなってきた。この日あたりは、秋雨前線の停滞で昼が暑すぎたのかも知れない。道行く人やまわりの人の服装がとりどりなのも、また、おかし。それにしても、一年の巡りはなんとも早い。すぐにも冬がやってくる。『新潮』10月号の「日高」(立松和平)、三分の一ほど読んで、やっと小説の構造が見えてきた。いままでのところでは、何度も出てくるキーワード「雪洞」に閊えていた。たしか「ぼんぼり」と読まなかっただろうか、とその都度立ち止まって、不確かな記憶をまさぐらざるを得なかった。構造が見えたのを潮に今日、辞書を引いて確かめた。ここで使われている「せつどう」つまり、雪の洞穴と、あの雛祭りの「ぼんぼり」ではイメージが違いすぎて、混乱を来していたのであった。まあ小説にとっては些末なことで、「かまくら」ならまだしも、冬山の「雪洞」が実感できない読者が悪いのであろう。このあとの展開を期待して読み継ごうと思う。気が付けば、せつどうもぼんぼりも、冬から早春にかけての「風物詩」であった。

 9月18日(火)

 夜、十数年前の女生徒と遭遇した。道路の向かい側から駆け寄ってきた。20代後半ぐらいになっているが、顔つきは昔のまま、すぐにフルネームが思い出された。結婚して姓が変わり、夫と同じコンピュータ関係の仕事をしている、と明るく言う。顔つきばかりではなく、一つ一つの動作にも、昔を彷彿とさせるものがあった。こんな時間にどこへ、と聞けば、最近オープンしたばかりのスポーツジムでエアロビクスを習っているのだという。しばし立ち話をしたあと、「では、行ってきます」と全力疾走で道路を南下していった。ああ、そういうところも変わっていない、と少々感激。

 9月19日(水)

 ラジオを聴いていると、パキスタンからレポートする記者の切迫した声色の奥で、まるでBGMのように風が唸り声をあげていた。ヒューヒューという、日本でいえば北風の響きである。言葉の切れ目には、ひときわ大きくなった。戦争は起こらないかも知れない、と直感のようなものが湧いた。それにしても、小泉首相もブッシュ大統領も、存在自体が、軽い。有り体に言えば、つまらん男である。
 別の文脈では、もっとつまらないかも知れないぼくは、市街地を横断する道路沿いに、はじける寸前の実をたわわに付けた柘榴の木を見つけて、目を見張った。食べたい、と正直思った。赤いものには、背筋が、ふるえるのであった。

 9月20日(木)

 昨夜すれ違った上福岡の暴走族、締めて四台は、うしろの男がすべて金属バットを肩に担いでいた。それがどんな目的を持っているかは、明らかである。威嚇、はては暴行、時に殺人に至る凶器。最近では、湘南だったかで若い僧侶が被害にあっている。何げなくテレビを観ていると、「きんさん、ぎんさん」の遺影に桃を手向けながら元暴走族の若者が「おれらに普通に話しかけてくれた、はじめての大人だった。気ぃつけーや、と。それで暴走族をやめた」と語っていた。たぶんにNHK的な脚色(美談風)はあるとしても、きっかけとしてはそんなものだろうと納得した。暴走する動機自体が「その程度」のものだからだ。とはいえ、テレビの若者二人は、なにかの職人らしかったが、なかなかいい面構えをしていた。ひとりひとりの中では、「その程度」を越えて、若い頃の無茶な経験が生きているのにちがいない。
 ふつふつと湧いてくるものはある。何とか形象化したいと思うが、こちらの経験は、いまのところ不毛なのか。

 9月22日(土)

 予報では、この朝の最低気温は15度ということだった。昼前半袖シャツで外に出ると、肌寒いくらいだった。風はもう秋のものである。庭の物干し台に赤トンボが一匹とまっていた。第1号である。
『新潮』10月号の「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス)を一気に読んだ。ペンを捨てたか、一冊も著書のない作家列伝ともいうべきもので、ほとんど名を知らない詩人・作家がふんだんに出てくるが、著者の愛情と共感に裏打ちされているせいか気持ちよく読めた。虚実入り交じっているにちがいないが、想像力をおおいに刺激される。太宰治の「トカ トントン」を思い出した。バートルビー族とは「心の奥深いところで世界を否定している人間」(ハーマン・メルヴィルの物語に登場する代書屋)のことらしい。全体の半分の訳出なのが残念。いずれ、単行本になるのだろう。
 帰り道ではついに車の暖房を入れた。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものである。

 9月23日(日)

 午前4時、届けられたばかりの新聞を広げて、仕事から戻った配偶者とまだ起きていた息子とを交えて“団欒”のひととき。こんな風景がほとんど日常と化している。NY時間ならば午後3時、おやつの時間であって、なんの不思議もないのだなぁ、と今朝にかぎってしんみりとする。この生活、体力勝負の側面も隠せないが、日常とはいまここにある現実、常識や通念からは、遠いはずだと、たのしみな読書欄も興味を引く記事がなく(朝日と毎日には)、思念はあらぬところへと飛んでいったのであった。

 9月24日(月)

