日  録 初雪はいずこに    

 2007年3月2日(金)

 雪を見ないまま3月を迎えるというのは、なんとも心地よろしくないものである。
 ひと足早い年度替わりのために、昨日今日と本業は休みとなったが、2日間とも、夕方には布団に入って夜中まで眠り続けるという仕儀となった。昼寝のつもりだったが結局そこで睡眠時間を確保していたわけで、あれこれの目論見は潰えた。これもまた不首尾な休日と言うべきか。
 
 日通から新センターに移行した仕事を、同じ条件で続けることになって二週間が経った。数人の社員の顔を見ていると日々窶れていくのが分かる。休憩室で一緒になった誰彼に「大丈夫?」と問えば、「2時間しか寝ていない」「エレベータの中で居眠りです」「Mなどは話ながら半分寝ている、分かってるのかと聞くと、うんうんと頷くがありゃ分かっていない」などと言う。悲愴感はなく、立ち上げた仕事の大変さを愉しんでいる風も感じられるのは、まだ救いである。
 35歳の2代目社長が率いる運送会社にとって、首都圏に60数店舗あるスーパーの物流をすべて賄うこの仕事は、是非成功させねばならない大仕事であるのだろう。としても、この状況は、尋常とは言えまい。
 
 コンピュータで物流をとことん管理したいらしく、システムを開発した会社からも十数人が派遣されている。そのシステムエンジニア何人かとも話す機会があるが、彼らも一昼夜の勤務だという。一ヵ月ほどいて、軌道に乗せてから、次は徳島へ出張です、などと平然と言う人もいれば、家ではパソコンの前に坐る気もしない、と吐き捨てる人もいる。いやぁ、大変な世界だ。
「一緒に、盛り上げてくださいよ」とさきのMさんに言われて続ける気になっただけに、早く軌道に乗ることを祈りたい。

 3月4日(日)

 いささか運転やつれである。1時間経ったいまも躯がふわふわしている。2件メールの返信をしなければと思いながら、次の瞬間には忘れて他のことをはじめている。その繰り返しである。
 午前10時過ぎに越谷へ行き、いったん自宅に戻り、すぐに吉祥寺に向かった。走行距離は200キロ程度だが、午後10時の帰宅まで、運転していた時間はのべ9時間くらいになる。
 青梅街道に入ると、はじめての道のうえに、いきなり交通量が増え、緊張もした。携帯電話で息子から道案内を受けながら細い路地をくぐり抜けて、やっと到着。先達はあらま欲しきものなり、と実感した。
 それにしても吉祥寺、やはりここは「都心」の一角であった。車で来るとなおさら“お上りさん”となったのである。(午前0時10分記) 

 3月11日(日)

 日足が長くなった夕暮れ時に、ふと庭を見るとスズメの群れがさかんに土をほじくっている。あちらにも、こちらにも、総勢10数羽もいる。
 虫のうごめく季節になったのだと思う一方で、小さい頃の思い出が甦ってきた。
 ざるを逆さまにしてつっかい棒で支え、その中に籾殻を入れて庭の頬白をおびき寄せるのである。縁台で、つっかい棒につけた長いひもを握って待ち構え、入った瞬間に引っ張る。空を飛ぶ鳥との勝負だから、タイミングはむづかしい。それでも、かなりの確率で捕まえることができたと思うのは、思い出特有の錯誤だろうか。
 カゴの中で飼おうなどとはいまは思わないが、そんな仕掛けをこしらえてみたい誘惑は覚える。箱の中におびき寄せて、中で餌をつつけば入り口が自動的に閉まる、ねずみ取りのような道具も使った気がするが、あれは、小鳥たちとの勝負では、卑怯な気がする。「きわめて原始的だったから、思い出に残っているのかな」と傍にいる配偶者に問わず語りに言えば、「何度も聞きました」とケンもホロロだった。ゆうべは、若い者らに囲まれて、愉しく酒を飲んだ。終電に遅れて、タクシーで帰宅する羽目になったが、家の前で待たせてタクシー代を払わせたのが、少し影響しているか、と凡夫は考える。これでは、スズメに負けるに決まっている。

 3月13日(火)

 この日は、パソコン相手の、急を要する仕事に専念した。午後1時からずっと、文字を打ったり、コピペ(コピー&ペーストのこと、らしい)を繰りかえていたら、夕方には外が寒くなったせいもあってか根気が続かなくなってしまった。
 気晴らしに、10日の祝賀会あとの懇親会に顔を見せなかった教え子に「元気かい? こちらは目下神経衰弱気味です」とメールを送った。ほどなくして返信があり「のりはくたびれております。くたびれOLです」と書かれている。うまい表現をするもんだなと感心しつつ、就職して5,6年も経てば、いろいろなこともあるだろうが、(半ば本音だとしても)こちらほど致命的ではあるまい、とつい笑みがこぼれる。さらに一信送ったが、それの返事はなかった。

 3月17日(土)

 16日早朝、所沢に向かう途中で雪が落ちてきたのである。あまりにも遅い初雪だが、もっと降れもっと降れ、と応援していた。結局パラパラと舞っただけの、貧相な初雪となった。
 夕方になって、貧相とはいえ、たいがいの人は眠っている時間だったから、遭遇したのは幸運なことではないか、と気付いた。それからは、誰彼に自慢した。
「初雪だったね」
「そうらしいですね。テレビでやってました」
「オレは、出合ったんだよ」
 という具合に、である。へえぇと相手が驚くのが、愉快だった。雪好きの卒業生にもメールを送った。こちらの方は、自慢の意図は伝わらず、「雪だるま作りたかったのにぃ」との返事を寄越した。
 同じ夜、仕事が長引いて、帰途についたのが午前1時過ぎだった。自転車を積み込むために配偶者の勤め先に着いたのが午前2時、自宅を往復するよりはと、そのまま帰りを待つことにした。寒い車中でうつらうつらしていると、午前三時過ぎに、また、雪の気配がしたのである。HP作りに孤軍奮闘しているエイトが思い出され、雪のことやらを書いてメールした。
 かくて24時間、雪に始まり、雪に終わった。眠たさも極まれり。

 3月26日(月)

 FM放送で Asian ミュージック(韓国の歌手だった)を聞きながら、西の空にいままさに沈なむとする上弦の月を見上げていた。歌は哀愁を帯びたバラード調(もとより意味はさっぱりわからない) だったが、今日一日を振り返りながら、感傷的になった。なにかその類の出来事があったわけではないのに、欠けた月は弧愁を招き寄せる。
 講習前の貴重な休日、ドメスチックな用件をいくつか果たす成り行きとなったが、思い違いやら勘ちがいやらで同じ場所を行ったり来たりしたうえ、最後は頼まれた物をレジ台に忘れたまま帰るという体たらく。何ともまんの悪い日ではあった。
 それでも、昨日越谷の甥が帰りがけにくれた水天宮のカッパのお面を、庇の下に取り付け、かねて気になっていたホワイトデーのお返しをみつけることができたのは、一条の光明と言うべきだろう。
 前者は、「家のお守り。南に向けて掛けておくといいよ」と言われ、その通りにした。後者は、日本の古典的な美をモチーフにしたストラップや焼き物だった。一緒に行った配偶者も異を唱えなかった。      
 
 


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