日  録  原郷へ

 2007年4月1日(日)

 昨年につづき、柳瀬川にて花見ができることになった。満開の桜も壮観だったが、土手下の河原を吹き抜ける風が心地よかった。原郷に戻ったように心も全開にできたからだった。
 2,3日前から、誰に言うともなく、「雨は、大丈夫かな。今度の日曜は、花見なんだよ」と口を衝いて出たものだった。それほど、楽しみにしていて、期待以上の楽しさにまた、酔いがさめてからも、夢の如し、である。
 ほぼ1年ぶりに、夫馬さんと田村さんに逢った。また、ミッドナイトプレスの山本さん、岡田さんも、去年の5月以来だった。笹川さん夫妻とははじめてお逢いしたが、同じ風に吹かれてみれば、旧知のような気がしたのである。
 原郷とは、現在進行形としてのなつかしさ、であった。人恋しさに、通じている。

 4月6日(金)

 早くに仕事の
きりがついていよいよ退散というときに、Tがひっこり現れた。こちらも、残業続きだったのがやっと落ち着いたという。数学の参考書に挟まれていた紙切れをみつけたのがほんの2、3日前のことだった。それは、Tが卒論に使った資料の一部、表組みの「吉凶予言瓦版」である。今度逢ったら返してやろう、なつかしがるかも知れない、などと思っていた矢先の出現だったのである。
「こんなものが出てきたよ」と差し出せば、案の定、感慨深げに見入り、質問するままに、仕事の疲れも忘れ果てたように各列の説明をしてくれた。
 1行目の「予言」は1857年、「烏」の名前で「当年、世の人9分死す」「我がかたち(つまり烏、ということか)を画き日々見ると難をのがれん」。次の出典の列が「鶏肋集」となっている。
「あの井伏鱒二?」
「いえ、それは井伏さんが後でしょう」
 ここで既視感に囚われはじめたのである。以前にもこんな風に聞いたか、思ったことがあったのではないか。
 改めて読めば、他の列には、「件、雲州、当年より豊作、孟秋ころから悪しき病流行、我姿を家の内に張り置けば厄難病難除く、文政年間にこの獣(件)が出たとの記述がある」など、興味をそそるものばかりだった。
「返すのやめた。もらっておくよ」
 当時(1年半前)もこうやってもらったものであったのかも知れない。それならば参考書に挟まれていたことの説明も付くのだった。すると、既視感などではなく、単なる物忘れ、ということになるのか。

 4月14日(土)

 昼前、短い外出から戻ってくると、庭にできた水たまりで二羽の山鳩が水浴びをしていた。その泥水から上がってくれないと、車を入れることができない。直前に停めて待つことにしたが、そのうちの一羽などは悠然と浸かって、人や車の出現に動じる気配もない。
 昨日、ホームセンターで砂利の袋を見つけたとき、その大きくへこんだ車の轍を埋めようかと考えたものだった。砂利ならどこかの河原で取ってくればいい(違法かな?)と思い直して、やめていた。そこに未明の大雨が溜まってできた水たまりが、山鳩の恰好の湯治場? と化している。しばし眺める間に、不思議な因縁を感じ始めた。もし埋めていれば、こんな場面には遭遇できなかったのだ……。
 泥水から上がった二羽は、庭の草花の間を散歩しはじめた。少し離れて行動しているが、動き自体に、ある種のハーモニーがある。ここの、どこかに巣を作ってくれないかな、とわれは思い、植木鉢用の皿に水道水を満たして、彼らの傍に置いた。
 小一時間見張っていたが、水浴びはしてくれなかった。やはり、余計なお世話だったのかも知れない。

 4月15日(日)

 かつて「儂(わし)先生」という異名をもらったことがある。授業中たわむれにこの一人称を使ったら、小学生に受けたのだった。4,5年前のことである。その連想で最近、「うら」という一人称が気になりだした。小学生時分、故老ともいうべき大人はみんなこれを使っていた。早速インターネットで調べると、

北陸甲信越の男性が使う。昔は女性も使っていた。ただし若い世代では使われなくなっている。しかし白山麓などでは今も良く使われている。「おら」の地方変種と思われる。』(ウィキペディア(Wikipedia))

 とある。もうちょっと奥深い謂われ(語源)があるかと予測していたのに、これでは、拍子抜けである。
 それにしても、一人称は多くて、びっくりである。それだけ自分という観念が、他との関係で変わるということだろうか。人は、変称動物?

 4月20日(金)

 左手の路上に警官がふたりいる(こちらに背中を向けて仕事をしていた)のを横目で睨んで、いつものように右折、一旦停止してから踏切を渡った。その先が工事中で、交通誘導員の合図をまって大通りに合流した。誘導員にも、割り込ませてくれた車にも、手を上げてお礼を言い、まずは順調な、かつ完璧な運転だと、自画自賛状態だった。
  信号待ちのために停止すると、バイクに乗った先ほどの若い警官がにょっこりと現れ、「あそこは、右折禁止なんですよぉ」と言うではないか。
「そんなばかな。もう何十回も、ああやって渡っているんだけど」
「お忙しいところ澄みませんが、バイクに付いてきてください」
  となってしまった。
 狐につままれた感じが消えず、「標識、本当にあるの? 小さいんじゃないの?」と無駄な抵抗を試みた。
「見てみますか」と相手も言うので、ようし、と現場に戻る。
  線路のそばと、反対側のかなり高い位置に小さな標識(直進と左折を矢印で示したもの)が立っている。警官のひとりは路上を指さして、「ここにも書いてます」と念を押す。
 完敗、であった。というのは、この標識が、「右折禁止」の意味でもあることをすっかり忘れていたからである。売り言葉に買い言葉の気味もあったが、「右折禁止」という言葉が書かれているかどうかに賭けて、現場に戻ってきたのである。
 かくて反則金を支払う羽目になってしまった。たまたま目撃した彼らには、この場合「ネギを背負った鴨」 であり、そのカモは、二重三重の気落ちを経験した。
  一時間後に到着した職場では、壁に掛けた太宰府天満宮の御札が、偶然のようにはらりと落ちた。どこまでの災難か、と口に出せば、心優しい同僚が「これで厄が落ちますよ」と嬉しいことを言ってくれる。気をとり直して、また日常に戻っていった。

 4月30日(月)

 10畝にわたって植えられたジャガイモがみるみる大きく育ってきた。数えてみれば一畝に16株、かなりの収穫が見込めると、「食べる人」のわれは早くも皮算用をしている。
  この連休初日には、準備万端整った残り半分の畝に
植える苗を求めて、配偶者のお供をした。キュウリ、茄子の他に、ピーマン、シシトウ、オクラ、シソなどと、ついつい好みのものを買わせて、「おれも植えてみようかな」と呟くと「やってみれば」と機嫌よく言う。連勝中のカープの試合も途中で観るのを放棄して、畑仕事を小一時間もしたわけであった。
 他がみんなシャキッと立っている中で一株のキュウリだけが萎れている。まちがいなく昨日われが植えたものである。早速如雨露を手に畑におもむくと、畝作りから、マスキング、ネット作りと造作のほとんどを指導してくれる隣のTさんと出くわし、「面白くなってきたんでしょ?」 と冷やかされる。
 そういえば水遣りは、雨(穀雨?)を降らせる天の神になるような気がして、昔から好きであった。


メインページ