 思いがけずオフの日となって、一日中「非時」ということばについて考えていた。返り点を打って読めば「時に非ず」となるのだが、広辞苑には仏教用語としてちゃんと出ている。初めてこの言葉を知ったのは、祖母が死んだときだった。葬儀の日にやっと帰り着くと、祖母の家と百メートルと離れていない生まれ育った家の玄関に「非時宿」の張り紙がしてあった。半紙に墨字で書かれ、鴨居に糊付けされていた。あるかなきかの風にふわふわ揺れていた。会葬者に食事を振る舞う家ということだったが、この言葉の響きが無性に悲しかった記憶がある。突然死んだこの祖母は、近所ということもあって格別に可愛がってくれた。兄弟みんな同じ記憶を持っているはずだ。二〇年以上前の、ちょうどいまぐらいの季節だった。
 なぜこの言葉が、甦ってきたのだろう、ということも含めて、ひじ、ひじと呟き続けていた。

 9月26日(水)

 日中は陽射しが強く、この時期も、紫外線は多いらしい。夜があまりに寒いから、昼は逆に“油断”をしてしまう。適応能力が落ちていると思わざるを得ない。首が痛くても、肩が痛くても、日は確実に過ぎていくということか。
 深夜から未明にかけて『宮澤賢治 その愛』(1996年、神山征二郎監督作品)を観た。東京で倒れた賢治が花巻の実家に連れ戻され、みんなに看取られながら死を迎えるところで、一緒に観ていた配偶者が号泣した。「さあ、家に帰るか」と病院のベッドで義弟は、叶わぬと分かっていながら、つまり冗談のように言ったと教えてくれた。逝く、1,2週間前のことである。家で死なせてやりたかったと、涙はなかなか止まらなかった。そうだよな、そうだよな、と声には出さず、われはただ呻くのみ。脳溢血で倒れた父は、「病院に行くか」と聞くと、激しく首を振った。言葉は話せなかったが、ここでこのままでいいぞ、言っていたのにちがいない。
 明け方に見る夢は、どれも寂しい。いまや、夢のみが現実感を持つような情況だから、もっと明るい夢を見たいと思う。アフガニスタンの映像が今夜もたくさん流されていた。どこにも緑がないことがこの夢のようで、慄然とする。“テロ撲滅”も“聖戦”も、ともにうさんくさい。無垢の民の悪夢のような現実を、誰が贖えるのか。どんな正義があろうと、戦争という野蛮な行為には、金輪際「適応」したくない。

 9月27日(木)

 夕方、「GORO」に行く。目当ての『生魄』が、この店にしては珍しく、探せどもなく、『朗読者』の作者シュリンクの最新短編集『逃げてゆく愛』を代わりに買う。冒頭の一編「もう一人の男」を早速読んだ。香り高い作品で、あとの6編が愉しみになった。
「GORO」からの帰り道、丹(紅?)色の太陽を見た。6月のはじめに、職場で何人かと同じような太陽を見たときのことを思い出した。こんどもまた、驚嘆させられた。半身が雲間に隠れて、刻々と色合いが変わっていった。

 9月28日(金)

 春と秋のちがいは何だろう。春から夏にかけて細胞がさかんに新しく作られ、秋から冬にかけては生命活動自体が縮小される、そこにくっきりとした境目が生まれ、樹木の年輪ができあがる。動物の世界でも、あんなにたくさんいた昆虫たち(蚊でさえも!)が息を潜める。冬眠の準備に入るものもある。ひとり、人間だけが、意気揚々と、活動し続ける。春がアンニュイだとすれば、秋はジェラシーか、と思いついた。ジェラシーとは、反自然の罰のようでもある。深い考えは、ないが。
 9月もあと2日を残すのみとなった。「もう10月か」と嘆息まじりに(おそらく)書き留めたのは石川啄木らしいが、その感じは、万人に共通なのだろう。まったく、月日の経つのが、早かった。今日と明日の間に戸を立てて、それを押し開けるのでなければ、明日は来ない、そんな月はないのだろうか。これも、反自然のものの戯言だが、昔々、「時間よ止まれ」というドラマがあったのをいま思い出した。超能力を持った少年のその一言で、生き物はすべて石像のように固まってしまうのだった。その間に、動き回れる唯一の存在である少年は、何をしたのだったか。それが思い出せない。難事件を解決したのだろうか。時を巻き戻したのだろうか。

 9月29日(土)

 揶揄を込めて、週末または土日の男、と自らを呼ぼう。ここ数年、とりわけ秋以降はそんな風である。あれも、これもと焦っているうちは、何も生まれてこない。いいアイデアも浮かばない。『逃げてゆく愛』(読書)に逃げるが、これは人の生き様の奥深さを考えさせて、逃げるどころではない。

 9月30日(日)

 曇りがちの空にて、いまにも雨を誘うかと思われた。早朝、団地のクリーンデーに遅れて参加、掃き集められていた枯葉を素手で掬って、ゴミ袋に詰める。入居がはじまって20年になる戸数280の団地で、顔見知りは相応に老(ふ)けている。だが、清掃に出ている住人の三分の一は3,40代の夫婦と小さな子どもたちだった。三世代にわたって棲み継がれていく、と思うと多少の安堵感も湧いた。こんな年寄りくさい言い回しになるのは、越してきた当初(17,8年前)、一棟に4,5世帯ぐらいしか入っていなくて、夜などは真っ暗闇だったことを、この朝に思い出してしまったからだ。
 集まった50袋もの枯葉は、すべて去年(こぞ)のものだった。
 夜、激しく降り募る雨の中をキンモクセイの香りが白い矢のような勢いで鼻先を掠めた。      
 


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